2025/06/06号 1面

日本人の条件

革命運動の精神3(鎌田哲哉)<遠望の不在―「批評ロボット」の荒廃について>大杉重男著『日本人の条件』(書肆子午線)批判
<遠望の不在―「批評ロボット」の荒廃について> 革命運動の精神3(鎌田哲哉) 大杉重男著『日本人の条件』(書肆子午線)批判  文芸批評家の大杉重男氏が昨年刊行した最新の批評集『日本人の条件 東アジア的専制主義批判』(書肆子午線)が、現代日本社会に問いかける問題とは何か――。和辻哲郎、夏目漱石、徳田秋声、福本和夫、中野重治らのテクストを読み解きながら、憲法九条や「歴史認識」論争の問題について切り込む。批評家の鎌田哲哉氏に本書を読んでもらい、原稿を寄せてもらった。 (編集部)  大杉重男は『日本人の条件』で、主に近代以後の日本の多様な文学テクストを扱っている。そこでは、敗戦後の我々がいかに憲法九条の下で「ロボット」なのか、あるいはいかに「東アジア的専制主義」の下で「外部の命令」に「盲従」してきたか。この事態が執拗に論じられている。大杉はそれを解明するために多大な労力と時間を費した。一つの「問題」が彼の心臓をとらえて行く所まで行かせたのか。それは精神の猫背を強引に伸ばして、高くて遠い視野を大杉にもたらしたのか。  だが通読すると、この書物を可能にしたものが本当は「問題の回避」であって「問題」そのものでないことが見えてしまう。注視すべきは、あらわれとしての批評自体でなく、そのおしゃべりな批評行為を通じて大杉が慣性的に、オートマチックに排除する、そこに不在の「問題」群なのである。各章に散らばるいくつかの発見全てが、この回避と排除の前でとるにたりない。別言すれば、我々日本人の「ロボット」化を論じる大杉の批評にただ一つ、そう発語する自らがどの程度他者の言語の「ロボット」か、という自問がない。不幸にもこの「条件」が、大杉自身をその「自意識」に隷従する「批評ロボット」に荒廃させることになる。   *  大杉はアシモフの「ロボット工学三原則」を参照し、日本国憲法の九条は「日本人工学三原則」に翻訳可能だと言っている。それは我々日本人を「人間」から、アメリカを「主」とする「ロボット」に格下げした、とも言っている。日本人が「人間」であり自らの「主」たるためには九条を削除するほかないが、我々はその時、平和な「ロボット」から無制限に暴力をふるう戦前戦中の「ロボット」に逆戻りするだけかもしれない。この逆戻りを回避するには、「東アジア的専制主義」の変形的表現たる憲法一条=象徴天皇制を廃止するほかなく、その時我々は初めて九条をも廃棄する資格を得る。「東アジア同時革命は、東アジア的専制主義の廃止を前提として「日本人工学三原則」=憲法九条の廃止とアメリカ軍の東アジアからの撤退を含意する」(四六三頁)。――本書の基本主張を勝手にまとめればほぼこの通りだ(十分な引用ができないので、読者はぜひ原文を追ってほしい。大杉が陥る定義矛盾については後述)。  だが、この錯綜した議論の道行きにどこか不自然な前提がある。少くとも、誰もが承認したと言えない臆断を大杉は暗黙に、何かに盲従して他律的に採用してしまっている。それは、(憲法改正に際して、九条と一条を不可分のひと組として扱わねばならない)という臆断である。この前提は正しいのか。一条/九条の存廃は独立に検討すべき主題でないか。  たとえば、仮に大杉がアシモフの三原則を持ち出さず、憲法九条をそれで転釈するごちゃついた談義も一切やめて、端的に「東アジア的専制主義」=「自身の外部の命令に機械的に盲従することを肯定する精神」(一九頁)の批判に集中したとしよう。この場合でも、いやこの場合にこそずっと明快に、「専制主義」の一部として今なお中国や北朝鮮の政治体制と連動する日本の象徴天皇制=憲法一条の廃棄、という遠望に大杉は到達できただろう――目的(=九条の廃棄)を達成する手段の探求、という本書の手法と異なる仕方で。一条の廃棄=共和制の創設という視点そのものから検討を始める限り、この課題は九条=戦争放棄条項の廃棄如何、という別の課題への従属を一切必要としていない。  もちろん、大杉はこの反論の可能性を強く意識している。