カンヌ、ロール、そして新宿へ
槻舘 南菜子
二〇二五年五月、カンヌ国際映画祭コンペティション部門にて、リチャード・リンクレーター監督による『ヌーヴェルヴァーグ』が上映された。一三年の構想を経て実現したこの企画は、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』の〝メイキングオフ〟を撮影するという趣向であり、観客が一九五九年当時を目撃した臨場感に浸るのを意図している。本作キャスティングディレクターのステファン・バチュに依れば、如何に実在の人物に似ているかを厳格な基準として俳優を取捨選択したという。一方で、映画史的な視座には多くの疑問が残り、ゴダールを演じる俳優も含め多くは単なる物真似に徹している。また、今作のプロデューサーでもある共同脚本家ミシェル・ペタンの参加は歴史的整合性の担保にはなっていない。彼女は記者会見において、ゴダールとのカンヌでの出会いや『ゴダールのリア王』(一九八七) にジャーナリスト役で出演したエピソードを披露してはいたが、『勝手にしやがれ』撮影当時のゴダールとは何ら関係はない。リンクレーターは今作を通して、自身の映画制作の指針となったヌーヴェルヴァーグの重要性を語りたかったようだが、映画史を改竄する試み、壮大な茶番にとどまり、アメリカ映画による傲慢と全能感の現在を示すのみとなった。
仏映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』編集長マルコス・ウザルは、「『ヌーヴェルヴァーグ』の価値を認めるためには、ゴダールが架空の登場人物になることを受け入れなければならない」と評した。そして、ミシェル・アザナヴィシウス監督『グッバイゴダール!』と比較しながら、リンクレーターのヌーヴェルヴァーグへの「愛」を基に擁護を行なっている。
しかし、それもまた愚行以外の何ものでもない。アザナヴィシウスは少なくとも、元妻アンヌ・ヴィアゼムスキーによる小説『それからの彼女』を脚色しており、元妻の視線の先にあるゴダールを表象している。『ヌーヴェルヴァーグ』にあるのは、彼を微塵も知りもしないリンクレーターの眼差しのみだ。そもそも、ゴダールを架空の人物とすることが可能なのだろうか。彼が自ら死を選んだのは、二〇二二年九月一三日。その死から三年すら経っていない。映画愛? 美しいオマージュ? 彼の近親者は、未だその不在を生き続けている。
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映画祭の終わりから十日後のa六月五日、ゴダールが七〇年代末から住処とした「家」が遂に引き払われることが決まった。晩年の彼の〝右腕〟であったファブリス・アラーニョからカンヌ直後に知らせを受け、引き払われる前日にロールに訪れることになった。早朝にパリ発ジュネーブ行きの列車に乗り込み、昼前にロールへ到着する。駅から街の中心部まで一〇分ほど歩いたが、車の往来はあるものの、ほぼ誰ともすれ違わない。ファブリスは、メキシコの映画祭「FICUNUM」――ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルへのオマージュであり、新宿歌舞伎町「王城ビル」で開催されている《感情、表徴、情念 ゴダールの『イメージの本』について》展と同様の展示に関する準備のための滞在――から、スイスに戻ってきたばかりだ。彼の連絡を待ちながらレマン湖周辺をひたすら歩き、ゴダールが愛犬ロクシーとの散歩コースにしていた小さな森を散策する。ジャン=マリー・ストローブの家の前を通り過ぎたところで、ファブリスから「これから車でロールに向かう」とメッセージを受けとる。ゴダール家から程近く、彼の行きつけだったというカフェ「Confiserie Christian Boillat」を教えてもらい、しばしそこで待つことにした。そのカフェの通りには、彼が葉巻を購入していたタバコ屋、後期の映画制作にとって重要なノートを購入していた文房具屋なども並んでいる。その通りで、この小さな世界で、彼の生活も制作もすべて完結していたのだ。
