2025/07/04号 5面

受け手のいない祈り

受け手のいない祈り 朝比奈 秋著 水原 涼  朝比奈秋の主人公は例外なく夢を見る。幻聴を聞く。それは彼らが常に、心身ともに大きなストレスを受けているからだ。現実に手のなかにあるものだけではその極限状態に対処できない。だから彼らは頻繁に幻の世界に足を踏み入れてしまう。  本書においても、夢や幻覚は重要なモチーフとして繰り返し描かれる。朝比奈作品は、患者を主人公とし、それぞれの傷病の文学的可能性を最大限に引き出すタイプの作品と、医師を主人公とし、〈医は仁術〉という格言のそらぞらしさを暴くタイプの作品に大別できる。本書は後者だ。語り手は大阪の郊外の、近辺で唯一、二十四時間救急患者を受け入れる病院の外科医師だ。シベリア抑留から生還した初代院長によって定められた院是〈誰の命も見捨てない〉を実現するため、医師たちは、ろくに家にも帰れず、ほぼ休みも取れずに働くことを強いられている。失神からようやく目覚めた同僚に医長が投げつける、「この状況わかったうえで倒れた?」という言葉に象徴されるように、医師たちは、語り手が、もう労働を求められることのない〈末期癌の患者さえ羨ましい〉と述懐するほどに追い詰められている。  病や怪我をかかえた患者たちは文字通りに命がけで、自分の健康だけしか見えなくなっている。だからそこにもう一つの命──医者の心身がかかっていることを簡単に忘れてしまう。ほとんどの人にとって、横になるのは休むときか死ぬときだ。しかし医師たちは、死ぬときすら横になることは許されない。語り手の学生時代の友人は真夜中、気分転換のためか度重なる徹夜で膨らんだ眠気を散らすためか、シャワーを浴びているさなかに〈背骨を立てたまま〉死んでいた。医師の命と患者たちの命、天秤にかけられるはずもないのに、常に後者が優先される。死ぬまで終われない献身。  本作では、友人の死を告げる電話を受けながらも食事を続ける冒頭から、患者の小腸の切片を飲み下し嘔吐するラストシーンにいたるまで、食──その栄養によって支えられる生──と、医──その先に確実に存在する死──がたびたび重ねられる。その手法には、消化器内科医として働いていた著者の経歴が反映されてもいるだろう。同僚医が、語り手の食事中に患部の写真をテーブルに並べる場面が象徴的だ。〈天津飯、アニサキスがぶら下がっている胃、赤く腫れたファーター乳頭、中華スープ、水膨れした腸、巨大な肛門癌、グリーンサラダ。〉門外漢には理解しづらい語もあるが、そのすさまじさは伝わってくる。  展開やモチーフだけでなく、文章のレベルでも食と医は重ね合わせられる。そもそも、『サンショウウオの四十九日』の印象的な「ししゃも」をはじめ、朝比奈はそのキャリアを通じて、人体を食べものになぞらえる比喩を多用してきた。本書でも、腹腔に詰まった小腸は白子に見え、死者の口は茹だったアサリのようにぽっかり開き、癒着した部位は煮込まれたシチュー肉のように簡単に剝がれる。食物の比喩の多用は、病院の近くの歓楽街、そこで働く女たちとの食事の席が、病院からの、つまり患者との関係からの逃げ場所として描かれていたこととも関わっているだろう。しかし、限界を超えてなお働き続けるうち語り手は、歓楽街を行き交う人々すら、どうせ患者になる人間としてしか見えなくなっていく。  末期癌の患者を羨み、僧侶の不眠不臥の修行も楽なものに感じられ、治療を受けなければ死んでしまう患者を〈ずるい〉と非難する。毎日寝られる日常を送る者が読めば、医師たちの言動はほとんど露悪的なものに感じられる。語り手が人工肛門から大便を漏らす場面ではじまる「私の盲端」をはじめ、朝比奈は、公にすることが憚られる行為や思考を強調して描いてきた。病変した部位と食物を交互に並べる場面をはじめ、本作でもそのことは変わらない。追い詰められた果ての切実な露悪でしか描くことのできないものを朝比奈は描こうとしている。(みずはら・りょう=作家)  ★あさひな・あき=医師・作家。著書に『植物少女』(三島由紀夫賞)『あなたの燃える左手で』(泉鏡花文学賞)。「サンショウウオの四十九日」で芥川賞。一九八一年生。

書籍

書籍名 受け手のいない祈り
ISBN13 9784103557326
ISBN10 410355732X