だから自らの前提を正当化するために、憲法成立の歴史的経緯を持ち出し事前に疑念を封じようとする。  憲法九条は日本人の国際社会への贈与なのではなく、昭和天皇が「戦争責任」を取らなかったことの代償として制定された。憲法一条と九条の間には不可視の運命共同体的つながりがある。民主主義をラジカルに追及し共和制を主張する論者はしばしば憲法一条の削除を主張するが、それは憲法九条の解体に連動する。(七六頁)(注一=2面文末参照)  だが、日本政府が国体を維持する一条のために九条を受け入れた、という事実をもって両者を「運命共同体」と呼ぶべきでない。それはせいぜい打算的な「目的手段関係」でしかなく、この事実は九条を「削除」した場合にそれが一条の「解体に連動」する逆過程が存在しない(だからこそ大杉は新たな「革命」を必要とする)、という推論によって明らかである。だがさらに言えば、我々の本当の疑問はこうだ――一体、たかが起草過程で一条と九条が目的手段関係にあった、という理由で、なぜ大杉は我々主権者を超歴史的にその事実に縛りつけるか。出発点がどうあれ、我々は今、一条/九条それぞれの存廃を自主的に新たな文脈で遠望できるはずだ。大杉の判断は、彼自身が敗戦時の政権中枢の打算=(天皇制を守るために九条を受け入れる)に同一化し、今なお不変の前提としてそれを固守するこわばりの反映でしかない。この同一化において、「ロボット」を論じる大杉の思考自体が「外部の命令に盲従」する「批評ロボット」に腐敗するほかない。   *  だが類似した臆断は、憲法九条自体を扱う論理でもあらわになる。確認すれば、大杉は九条が歴史上初めて日本人を「ロボット」にしたわけでないことをよく知っている。その逆に、日本人は長い間(アシモフのそれとは別の意味で)「ロボット」だったのであり、だからこそ九条をも容易に「ロボット」として受け入れた。大杉自身がこの事実を強調して、本居宣長や磯部浅一の思考を具体例にあげている。  とすれば、本当は次の帰結が生じるのでないか。我々が自らの「ロボット」性を克服できるか否か、それは憲法九条の存廃自体に全く左右されない。仮に九条を廃棄しても精神の生地が「ロボット」のままなら、我々は何らかの外的規範に再び「機械的に盲従」してしまう。逆に、今日の「盲従」と異なる主体的ヴィジョンを九条自体に与え、自ら動いてその延長上に大胆な変革を始めるその時、我々ははじめて「ロボット」を脱してそれ以外の何者かに変貌できるのだ、と。  日本人一般を「ロボット」と呼ぶ誇張表現がどうあれ、我々の大多数は今なお九条の生む歴史的動力を正確には理解していない。数年前に九条改憲が目前に迫り、それが衆愚政治のリーダーの横死により辛くも回避されたこと自体、いかに国民が九条を身に付いた内面的規範にしていないか、いかにそれが柄谷行人のいう「無意識」でないかを明示している。そこでの最大の問題は、九条支持の根拠が安全圏で「殺されたくない」と叫ぶ「市民」の被害者面した自己主張にとどまって、我々日本人がまず何よりも無数の人間を「殺した」側であることの内省に十分には深化していない事実――従って、それらの克服を目指す実践への動力にも揚棄されない事実にある。言い換えれば、日本人の大多数の九条把握は反戦的である以上に反革命的=現状維持的であり、かつて九条と日米安保の間に存在した激しい葛藤すら「市民」内部で失われたのもそのためである。――それに対して我々の「革命」の課題は、日本の国家暴力と我々国民がかつて積極的にそれに加担し、その手をどす黒く汚した経験を正確に記録する努力を続け、それらの全貌を熟考した上でそれを乗り越える自らの格率=「これ以上殺してはならない」を意志的に選択し、その延長上に何かを新たに創造し続ける行動にあるはずである。  だが大杉はそのように考えない。様々な留保はあっても、彼の議論は結局九条を廃棄しよう、我々が「獣」や別の「ロボット」でなく「人間」に戻りうる場合はそれを廃棄しよう、という方向に進んで行く。大杉によれば、「東アジア同時革命」は「市民革命」であり(四五六頁)、革命後の国家もまた「国民国家」でなく「市民国家」である(四六三頁、これらは断固たるインターナショナリズムを欠く点で荒正人の「市民」を連想させる)。