ファブリスから到着のメッセージを受けて、ゴダール邸へ向かう。玄関を囲むガラスには、アニエス・ヴァルダが訪れた際の痕跡――『顔たちところどころ』(二〇一七)において、ヴァルダとJRは事前に訪問を知らせた上でゴダール家を訪れるが、約束をすっぽかされる。その上、ゴダールは皮肉を込めたメッセージをガラス窓に残し、彼女もまたそれに返答する言葉を書き記しその場を去る――がくっきりと残っていた。その二人のやり取りは、多言語で書かれたゴダールへの感謝の言葉で囲われていた。
入口の扉を開けると、右手には居間、左手にはキッチンが広がっていた。居間の壁際にはミエヴィルが『私たちはみなまだここにいる』(一九九七) で使用したハンナ・アーレントの巨大なパネル写真が立て掛けられ、大型テレビと巨大なスピーカーが設置されていた。テレビに向かい合うソファーの傍らの丸テーブルには、吸いかけの葉巻の残滓。ここで特別な来客のための「個人的」な上映が行われていたという。キッチンは、『イメージの本』『シナリオ』のプロデューサーの一人であり、アーティストでもあるミトラ・ファラハニ監督のエブラヒム・ゴレスタンとゴダールを巡るドキュメンタリー『また金曜日に、ロビンソン』のラストショットが撮影された場所だ。彼が腰掛けていた椅子には、持ち主を失ったジャケットが無造作に掛けられたままになっていた。トレードマークでもあった帽子が積み重なり、窓際には投げ出されたように置かれた靴や日用品が並んでいる。テーブルに置かれた新聞の日付は九月一三日、あの時からこの場所の時間は止まっているのだ。階段を上がると右手には寝室、剝き出しになったベッドには、皺で波打つシーツ、無造作に捲られた毛布。ベッドの横の壁には、彼の最後のパートナーであったミエヴィルの若き日の肖像が飾られていた。少し下向き加減の目線の先は、ちょうど枕元に向かっている。彼らは数十年前からそれぞれに家を持ち、日々の生活を共にすることはなかった。
そして、階段の左手には、『シナリオ 予告篇の構想』が撮影されたゴダールの「アトリエ」がある。備え付けの棚には画集、ノートブックを彩色するために使用していたであろう画材が並び、床には複数の絨毯が敷きつめられている。机を囲むIKEAの棚にはノートブックや文具、最晩年まで交流のあったジャック・ロジエ監督の写真とメッセージ。奥へ進むと様々な機材とともに、無数のDVDや書籍に囲まれた編集室に行き当たる。ここでゴダールは真夜中に一人きりで編集作業を行なっていたのだ。
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今年の四月、ファブリスとともに王城ビルの視察を兼ねて、展覧会の小道具を探すために訪日した。その際に彼が何を探していたのか、この家に来てはっきりと分かった。無数の椅子やランプを物色し提案しても、彼は、なかなか首を縦に振らなかった。結果として使用することになった調度品は、目の前にあるそれらに恐ろしいほどに酷似していた。
ファブリスとともに、ゴダールの行きつけだった歩いて数分のカフェ「Ô39」を訪れる。最晩年は、店主が毎日ゴダール家にケータリングを届けていたと聞く。「どうせならば、彼の好物を食べたい」という私のリクエストに答え、ジャガイモのクレープにスモークサーモンがたっぷりと敷き詰められた一皿料理と赤ワインを注文してくれた。店主はニコリとしながらすかさず「彼の定番だね」と言った。ファブリスは、ワイングラスに口をつけた私を見ながら、「ジャン=リュックだったら、そのワインに水を足しただろうけどね」と一言。どんな高級レストランで上等のワインが出されようと、アルコールに弱いゴダールは水をたっぷり混ぜて飲むのを好んだそうだ。『また金曜日に、ロビンソン』のラストシーンが再び思い出される。昼食を終えて家に戻ると、晩年のゴダールの〝左腕〟であったジャン=ポール・バタジアが到着していた。これから本格的に引っ越しの荷造りが始まる。そして、ミトラももうすぐここにやって来る。彼女は、ゴダールの最後の創作の日々、「家」が引き払われるまでのドキュメンタリー『Impossible scenario, la mort de Virgile』を目下制作中である。翌日の引っ越しのシーンが最後の撮影パートになる。パリからの列車の遅れのためミトラとは再会できないまま、この家を後にすることになった。段ボールを買いに行くファブリスとジャン=ポールの車でロールの駅まで送り届けてもらい、パリへの帰路に着いた。(つきだて・ななこ=映画プロデューサー)
【読書人WEBでは、ファブリス・アラーニョ氏のロングインタビューを掲載中 https://dokushojin.net】