2025/09/26号 3面

内灘闘争のカルチュラル・スタディーズ

内灘闘争のカルチュラル・スタディーズ 稲垣 健志編著 丸川 哲史  読み終わり、感動した。複数研究者によるアンソロジー本で、このような野心的かつ、生命力に満ちた本にはほとんど出会って来なかった。悪く言えば、科研費の帳尻合わせと思えるものもかなり出回っているからだ、しかし本書は違っていた。さて、内灘闘争にかかわる年譜的事実。それは一九五三年から一九五七年にかけて、石川県の内灘砂丘で稼働した米軍砲弾試射場に反対する住民、そして支援の学生や文化人も加わり持続した闘争のことを指す。時代背景として、朝鮮戦争にまつわる臨戦態勢と朝鮮特需があること、これはもはや言わずもがなのことではあろう。  本書が「帳尻合わせ」ではなく、「志」によって成り立っているのは、本書「まえがき」の「基地問題を「沖縄問題」にしないために…」あるいは「「基地問題」と私たちを接続させる回路を、より身近に、文化的に多様化させること」などの文言から分かる。タイトルに「カルチュラル・スタディーズ」とあるが、それは本書に限ればジャンルの意味ではない。上記の「志」のために、今を生きる私たちの「五感」を全て使おう、という呼びかけの書である。  冒頭に「感動した」と記したが、それは私個人の人生、またその背景となる戦後史総体について、本書から「五感」で刺激を受けたからにほかならない。恥ずかしいことだが、涙腺も緩んだ。大人となる以前、ラカン風に言えば、想像界の中にいる「自分」を再発見できた境地のようにも感じ取れた。まず、小笠原博毅が言及する試射場の「砲声」への分析の鋭さは、音が意味や情報として成立する以前の「原音」とでも言うべき領野を私たちに開いてくれた。ここには、小笠原が自衛隊演習場の付近で育ったこととも、関連するだろう。また本書で星野太も「砲声」を聞くことと「ルポ」を記すことの葛藤を議論しており、こちらも興味深い。私個人と言えば、もちろん「その」砲声を生で聞いたこともなければ、当時のラジオから流れて来た実況も知らない。しかし咄嗟に、ゴジラ映画を想起し、少年期の記憶を更新することとなった。画面に現れていない段階のゴジラの「足音」は戦争状態における砲声を「原音」化する試みではなかったか、と閃いたのだ。さらには、後に読んだ大城立裕『亀甲墓』の「亀甲墓」の中にまで響いた艦砲射撃「ホーン、ホーン」も連想された。いずれにせよ、本書における「音」への考察は、実に優れている。  私はさらに、高原太一が考察した土門拳の作品に映る「砂」に幼少期を重ねることにもなった。私は和歌山の砂浜で構成された海岸沿いで育った。ちょうど五歳だったころ、歩いてほぼ二分のところにあった砂浜が消えた。砂浜は埋め立てられ、工場地帯へと変貌した。一年間ほどの時を茫然と私は過ごしたが、しかもその工場は父親が所属する会社のものであった。私は実にこのトラウマをずっと抑圧して来たとも言える。  また本書では、小笠原なども重視しているのが、子どもも含めた当時の作文である。私は、たとえば『沖縄の子ら 作文は訴える』〔1966年、パピルス双書〕を思い出した。この作文も、非常にすぐれた「五感」世界の叙述だ、ともう一度気づいた。ところで、先の高原の歴史家らしい、また「らしくない」作文への読みは秀逸である。つまり子どもにとって砂浜は、遊びの場であり、また将来の生業を準備する場でもあった。また砂が持つ物質的特性への考察にも膝を打つところがあった。しかして、そういった分析の上に立って、再び土門拳がどのように内灘(闘争)にアクセスしようとしたのか、その意味がさらにクリアーに示された。  その他の論者の論考にも言及したいのだが、紙幅の都合もありここまでとしたい。が、最後に強調したいのは、稲垣が「アートと言葉は共闘できる」と述べたテーゼである。私は昨年、大学で朝鮮学校の生徒たちの美術作品を展示した。観客の反応でもっとも多かったのは、生徒自身が自分で考えたキャプション=言葉と作品との関係であった。作品を作ることも、またキャプションを書くことも一つの行為なのだが、その連関とはつまり、稲垣が述べたところの「共闘」の実なのだ、と感得できる。チケットのくそ高い美術館に飾られた「アート」群、そのキャプションの陳腐さというもの、これはまさに今日の私たちが住む日本の言葉と感性の貧しさを反映している、と思えて来る。(まるかわ・てつし=明治大学教授・東アジア文化論)  ★いながき・けんじ=金沢美術工芸大学准教授・イギリス現代史・イギリス文化研究。編著書に『ゆさぶるカルチュラル・スタディーズ』など。

書籍

書籍名 内灘闘争のカルチュラル・スタディーズ
ISBN13 9784787235572
ISBN10 4787235575