だが、「九条の廃止を含意する」この構想では、結局「軍隊」(「革命軍=自衛軍」)が復活し、「東アジア同時革命」を経由する条件で日本が「普通の国」(一三頁)に戻ることが目指されている(大杉自身は終章で「普通の国」という表現を使っていないが、交戦権を回復させる以上読者がそう感じるのは不可避だ)。軍隊内でパワハラやセクハラを許さない健全な組織作りが主張されるが、「軍」は「志願制」だが「国民皆兵もあってよい」という腰の砕けた容認自体、「市民」が「国民」に必然的に腐敗する過程を抑止する準備が大杉のプランにないことを明示している。たとえば、この「市民」どもの「自衛軍」は軍拡競争のエスカレーションをいかに回避できるか。  だが、我々「人民」には全く別の遠望がある。確かに日本は憲法九条によって交戦権を失い、「普通の国」でなくなった。だが、それを元に戻すことを条件反射で「ロボット」的に自己目的化する代りに、探偵の視線で――初めて数滴の水を見る者が、見えない大海の存在をも推理する仕方で事柄を見よう。具体的には、ルクセンブルクが主張した革命の超長期的な過程において同じ歴史的事実を見てみよう。その時、九条の出現は一条の存続を維持する打算的妥協策であるのをやめる。それは、我々が自ら国家の暴力機能を徐々に奪いとることで、いつしか国家自体を廃絶させる長大な歴史の、だが今なお自ら勝ちとったものでない手がかりとしてあらわれる。  おそらく、来るべき「革命」後の憲法改正において、大杉が主張する一条の廃棄=共和制の創設ごときは最小限綱領でしかない。我々の仕事は到底天皇制の廃止で終らない。君主制が共和制に変ろうと、市民=国民国家が存続する限り、資本と癒着し市場をめぐる対外戦争を繰り返すほかない――それがマルクスやルクセンブルクの示す歴史の初歩だからだ。本当の問題は、改正時に(戦争の放棄や共和制創設に続いて)どの程度国境を越える人権の普遍性を定着させ、どの程度我々の国際主義を憲法本文に具体化し、どの程度国家という「私」的暴力を縮減する「公」的条項を書きこめるか否か――要するに、いかに国家の死滅を遠望する「日本革命評議会憲法」を作りだせるか否か、この実践にかかっている。   その全体をまとめるのは疲れた書評者の手に余るが、具体性を与えるために一つ付け加える。たとえば、大杉の古びた「革命軍=自衛軍」構想と逆に、だが九条を初めて自らが選んだ格率に浄化し徹底化するために、我々は日本の国土全体の完全非武装化を憲法条項として書きこむべきである。「自衛軍」のはてしない軍拡の代りに、その悪無限を断ち切るインターナショナリズムの実行こそが我々の「勇気」なのだ。坂口安吾の「意識的無抵抗主義」を「楽観的」と切り捨てる時(一六頁)、自らが引用を避けた個所を合せて読めば、坂口の決断が軍事力以外の全手段をもってする人民的な不服従を意味することを大杉の臆病は見ていない。(注二)かくて革命時の憲法改正とは、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」を公的に現実化することで、我々自身が国家を廃絶しつつ「国民」から「人民」に成長する一過程としてある。大杉は本書で「天下」ばかりか「天」まで盛んに批判しているが、この肝心のテーゼの正当性には永久に言及できない。   *  だが、我々はまだ大杉の決定的な盲点に触れていない。一条/九条の癒着や九条の廃棄如何以上に、政治変動をもたらす「革命」概念の貧弱が問われねばならない。大杉はそれをこう定義している、「革命とは何か。それはそれ以前の秩序を一度すべてご破算にして、秩序を新たに作り直すことである」(八四頁、傍点鎌田)。だがこの定義は過度に一般的で、来るべき「革命」と従来のそれの質的差異を、そこにこそ生じる困難の核心を少しも明らかにしない。この無内容が疑わせるのは、一体彼の「革命」が現実の革命なのか、ということだ。  たとえば、大杉は引用の少し前で「この[日本国憲法の「無意識」の]構造化は敗戦という外部的暴力の結果であり、それを変えるものがあるとしたら、別の外部からの暴力しかない」(七三頁)と言い、その直後に「憲法九条の「改正」は、革命なしにはありえない」とも続けている。