追悼=桶谷秀昭
川村 湊
桶谷秀昭氏の『伊藤整』(新潮社)を再読しているうちに、桶谷氏が左川ちかにほとんど触れていないことに気がついた。左川ちかの実兄の川崎昇は出てくるし、小樽時代の伊藤整の恋人だった重田根見子(=根上シゲル)も出てくる。でも、伊藤整の弟子とも、恋人とも目される左川ちか(川崎愛)にはほとんど触れていないのだ(一箇所、名前が上がるだけだ)。もちろん、曽根博義氏の『伝記伊藤整』(六興出版)が参照されているのだから、左川ちかの存在を桶谷氏が知らなかったということはあり得ない。富岡多恵子氏が、近年の左川ちか復活の嚆矢となる「詩人の誕生 左川ちか」を書いたのが『文學界』の一九七八年八月号だから、桶谷氏がそれを読む機会は十分にあったと考えられるから、桶谷氏は伊藤整の評伝を書くのに、あえて左川ちかの存在を無視したといって良いのである。
ジェームズ・ジョイスの研究者としての桶谷秀昭氏は、日本で初めてジョイスの『室楽』を翻訳した(伊藤整の助力があったと考えられる)左川ちかを、ジョイスの研究、翻訳史上においても無視できなかったはずだ。それなのに、彼女について緘黙を守っているのは、桶谷氏にとって、伊藤整の生き方と文学を論じるのに、左川ちかの存在は語るまでもない、軽い存在だったということを意味するのだろうか。いや、むしろ桶谷氏にとって、「左川ちか」が代表し、象徴するものが、桶谷氏にとって躓きの石のようなものであったり、彼の思想、批評においてもアキレス腱でなかったということを意味していたと考えられるのである。
硬文学と軟文学という分け方がある。政治や社会などに関わる〝硬い〟思想的な文学と、男女の恋愛や交情を描くことをもっぱらとする〝軟らかい〟文学との二分法である。
桶谷秀昭氏など、さしづめ硬文学の代表格の文学者といえるのだが、〝軟派〟的なものに興味も関心もないというわけではない。『伊藤整』の中でも、伊藤整と水商売の女「米子」との交情を、〝裏の日記〟を読むことで、結構熱心にそのいきさつを辿っている。作家、批評家、研究者、大学講師として活動し、妻と子供たちとの堅実な家庭を保ちながら、伊藤整は不倫の恋に浸っていた。しかし、伊藤整は、それを私小説的に書くという軟文学の作者になり切ることはなかった。あくまでも「仮面紳士」として振る舞っていたのである。そして桶谷氏は、その「仮面紳士」としての伊藤整を、自らが倣う文学者の一つの範型として描き尽くそうとするのである。
北村透谷など明治の文学者は、酒色の巷に沈淪しながら、「恋愛は人生の秘鑰なり」などと豪語した。小林多喜二は、愛人・田口タキとの別離を、プロレタリア文学の陣営への飛躍のきっかけとした。桶谷秀昭氏の「硬文学」への傾倒は、一体何をバネとしたものなのだろうか。
桶谷秀昭氏の主著が『昭和精神史』(文春文庫)と、その続編『昭和精神史戦後篇』(文春文庫)であることは衆目の一致するところだろう。「戦後篇」を見れば、敗戦、異国軍隊の占領という未曾有の出来事から始まる日本の戦後の「歴史」は、まさに〝敗戦後精神史〟として描くべきものだ(これは加藤典洋の『敗戦後論』の論議と繫がる)。敗戦後の精神の荒廃、占領期の検閲、戦争責任の放棄、共産主義や反安保運動の錯迷と経済繁栄の虚無、歴史意識の空白……硬文学者としての桶谷氏の慨嘆を募らせるような精神の頽廃や荒蕪は、敗戦後の時空間に極まっている。それは「昭和の子」としての桶谷氏や、磯田光一氏や奥野健男氏に共通した通念だった。しかし、磯田氏や奥野氏には、永井荷風や太宰治に繫がる軟文学的な部分があったが桶谷氏はそれを自ら切り捨てる俠気があった。いや、それは絶望と呼ぶべきものかもしれない。
恋愛や男女の交歓にかまける軟文学を否定するわけではないが、個人の恋愛や絶望など、それはあくまでも私的領域にとどめるべきものであって、公の領域で表現すべきものではなかった。それは保田與重郎や三島由紀夫と同じように敗戦後の日本社会に対する絶望を表明する硬文学の書き手たちに共通した自省であり、信念だった。
「左川ちか」が、〝人に、捨てられた〟絶望感を文学の根源としているのに対し、伊藤整は〝人を、捨てた〟罪悪感を抱え込まざるをえなかった。「仮面紳士」として生き抜くことで。
そして「昭和の子」である桶谷氏は〝国に、捨てられた〟という心情から出発している。しかし、そうした喪失感の中にも、一つの時代の気骨のようなものが貫いているはずだ。桶谷秀昭氏は、まさにそんな、文字通りの硬骨漢だった。(かわむら・みなと=文芸評論家)
おけたに・ひであき=文芸評論家。三月二七日慢性心不全で死去。九三歳。