文芸8月
山田昭子
音声対話型AIアプリで会話をすると、当然だが記憶力の良さに感心する。こちらの話したことをすべて記憶し、問いかけにも淀みなく答えてくれるからだ。相手が何かを覚えていてくれることは、対人関係において時に嬉しさをもたらすが、AIの場合、そこに虚しさを感じさえする。それは人間の記憶との違いにあるのだろうか。人間は、過去の出来事を思い出す際に、勘違いをしたり、記憶を改竄したり、思い出せなかった何かを新たに創出することがある。「思い出す」行為は時に人を苦しめるが、一方で救いにもなり得る。その意味で生きるということは思い出し記憶することでもあろう。
「思い出す」ことで過去に捉われ、抜け出せない男の物語を描いたのはピンク地底人3号「カンザキさん」(『すばる』)だ。十五歳の頃から鬱病と希死念慮に悩まされていたノミは、大学卒業後、一年間の引きこもりを経て配送会社に就職する。そこで出会ったカンザキという男は、理不尽な暴力、暴言でノミを悩ませる。
語りの現在は配送会社を辞めて十年後のことだが、ノミが退職に至ったいきさつについては描かれない。カンザキの最大の暴挙の場面は冒頭部分と結末部分で繫がっており、ノミにとって過去のトラウマから抜け出せないループとなっていることを暗示する。現在もなお色褪せない恐怖の記憶が生々しさとともに迫る。
思い出すことで苦しむ人がいる一方で、回復を図ろうとする人もいる。間宮改衣「弔いのひ」(『新潮』)の須崎織香は小説家で、新人賞受賞後スランプに陥っていた。初期の鬱病だと診断された織香は、亡父のことを書こうと決める。だが、父と向き合うことは母と対峙することでもあった。幼少期の織香に、自立を促しながらも良い成績を取れば釘を刺し、自信を打ち砕いてきた母とは現在連絡を取っていない。女だからという理由で母とともに進学に反対した父は、亡くなった後も〈不在の存在感〉を放つ。織香は小学生の時、「書く」ことが好きだった。過去の自分はインナーチャイルドとなって現れ、現在の「書く」ことができない自分を苦しめる。一方、亡父は織香の中で幻影となって現れるようになる。幻影の父との対話を果たした瞬間、インナーチャイルドは姿を消し、織香は回復へと向かい、母とも向き合えるまでになる。「書く」ことに立ち向かう力は、損なわれた自己を回復し、母のためにではなく自らのために母を許す力へと繫がっていく。本作における〈不在の存在感〉というテーマは次の二作品にもあてはまる。
鳥山まこと「時の家」(『群像』)の青年は、取り壊し予定の家に忍び込み、幼少期にその家に招いて遊んでくれた藪さんとの思い出を残すために床、柱、天井、タイル、壁を描く。それらのスケッチは、なぜか青年が知るはずもない、藪さんの死後の住人の緑、さらに圭と脩夫婦の記憶を浮かび上がらせる。二番目の住人である緑は死の感覚がうまくつかめずにいたが、かつて「死」と「長く会えないこと」の違いについて問うた親友の一言を思い出す。ずっと一緒にいる夫への感情は不確かな一方で、震災によって永遠の不在となった親友の方は鮮明な記憶となって存在感を放つ。思い出すことができる限り、死者は時に生者より強い結びつきをもたらす。
そして人は思い出したことを忘れないために「描く(書く)」。青年もまたスケッチをしながら藪さんと過ごした時間を思い出す。人に「描く(書く)」ことが希望としてあり続ける限り、「ここにいた誰かの記憶」が失われることはない。
吉田修一「おそらく彼女たちは」(『トリッパー』)の男性は、コロナ禍で自宅勤務になったことをきっかけに、公園の散歩中に見かけた小さな柴犬と飼い主の女性が気になりだす。だが両者が言葉を交わすことはない。敢えて直接的な接点を持たせず本作が描こうとしているのは、男性が次第に自身の中でつなぎ合わせていく女性の断片だ。男性は女性に不信感を与えないよう、会うことを避けるが、避ければ避けるほど大きくなるのは女性の存在感だ。コロナ禍にあって、人々は直接の繫がりを断たれ、記憶の断片と断片の隙間を想像で繫いでいった。やがて彼女と柴犬は彼の前から姿を消し、永遠に不在となるが、彼女たちは彼の想像の中で像を結び、幸せな未来を生き続けている。
高瀬隼子「鉛筆の瞑想」(『文學界』)の工藤は、パートの傍ら派遣会社の仕事をしている女性で、大学受験の試験監督を始めて六年目になる。工藤と生徒たちは試験監督と受験生という記号的立場に置かれている。だが、その関係は筆記用具を忘れた女子生徒の登場によって亀裂が生じる。人として接したい気持ちがありつつも、規則に従って貸し出せない自らの立場に苦悩する工藤。同じく鉛筆を貸したいと思いつつ自身の合格と倫理観の狭間で逡巡する男子生徒。二人の目が合ってしまった瞬間、記号でいる限り生まれないはずの互いの葛藤が二人を強く結びつける。試験会場はやがて再び記号の集まりへと収束していくが、あの時耳にした鉛筆の音は、自らを記号化し、外部から押し付けられた思考に従えば楽に生きられる世の中で、工藤の身体を内側から打ち破る音として響き続ける。(やまだ・あきこ=専修大学非常勤講師・日本近現代文学)