これらをまとめると、大杉の「革命」は「秩序を新たに作り直す」ことが可能な「別の外部からの暴力」でしかなく、おそらく大衆内部からの主体的な革命行動と別のもの――一条や九条の廃棄等の巨大な変動を引き起こしさえすれば、「敗戦(占領)」でも「クーデター」でも構わない「外部的」諸事象を指している。にもかかわらず、なぜ大杉はそれらの種差を具体的に問わずに(他の個所では現象の細分化が得意なのに)、全てをまとめて「革命」と呼んでしまうか。  第一部を通読する限り、その理由は一つしかない。それは、大杉が多数のテクストを片端から攻撃する一方、例外的に「一定の説得力」を評価し、「革命はただ一度起きたと想像することができる」(七〇頁)と深く共感もする理論的枠組――すなわち宮沢俊義の、正確には丸山眞男の「八月革命」説にロボット的に盲従しているからだ。丸山一派は革命が現実には生じていない状況で、正確には彼らが軽薄な傍観者として革命運動を見下していた状況で、所与の幸運な政治的果実(ポツダム宣言受諾による国民主権への転換)に寄生し、それを「脳内」で安易に「革命」だと意味づけた。起こってもいないことを起こったことにする敗戦後の「市民」の自己欺瞞はこの時始まった。  ――同様に、仮に今後何らかの「別の外部からの暴力」が生じて「秩序を新たに作り直す」場合、この暴力が客観的には占領だろうがクーデターだろうが、大杉自身が懐手をしてちゃっかりそれを「革命」と呼ぶだろう。「一九四五年八月に革命は確かに起きた。ただしそれは脳内で起きた革命だった」(七一頁)。だが大杉の場合も変らない。「東アジア同時革命」は本当は「東アジア同時脳内革命」でしかなく、それは所詮「八月革命」の擬制への惑溺にすぎない。  もちろん、以上全ては私の推理だ。大杉自身はこうまで正直に、自らの「革命」が「脳内革命」であり「別の外部からの暴力」を当てにしている、と言ってはいない。だが、うわべは「革命」を呼号しラディカルな(?)ポーズを決めながら、他方で自主自律的な革命に必要な生成過程の実質をほぼ回避する考察スタイル自体が、かつて「現実の社会的な出来事」(七一頁)としての革命を回避し、「八月革命」に熱狂した丸山のそれに何と酷似しているか。天皇制の廃棄や言論の自由等へのわずかな言及を除けば、大杉は革命の途上における非暴力の問題や時間性の問題に、あるいはそれを実践する主体の多数性の問題にさえ、少しも触れずに議論を済ませてしまっている。  だが、それに対して我々は言う。幻想ほど革命に有害なものはなく、起こったことと起こったことにすることとの深淵は誰にも埋められない。一体、大杉はなぜ丸山一派が捏造した「八月革命」の幻想を端的に拒絶しないか。我々が自ら行動を始め、それを通じて主体的に獲得したのでもない奇貨を、なぜ君達は「革命」と称して執拗に我々に強いるか。自力では革命のかけらも作れずに、状況に寄生し小利口にそれを美化する自己欺瞞――それこそが、我々の「革命」がまずもって打倒すべき阿Qの精神勝利法ではないか。  今や明らかだろう。大杉の「革命」が幻想の「脳内革命」に熱狂し、革命の現実への不自然なほど自然な無興味無関心に陥ってしまう時、彼の批評に丸山レベルでいかなる「問題」の排除が、いかなる「自意識」の増長と実践性の崩落が、革命主体の多数性へのいかなる感覚麻痺が生じるか。必要なのはこれらの含意を測量することだ。私見では、この症状は「革命」を明示的に扱う第一部以上に、多様な文学作品を論じた第二部で無惨に、反復的にあらわれている。   *  まず、最も単純で他愛ない実例として三島由紀夫論を一瞥しよう(一〇章)。大杉は鈴木邦男を参照して、三島がテロリズムを「一人一殺型」から金嬉老のように人質をとる「立て籠り型」に修正した、それは戦後民主主義の「人命尊重」を内在的に脱構築しようとしたからだ、と言っている。他方で今日、右翼が「人命尊重」を放棄し、小泉/安倍内閣のように人質を見捨てる現状では「一人一殺型」が再びよみがえる、その象徴が山上徹也のテロだ、とも言っている。「「人質」の論理が解体する時、テロリズムは立て籠り型から一人一殺型へ回帰する。安倍を暗殺した山上徹也は、母が入信した統一教会に打撃を与えるために、その広告塔だった安倍を殺した(以下略)」(三五一頁、この後さらに山上と安重根の対比が続く)。  