2025/10/31号 4面

ヒトはなぜ恋に落ちるのか

ヒトはなぜ恋に落ちるのか ロビン・ダンバー著 小野 由莉花  恋に落ちる、とは、誰もが自然に経験できるようでいて、その実態は非常に面倒である。いいな、と思った相手に選ばれるために、戦略を立て、時間とお金を使い、相手の気持ちやタイミングを察して行動しなければならない。この努力は必ず報われるとは限らない。関係が成立したとしても、次は相手をつなぎ留める努力が求められる。自分に何の落ち度がなくても、突然の裏切りによって関係はたやすく崩壊することもある。  そこまでの労力を割いてまで、誰かと親密な関係を形成する必要はあるのだろうか。恋愛は「どうすれば親密な関係が形成できるのか」に焦点が当てられがちだが、本書は「なぜ親密な関係を形成したいのか」について、改めて疑問を投げかけるものである。  本書は、特定の個体との間の親密な感情的結びつきである「ペアボンド」をキーワードに、恋愛の生物学的側面と心理的、社会的、歴史的、進化的文脈とのギャップを埋めることをテーマとしている。前半(第2章~第5章)では、ペアボンドの形成と成立のメカニズムについて、脳やホルモンといった生理的機能をベースに解説しつつ、ヒトがペアボンドを求める理由を探る。たとえば進化の観点では、ペアボンドを形成する利点は、2個体が協力して子育てを行うことで子の生存確率を高められることにある。2羽のツバメが交代で卵を抱き、ヒナにエサを与える光景はその典型だろう。しかし、ヒトのペアボンドは、美しい羽根をアピールすれば形成できるほど単純なものではない。脳の発達は言語を生み出し、ペアボンドの形成、維持を複雑で面倒なものにした。当たりのパートナーとペアボンドを形成し、生殖に成功することには、それだけの意義がある。  では、生殖に価値を置かなければ、ペアボンドは必要ないのだろうか。本書の後半は、そのような疑問に対してヒントを提示する。親族や友人といった他の親密な関係性との比較(第6章)、裏切り(第7章)、宗教における愛(第8章)、オンライン上の愛(第9章)と、様々な文脈におけるペアボンドについて考察し、改めて恋愛関係におけるペアボンドの必要性を指摘する(第10章)。考えられる一つの仮説は、ペアボンドは生殖の成功という生物学的側面だけでなく、自分を裏切らない他者を確保する、という心理的、社会的な側面でも重要な機能である、というものである。他者に裏切られることは生殖の失敗だけでなく、耐え難い苦痛をもたらす。崇拝する神への愛や、仮想現実的なオンライン上の愛は、自分の好みに合うように頭の中で作り上げたイメージと恋に落ちているに過ぎないと著者は指摘する。たとえばマッチングアプリで出会った相手と関係性が進展しにくいことも、自分が相手に抱いていた理想像が、実際に会うことで裏切られてしまうためであるかもしれない。  重要なことだが、本書の原著は2012年刊行であり、いくつかの知見は現代社会では既に古くなっていることには留意する必要がある。たとえば、著者は、触れあい(タッチ)のないデジタルメディアの交流が対面の交流に取って代わることはないだろう、と述べている。まさか世界的なパンデミックにより他者とのタッチが制限されるなど、誰が想像できただろう。理想像を裏切ることなく、自分を肯定してくれるAIは、今や友人や家族と並ぶ信頼できる相談相手だけでなく、恋愛、結婚相手と考えている人すらいる。生殖を望まないのであれば、AIとのペアボンドは、人間相手のような努力も必要なく、裏切られるリスクもない、最高のパートナーを手に入れることにもつながり得る。  果たして今なお、面倒で複雑な「ヒトとヒト」との親密な関係を求める理由はあるのだろうか。本書は、その仕組みが解明されたとしても、恋に落ちることや傷つくことの痛みは変わらないと述べている。結局のところ、どんな面倒さや複雑さを引き受けてでもその人が欲しいという覚悟が、恋に落ちる、ということなのだ。(吉嶺英美訳)(おの・ゆりか=京都橘大学総合心理学部総合心理学科助教)  ★ロビン・ダンバー=進化心理学者・オックスフォード大学認知進化人類学研究所元所長。著書に『ことばの起源』『なぜ私たちは友だちをつくるのか』『宗教の起源』『人類進化の謎を解き明かす』『友達の数は何人?』『科学がきらわれる理由』など。

書籍

書籍名 ヒトはなぜ恋に落ちるのか
ISBN13 9784791777242
ISBN10 4791777247