深海の闇の奥へ
エディス・ウィダー著
瀬戸内 千代
深海は、「光またたくごた混ぜスープ」だと著者は言う。深海といえば漆黒の闇、という先入観は、この本を読むほどに薄れていく。
水族館の暗くした水槽の展示などのおかげか、日本では、この世に発光する魚がいるという知識は割と一般的だ。しかし、エビやクラゲやバクテリアなど、発光生物の種類の広がりや、発光の生理学的な仕組みや、そもそもの光る理由については、それほど知られていないと思う。深海魚の目が大きいのは、わずかな光をとらえるため、という理屈は分りやすい。一方で、目が退化してしまった生き物もいる。その違いは何だろうか。深くなり暗くなるほど退化するという単純な話ではなく、海底に近付くと再び、目を発達させた生き物たちが現れるという。そのあたりの理由付けを、著者は、最新の知見を織り交ぜつつ鮮やかに語る。発光生物は謎に満ちているため多くは仮説だが、繰り返し潜水艇で深海に潜り、自作の装置で発光生物を観察し続けてきた著者の言葉には説得力がある。
著者のエディス・ウィダー氏の日本での知名度は高くない。しかし、彼女の姿や声を見聞きした人は少なくないだろう。NHKで放映されたドキュメンタリー番組の中で、ダイオウイカの撮影成功に船上で大喜びしていた科学者の一人だからだ。著者は、生物発光の専門家として、その航海に参加していた。そして、イカ博士として知られる窪寺恒己氏が潜水艇でダイオウイカと対面するという夢のような快挙に貢献した。どのような光を発すれば深海の捕食者たちの気を引けるかを知っている著者は、ほかにも、ディスカバリーチャンネルやBBCなどの制作現場に招かれている。協力に至る経緯や葛藤、視聴率を上げたいマスコミ側との攻防などの裏話は非常に興味深い。科学者として譲れない部分を守ろうとする彼女たちの誠意に頭が下がる。
書店で、理系の学者が書いた約三センチ厚のこの本を見れば、多くの人は敬遠するだろう。しかし、これは、研究実績だけを書き連ねたような本ではない。一人の学者の自叙伝でもある。歯切れの良い言葉と、明確な論理に、著者の性格や知性がにじみ出ている。女性ゆえの屈辱的な出来事も余裕の態度で流す書きぶりが小気味よい。しかも、彼女の人生は信じられないほど起伏に富んでいる。両親はエリート学者で環境に恵まれ、順調なキャリアを積み上げてきた人物にも、これだけの苦労談があることに改めて驚く。他人の背景を思いやる想像力を育むためにも、自分の目標を見つめ直すためにも、若い人にこそ手に取ってほしい一冊だ。大病を乗り越えた学生の記録として、一人の女性の仕事の軌跡として、身近な人間を信頼し愛する生き方のお手本として。
ユーモア好きの著者が随所にアメリカンジョークを散りばめているから、脚注も見逃せない(たまに意味がわからなかったが)。また、スマホ片手に、本書に登場する生き物の画像や、著者や関係者のTEDでのトーク動画などを検索しつつ読み進めると、読書を何倍にも楽しめる。装丁には、発光のきらめきが表現されている。特に光をまとった表紙の色合いや描かれた深海イカのデザインは素晴らしい。
本書の最後のほうで、著者は不意に環境活動家としての一面を見せる。実際、著者はORCAという非営利団体の発起人でもある。「わたしたちは、海洋がどんな場所かもよく知らないうちに、早くも破壊しつつある」と深く認識したからこその行動だろう。深海の女王と呼ばれる海洋学者のシルビア・アール氏を筆頭に、海洋生態系の危機を知ったがゆえに普及啓発に本腰を入れる科学者は少なくない(著者は氏と親交があるらしく、本書でも何度かリスペクトを込めて名前を挙げている)。海洋調査は、本書からうかがえる通り、死と隣り合わせだ。洋上での調査も、深海への潜航も、体力、知力、精神力を尽くして取り組むハードワークである。それを長年続けてきた彼女たちの言動は冷静だが熱い。
著者は繰り返し、「観察し、不思議に思う」ことの重要性を説く。現場に赴くフィールド科学は過酷だが、かけがえのない知見をもたらす。日没後にラッシュアワーのように大挙して深海から泳ぎ上がる生物たちの描写には圧倒された。著者は、深海生物に気付かれずに撮影する技術や、光る人工クラゲで語りかけて発光生物たちに応答させる技術を開発した。地球のほとんどは未知なる海である。新たな発見の予感に胸が高鳴る。(橘明美訳)(せとうち・ちよ=海洋ジャーナリスト)
★エディス・ウィダー =海洋生物学者。米国の海洋調査保護協会(ORCA)の共同設立者、CEO、シニアサイエンティスト。
書籍
書籍名 | 深海の闇の奥へ |
ISBN13 | 9784314012157 |
ISBN10 | 4314012153 |