大杉の本領は、特定の枠組(テロリズムならテロリズム)内部で、その区別や変遷を事細かく念入りに行う能力にある。単におたくの言動ならそれでよく、この分析さえ、島田雅彦その他の山上に対する幼い熱狂に比べてまだましかもしれない。だが他方で、「革命」を扱う批評の場合は次の自問が同時に必要ではないか――「一人一殺型」であれ「立て籠り型」であれテロは所詮テロでしかなく、革命運動はそれら全てを克服し揚棄しなければならない、と。  我々は殺人/人質のいずれも嫌悪しそれらを激しく憎んでいる。我々は、革命の目的を実現するためにいかなる種類のテロも必要としておらず、誰かに幻滅した場合に血を用いて報復を図るような、甘えた幻想を抱いて運動に踏みこんではいない。にもかかわらず、不幸にもこの前提を大衆運動の共通感覚たらしめる仕事を終えてもいない。自らは手を汚さずに山上を礼賛する卑劣なモッブは論外だとしても、山上自身が積極的に参加し、それを通してテロリズムへの傾斜を克服する運動を作り出せなかった現状、そこに我々の大衆運動の弱さがあり課題がある――大杉によるテロ内部の狭い品評会からは、この種の自己批評が間接的にさえ生じる余地がないのだ。それでいかに、そして誰とともに革命を起こすのか。   *  以上は決して強引な因縁付けでない。繰り返すが、問題は何かを饒舌に煩瑣に分析する時、それとは別の何かを――より大切で根本的な「問題」を大杉に自然に(?)排除させるその無感覚にある。それは読者を、というより大杉自身を欺くかのようであり、この傾向は作品構造を詳細に分析する場合にさらに増長してしまう。  たとえば、中上健次の短編「カンナカムイの翼」を解釈する場合はどうか(一一章)。大杉はこの章で、『千年の愉楽』を分析するために「「中本の一統」の若者たちの視点と(略)オリュウノオバの視点を区別すること」が「重要」だ、と主張する(三五五頁)。彼はこの読解を『千年の愉楽』の小説全てに適用しているが、最後の作品「カンナカムイの翼」を読む場合、それは必然的に主人公の達男/オリュウノオバだけでなく、達男/アイヌの若い衆の「視点」をも「区別」する企てになる。  オリュウノオバから見る時(略)二人の同盟は、物足りないものとして映る。(略)それは[「若い衆」の言葉は]「友」と「敵」を単純に区別するのではなく、「友」の中に常に潜在的な「敵」を見、「敵」の中に潜在的な「友」を見るという「友」と「敵」の交換可能性の認識に根ざしたものである。しかし達男(略)はこの「友」と「敵」の交換可能性に耐えられない。それは「中本の血」の交換不可能性の意識がもたらすものである。(三六六―七頁)  かくて大杉は「オリュウノオバの視点と「中本の一統」の視点が融合することは一度もない」こと、若い衆/達男のそれも同様であることを示し、それを通じて『千年の愉楽』全作品の同型的「反復」を論証したと信じた。だがその代償として、彼は達男の「自意識の構造」(三五四頁)に定位し、それだけを論じる貧弱で自動化した読解に陥るほかなかった。これではなぜ中上が作品を「カンナカムイの翼」と名付けたのか、その理由が説明できない。少くとも達男があらわにし、他方で「半蔵の鳥」の半蔵達に欠けている「人民の条件」にそれは届いていない。  中上は発端から周到に造形しているが――この条件とは、そもそも達男(「竜」の男)がその自己規定と現実のふるまいにおいて乖離する存在であることだ。オリュウノオバや若い衆との乖離以前に達男自身の自己乖離を、しかもこの乖離が「自意識」への隷従の拒絶を意味することを見るべきだ。それは、「自意識」においてふくろうを自らの「守り神」とみなしながら、本当は竜神ないし蛇神=「カンナカムイ」がそうである事実に凝縮してあらわれている。大杉にとって、この基本設定自体が回避し黙殺すべき解釈上の障害でしかない。だが同じ乖離は、政治行動の急所でも繰り返されるだろう。「自意識」で「中本の血は、誰とも交換不可能だ、と識」りながら、達男は現実にはこうふるまわずにいられないからだ、「若い衆[実際には達男――鎌田]は達男[若い衆]だけをそこに置いて、忽然と姿を晦ますように敵の陣営に行き説得しようとした。