2025/09/19号 3面

生物学を進化させた男 エドワード・O・ウィルソン

生物学を進化させた男 エドワード・O・ウィルソン リチャード・ローズ著 林 真理  エドワード・オズボーン・ウィルソン(1929―2021)は、著名な米国の生物学者である。本書は、長大な『原子爆弾の誕生』(もう40年も前になる)で知られるノンフィクション作家リチャード・ローズが、ウィルソン本人から長期間にわたる聞き取りを行って描いた、この生物学者のほぼ生涯全部に相当する包括的伝記である。  アリ探しが大好きだったアリゾナ出身の少年は、学部生時代からその才能を遺憾なく発揮し、昆虫学あるいは島嶼生物学の研究を行う専門家として、研究者の道を志すようになる。ハーバード大学はその能力を認め、研究員に続いて教員ポストをもって迎えた。ここまでは生物学内部でのストーリーである。  しかし、その後のウィルソンは、人文社会科学の研究界隈も含め広い学問の世界でその名前が知られる存在になる。それは『社会生物学』(1975年)という挑戦的かつ体系的な著作の出版によってであった。  ローズの記述は、社会生物学の二面的な意味を強調しているのが特徴的だ。  生物学者にとっての意味は、生物の社会的行動という現象も統一的な見地から生物学の対象たりうることを示すというものであった。時代はまさに分子生物学の全盛期であった。すべての生物に備わっているDNAと20種のアミノ酸によって作られるタンパク質こそが生命現象の基本であるとされ、こういった生命現象の共通性に着目して、細胞や培地を使ったラボで実験を行うことこそが生物学の王道として注目されるようになった。その正反対にあるのが、フィールドで観察される生物の社会的行動という現象の研究であると見なされる。しかし、進化生物学の数学化、理論化を用いつつ、生物の社会的な行動についても体系的な分類や記述が可能であることを大量の実証研究のレビューによって示したのが『社会生物学』であった。社会生物学は進化の総合説に組み入れられ、分子生物学とのあいだも架橋される可能性が示された。この点は、同僚でもあった分子生物学者ジム・ワトソンとの関係とともに語られる。  しかし、もう一つの意味の方が、幅広く認知されている話題であろう。  『社会生物学』は、人文社会科学を自然科学化しようとする大胆な試みであった。それは、人間の社会もまた他の生物社会と同等な進化生物学的基礎を持っていると主張した。人類学的な知識を、他の生物の行動や社会についての知識と同じ平面上に置き、ヒトの行動の進化的な意味を探求しようとしたのである。  加えて、進化論的な研究が倫理の合理性を示すことができるかのように論じ、社会学について「人間行動を真の遺伝的意味での進化の説明抜きで、主に外観に表れた性質の経験主義的記述と直観でもって説明しようとする」(日本語版第1巻)と述べるなど、異分野の学問方法に口を挟む。そのことは当然多方面からの批判を生み、激しい論争が起こった。  伝記はウィルソン本人を中心に描かれるので、多数の非難や暴力の犠牲になるウィルソンは被害者である。それも真実に違いない。ただ、それらの周囲の反応は時代の文脈から理解(決して正当化ではない)することも可能である。たしかに、人間の様々な性質が進化の過程で形作られてきたものであることは間違いない。しかし、まだヒトゲノム研究も始まっていない時代に、ヒトの行動には遺伝的基盤があることを断定的に述べ、それらが進化的適応の産物であるに違いないと決めつけて研究プログラムを進めていこうとするのは、一方的過ぎるとも言えた。理論的にも実証的にも問題点を挙げることは可能だった。  また、ウィルソンが在籍していたのは1970年代後半のハーバード大学である。同僚にはスティーブン・J・グールドやリチャード・C・レウォンティンといった「人民のための科学(Science for the People)」グループの生物学者がおり、ベトナム反戦運動の余韻がキャンパスにも漂った。「利他主義altruism」といった単語をヒトにもアリにも同じように躊躇なく適用するような素朴生物学主義的な言明が、遺伝決定論批判という反発を導いたことは理解可能である。いずれにしても本書は、そういった科学主義や遺伝決定論を巡る論争が、ウィルソンという科学者をどのように振る舞わせるのかを教えてくれる興味深い記録であると言える。  さらに、その後のウィルソンの遍歴は興味深い。1984年の著作で提唱したのは、「バイオフィリア」(生物に囲まれているときに感じる、豊かで自然な喜び=本書300頁)という考え方であった。この数年前から、ウィルソンは、熱帯を中心とする地球上の種の大規模絶滅の危機を訴え、自然保護活動家として活躍するようになっていた。論争家から活動家への変身は、極めて驚くべきものに見えるのだが、ローズはウィルソンを一貫した科学者として描いているように見える。「アカデミアの醜悪な論争」を離れてナチュラリストに戻ったと表現されている。  しかし、若くて活動的なフィールドワーカー時代には、生態学的な実験のために一つの小さな島全体を燻蒸してその島の動物種のすべてを局所的な絶滅に導くといったことを平気で行っていた研究者が、バイオフィリアという「徳性」を発露するようになることについて、一貫性に疑問を感じないでもない。それでも、生物多様性の時代になって、ウィルソンがさらに別の活躍の場を見出したことは確かである。  二十世紀は古典的な生物学から新しい生命科学へと、さまざまな大きな科学史上の変動が起こった。そういった時代の流れを反映し、時代の変化とともに目まぐるしく走り抜けた二十世紀の生物学者の人生の伝記と言える。(的場知之訳)(はやし・まこと=工学院大学教授・科学技術論)  ★リチャード・ローズ=アメリカのジャーナリスト・作家。一九三七年生。

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