緑雨警語
斎藤 緑雨
中野 三敏編
自身の死亡広告を出したことを、「江戸ッ子作者の最後のシャレの吐きじまい」「緑雨以後真の江戸ッ子文学は絶えてしまった」と、内田魯庵が書いた(「新編 思い出す人々」)斎藤緑雨。本書は小説、随筆、批評に才筆を働かせた緑雨のアフォリズムがまとまった一冊である。「眼前口頭」「霏々剌々」など残された八編の警語集が収録されている。「万朝報」「読売新聞」ほか紙誌に、明治三十一年一月から三十七年七月まで連載された総計八四一章。切れ味鋭い軽妙な警語には、中野三敏により一つ一つにコメントが付されている。
中野は解題で、緑雨が江戸文化の精髄を「文化がまさに遊びの姿で顕現しそれを表現するにふさわしい文章を持った中期」と見すえた、真の江戸の理解者であると書く。緑雨によって初めて近代の獲得と、その相対化が可能であったと。つまり明治文学を考える上でも、江戸を深く理解する緑雨の視点が重要だということである。
連載された期間は、日清戦争が終わり日露戦争へと歩を進める戦間期で、富国強兵と外交戦略を進めていた時期に重なる。緑雨の警語を見ていると、その遠い時代の雰囲気が鼻先に匂ってくるようである。たとえば、「偉人たるは易く、凡人たるは難し。謹聴すべき逸事逸話は、凡人に多く偉人に少し。われは今、世を同うせる人々のために、頻に逸事逸話を伝へらるゝ偉人多きを悲しむ」とあり、中野のコメントには「世は外国との初の戦争に勝ったばかりの頃」と書かれている。ここで示される「偉人」がどういった人々を指すのかと考えさせられる。「万歳の声は破壊の声なり。河原の石の積上げられたるよりも、突崩されたるに適す」というのも、戦争が背景にあると思うと、さらっと流すのは難しい。
当時から時を経た現在はポリティカル・コレクトネスが発達した時代だ。皮肉たっぷりな緑雨の言葉、その意図が違っても、今なら簡単に炎上しそうなものもある。本書の刊行は一九九一年だが、その当時でさえ中野がコメントを「パス」しているのも面白い。試みに引用してみると、「彼の妻を見よ、飼犬を見よ、大差ありや。餌を与ふることを忘れずば、吠ゆることなし」「生殖作用は、生活作用也。飢ゑざらんが為といふこと、女子が結婚の一条件たるを以て見れば」。なかなかに際どい。しかし、これらの言葉を目にしたとき、思いが向かうのは背景にある社会だ。緑雨の言葉は個人を追及するものではなく、社会問題を顕在化させる「真理」である。
紙幅の許す限り、気になる警語を引用する。「発かば正義は世の花也。靡かば正義は時の煙也」「法律は姦淫を禁ぜず、されど堕胎を禁ず」「喜びは一人のもの、憂ひは万人のもの也」「利器は兇器也、文明の利器は文明の兇器也」「新聞紙は読者を化するものにあらず、読者に化せらるゝものなり」。戦争、政治、社会における女性の立場、文学、読書論……。言葉は世につれて変化するものだと言われるが、緑雨の言葉は、表層的な単語の差異を除けば、残るのは普遍的な人間論である。その証拠と言えるのか、押井守監督作品のアニメ映画『イノセンス』の中で、「鏡は悟りの具にあらず、迷ひの具なり」という言葉が引用されている。
警語は一見、SNSの書込みに近いように見える。しかし実際は真逆の存在であり、緑雨の言葉は、情報にあふれた現代の中に一つ一つ杭を打ち、溺れるものが摑まることができるような強度をもつものだ。そういう言葉が、今の時代にこそ必要なのではないだろうか。(二九八頁・一七六〇円・冨山房)
書籍
| 書籍名 | 緑雨警語 |
| ISBN13 | 9784572001412 |
| ISBN10 | 4572001413 |