本当の敵は他にある」(「カンナカムイの翼」)。  朝鮮人を含む敵対者達に遠望の必要を説き、彼らと自分達の「交換」=連合戦線を求め、「本当の敵は他にある」と語りかけるインターナショナリズムの出現――この行動は、それ自らが「自意識」への惑溺を破壊しのりこえる実践である。しかも、達男がそうするのは若い衆と自らとの読者を試す「交換」においてだ。この自己乖離を出発点にする時、小説の読解は大杉のそれと決定的に変る。路地とコタンは殆ど交換不可能にみえる。オリュウノオバ/達男の視点も殆ど「融合」不可能にみえる。だがだからこそ、これらの不可能性を揚棄し「自意識」レベルの断念を圧倒して「交換」を現実化する、その実践への注視が不可欠なのだ。  大切なのは、達男の説得が長大な時間的連鎖の中にある事実だ。孤立的に点的に切りとれば、惨めにだまされ圧殺された挿話がそこに残るにすぎない。だが若い衆はすでにカムイユカルを引いて、「まず取りあえずだまされる。だまされてからはじまる」ことを洞察している。オリュウノオバも「一回目の達男の後に二回目の達男があってもよい」と直観している。何より、大逆事件に作中で明確に言及していること自体が、彼らの暴動を直ちにその延長上に把握させている。  明らかに、「カンナカムイの翼」にあって『千年の愉楽』の他の作品にない固有の主題――それは、達男と若い衆の企てを個体の生を越えた転形期の一部とみなす所の、超長期的な「時間」の侵入にある。彼らの実践を契機に(はじまり・次・その次)を問い、(一回目・二回目・何回目)を直観する遠望の出現が、差別の空間分析に還元できない通時的累積をもたらして行く。それは大杉を含む多数の研究者達をとらえる、主人公の(研究者自身の?)「自意識」の同型的「反復」を固定化する欲望を壊すものである。それぞれのマイノリティの位相が社会的に交換可能か否か、彼らの横断的連合戦線は可能か否か。これらの問いもまた、路地の共時的断面のみを切りとる操作では永久に解決できない。  おそらく、達男と若い衆の暴動は大逆事件以来のゴルゴタの道を歩み続けるだろう。それは「何回目」にもわたって敗北し、ポンヤウンペのように何度も「だまされる」試行錯誤を通過してはじめて、革命運動の透明と成熟を勝ちとるだろう。路地とコタンを真に「交換可能」にする勝利は、その実践の始まりでなく終りにやってくるだろう。それらの未来を遠望させ、「自意識」をおしゃべりする翼なき同語反復を打ち砕く実践――それこそが、血糊をふるって飛び立つ達男の、我々自身の「カンナカムイの翼」なのだ。   *  だが、はるかにお粗末な具体例がある。その支離滅裂に比べれば、視野の狭さに辟易する三島論や中上論さえ「まだまし」な誤読の典型例がある。それは大西巨人論である(九章)。  大杉がこの結論部で、大西の「「重ね言葉」をつなぐ「・」は男根」(三三三頁)だ(!)とするクイズ王的妄想をいかにエスカレートさせるか、それが失笑を誘う珍説でありながら、彼自身が力んで「解釈に新しい次元を導入」したと自負するために、いかに気の毒で痛々しい印象をも与えてしまうか。その詳細に触れることはできない(読者が自分で体感してほしい)。重要なのは、ここでも現象としての症状ではなくそれを生む立論の前提、それがなければ思い付き全てが崩壊する寂しい出発点である。大杉は書いている。  何があっても決して変わることのない(とりわけ記憶は変わってはならない)人間、それは「人間」というよりは「ロボット」と呼ぶべきではないか。(三三二頁)  大杉はここで、「ロボット」の定義を恣意的に変えている。第一部では、とにもかくにも論理を一貫させるべく、(「日本人工学三原則」等の)外的規範に盲従する個体を彼は「ロボット」と呼んでいた――他方、引用前後ではもはや行為の同一性(「何があっても決して変わることのない」「「忘れました」と言わず「知りませんでした」としか答えない」)が唯一の基準で、それさえ満たせば直ちに個体を「ロボット」と決めつけているからだ。  だが東堂太郎に限らない。これでは『ヨブ記』のヨブも、有島武郎が長大に論じたイプセン『ブランド』(ブラン)のブランドも、ルクセンブルクが愛したマイエル『フッテン最後の日々』のフッテンも――要するに、圧倒的暴力と嘲笑の圧迫下で屈伏を拒絶し非転向を貫く人々は、その言動の同一性を理由に条件反射で「ロボット」に分類されてしまう。彼らが熟慮と逡巡のあげく行う自律的決断の光景さえ、解釈者の湿った「自意識」を脅かすがゆえに即座に抹消されることになる、「一匹の犬、犬になれ、この虚無主義者め。(略)バカげた、無意味なもがきを止めて、一言吠えろ。それがいい。――私は、「忘れました」と口に出すのを私自身に許すことができなかった。(略)私は相手の目元をまっすぐに見つめ、一語一語を、明瞭に、落着いて、発音した」(『神聖喜劇』第一部第二)。(注三)  だが、私が言うのは定義の拙劣な変更自体でない。大杉は別の個所でも、「中国の資本主義化の成功が示すのは、資本主義が必ずしも自由や民主主義を必要とせず、むしろ自由や民主主義のない独裁体制の方が資本主義をより効率よく発展させる可能性である」(八三頁)と言ったかと思えば、その舌の根も乾かぬうちに「そもそも普遍的な「人権」と「人間主義」は、資本主義(略)と不可分の関係にあり」(八五頁)とも言い始めている。こうした愚かな矛盾(または二つの言明を両立させる記述の欠如)に毎度失望していては、到底本書は読み通せない。推理すべきは、矛盾自体でなくそれを貫く動機に、大杉が定義変更を犯してでも、東堂太郎を絶対に「ロボット」と呼びたかったその底意にある。疑いなく、それは『神聖喜劇』の世界をこう改竄するためである。  東堂は「我流虚無主義者」を自称しつつも社会主義に共鳴していて、日本の「人民」(直接には冬木二等兵から大前田軍曹にいたるさまざまな兵士たち)を主人としている。(略)東堂は「主人」を教育し、薫陶する。もちろんその教育は言わば「ロボット三原則」に従った、あくまで「主人」のための教育である。ここに東堂の本質的な「ロボット」性=「スノビスム」がある。(三二七―八頁)  「私の書くもの」は「読者をテクストという荒野に引き出そうとする」(四七三―四頁)、そう頼まれもせず胸を張る読解がこのざまだ。だが客観的に、その威勢よさは以下しか意味していない――大杉の「自意識」は、たとえば『神聖喜劇』の鉢田が腹違いの妹宛に書いた手紙を読むことができない。鉢田が大前田の戦場経験に何を公然と言い、橋本がそれに重ねて何を言ったか、東堂がそれらの手紙や発言をいかに聴いたかを読むことができない。村瀬の石川啄木を連想させる示唆が、状況に再三肉薄する冬木の公的発言と合せていかに東堂の危うい「育ちのよさ」を揚棄するか、それらを通じていかに彼らが自然発生的に「食卓末席組」を作りだし、その対等で率直な相互批評の中で、いかに変りえないはずの「我流虚無主義」の「裃」を主人公が自ら脱ぎ捨てるか――それら全てを読むことができない。もし読めたなら、仮定された定義を歪曲して主人公/仲間の関係を「ロボット」/「主人」のそれ呼ばわりする差別や、「ロボット」が不変のままで一方的に「「主人」を教育し、薫陶する」、という誹謗中傷は一切生じなかった。逆に「自意識」への盲従がそれらの読解を拒む時、大杉が読めないものは小説だけでなくなる。究極的に、彼はテクスト読解を可能にしながらそれに還元できない決定的な遠望を――「革命運動の精神」自体を見失ってゆく。それは『神聖喜劇』の彼方の時空で、だがそれらと深く響き合う旋律で今も聴こえてくる。  これまでの全ての革命では、革命的な闘争を指揮し、それに目的と方向性を与えたのは人民のうちのわずかな少数者だった。彼らは自分自身の利益、つまり少数者の利益を勝利に導くために大衆を道具としてのみ利用した。だが社会主義革命は大多数の利益のための、ただ労働者の大多数の力によってしか勝利に至ることのできない、最初の革命なのである。  プロレタリア大衆には、透明に認識された目的と方向性を革命に伝える使命があるだけでない。この大衆は自発的に、自分自身の活動の力を通じて、社会主義に一歩一歩生気をも吹きこまねばならない。  社会主義社会の本質は、労働する巨大な大衆が支配される大衆であることをやめ、その逆に全ての政治的で経済的な生活を自ら生きぬき、意識的で自由な自律においてその生活を導くことにある。 (ルクセンブルク「スパルタクス・ブントは何を求めるか」、鎌田試訳)  このような「革命」が完全に実現したことは世界史上一度もなかった。「労働する巨大な大衆」自身が「意識的で自由な自律」を行う革命評議会は、ある時はボルシェヴィキの超中央集権主義に、別の時には社会民主党右派のテロリズムに、「政治的な生活」の若芽を絶えず砕かれ破壊されてきた。だが、それは「自発的に、自分自身の活動の力を通じて」歴史を生みだす課題の困難を示す一方、ルクセンブルクや大西の意図すらはるかに越えた、課題自体の圧倒的な普遍性を少しも否定していない。  もちろん、大杉にこれらの課題を共有する気は皆無だろう。だが、私が言うのはそれがイデオロギーの差異や、(大杉が革命の「実践の方法論は今のところない」(四六四頁)と言う場合の)操作的な「方法論」に還元できない、ということだ。ここでは強いられるものだけが「問題」だからだ。革命が我々を促し、その思考にさわやかな外気を与えるのであり、我々が革命をイデオロギー的/方法的に操作するのでないからだ。  我々の精神の基底に、「自意識」の増長とそれへの盲従を原理的に拒否する実践への微光が存在し、その多数多様で自然的な促しを遠方の光源と豊かに交響させ合うこと、それが革命的批評の仕事であると同時に使命でもある。だが、『日本人の条件』――そこでは遠望を欠く典型的な「日本人」=「批評ロボット」が、「革命」を最も論じるべきでない仕方で論じる不幸が集中的に表現されている。   *  追記――「頭を挙て高くも遠くも望めよかし」(上田秋成『霊語通』)。本書を読みながら、かつて上田が本居宣長に投げた一句を私は何度も思い出していた。しかも、この遠望の不在は大杉の日常闘争までもひ弱にしているように感じた。たとえば、彼は東浩紀を批判して、「売れるかどうかだけが価値判断の唯一の基準になった」ことを「否定する」(四六九頁)。その場しのぎの愚連隊をどこまで相手にすべきかはともかく、大杉の主張自体は少しもまちがっていない。だがその割に、本書は後に行けば行くほど、売らんかなの駄本レベルで校正ミスが多くなる。全部を書かないが、助詞の抜けがちな引用誤記や「橋本文三氏への公開状」(三五〇頁)や「アンビキュアス」(四三八頁他)はまだましで、「琉球の沖縄対しては」(三一三頁)のように、前後の全く通じない寂しい個所まで生じてくる。  だが、これでは死に損いのレーニンが提起した格率=「量は少くても、質のよいものを!」にすら及ばない。物事の価値が「消費」で決まらない以上、大杉は今こそ「生産」に全力を集中すべきでなかったのか。もちろん校正は革命同様「現実の出来事」であり、一人で「脳内」で完結すれば必ずその報いを受ける。とすれば大杉の批評の欠陥は、周囲にごろつき消費者がいないことでなく、生産点で無能な書肆に囚われ、自らの「食卓末席組」を遂に持ちえなかった「現実」にあるのでないか。 (五月二五日、邑久光明園構内の音楽を聴きながら)  (注一)大杉はこの後で、憲法一条の「象徴」が前文の「決意」の「象徴」だ(だから一条を削除すれば九条の存在理由もなくなる)と主張するが、むしろ我々は「象徴」に依存せず「戦争の惨禍が起ることのない」ことを「決意」すべきなのだ。しかもそれは「歴史的経験」を対自化したもので、大杉が後段で想定する単に「普遍的抽象的な」決意でない。  (注二)大杉が坂口の発想を「裏返された一億総玉砕主義」(一七頁)と呼ぶのは、表現自体が三島のナショナルな「文化防衛論」への盲従である。  (注三)しかも、大杉はこの操作において一つの事実を忘れていた。それは大杉同様、東堂の言動が「決して変わ」らないのを得意気に非難する人物(=「帝大出」でクイズ王の谷村)がとうに小説中にとりこまれ、それを通じて非難者固有の小動物的(主観的には「人間的」?)生態が活写されていることだ。大杉の批評はここでは谷村への「盲従」にみえる。「いや、君が酒を断わったのも、沢柳たちに剣突を食わせたのも、条理は立派に立ってる。君の言ったりしたりすることは、いつでも条理が立派に立ってて、それがまた――特に軍隊では――まずいんだなぁ」(同第五部第二)。(了)

書籍

書籍名 日本人の条件
ISBN13 ‎9784908568459