高所綱渡り師たち
石井 達朗著
青木 深
あるサーカス・アーティストがこう話しているのを聞いたことがある。自分たちは人間にはできないことをしているとよく言われるのだが、当のアーティストからすれば、「できる」ことしかやっていないのだ、と。
二本の足で歩くという人間としての基礎的な動きに徹し、その「できる」難度を極限にまで高めて研ぎ澄ませてきた技(アート)が、地上数十~数百メートルの高所に渡した綱の上を、バランス棒だけを手にして命綱も付けずに歩く、「高所綱渡り」であるにちがいない。身体パフォーマンスについての著作を何冊も刊行してきた石井達朗の本書は、欧米で活躍してきた高所綱渡り師たちの生と死を、一九世紀から現代まで、ほぼ時系列に沿って叙述した一冊だ。
高所綱渡り師には、サーカス芸で暮らしを立てる一家に生まれ幼少期から綱の上を歩き出した者のほかに、個人として綱渡りを始めた者もいる。前者の一人マダム・サキは、一八一六年のロンドンでは、地上から二四メートルの高さにまで張られた綱を、大雨の中でも敏速に昇り降りしたといわれる。
一九世紀で最も有名な綱渡り師とされるのは、一八五九年に史上初めてナイアガラ峡谷での綱渡りを成し遂げた、チャールズ・ブロンディンだ。その後も彼は何度もナイアガラでの綱渡りを決行し、綱の上で逆立ちをしたりオムレツを作って食べたり、はたまた人を背負ったまま渡ったり、「これでもかと言わんばかり」のことをやってのけた。その評判を流用し、「~のブロンディン」と名乗る、またはそう宣伝される高所綱渡り師も現れた。
二〇世紀に入ると、一九四七年に「七人のピラミッド」――四人・二人・一人の三層を作って綱を渡る――を編み出した「空飛ぶワレンダ一座」の存在が圧倒的だ。ドイツのサーカス一家から頭角を現した彼らは、一九六二年と一九七八年に起きた墜落事故死のショックを三世代にかけて乗り越え、二〇〇一年には、「七人」を超える「八人のピラミッド」での綱渡りを完成させた。
独力で演技を始めた綱渡り師としては、一九七四年に世界貿易センタービル二棟の屋上での無許可綱渡りを挙行した、フィリップ・プティがいる。一九八七年に彼の演技を目にした著者は、そこに、「死と隣り合わせ」の綱渡りを「素の行為」としてこなすアーティストの「矜持」を読み取る。
本書では、このような高所綱渡り師たちの人生を、欧米とくに英語圏で出版されてきた彼ら/彼女たちの自伝や評伝等に依拠して紹介している。二次資料にもとづく叙述ではあるものの、その「語り直し」の襞に、演技の「向こう岸」を見通す著者ならではの視線が隠れている。たとえば著者は、綱を安全に張る技術に繰り返し言及している。眼前のパフォーマンスからは見えないこうした仕事も、死と隣り合わせの数分間を「生きて」歩きぬくべく、綱渡り師たちが磨き上げてきたものだからだ。
また著者は、高所綱渡り師たちがどのように老いて亡くなったのかについても一人ひとり書き留める。綱渡り師の「死」については、墜落事故によるそれが、怖いもの見たさの関心をセンセーショナルに搔き立ててきた。しかしいうまでもないことだが、隣り合わせの「死」に落ちないまま「無事」に老年期を迎え、やがて死にゆく綱渡り師たちもいる。
「あとがき」では著者は、「綱渡りをはじめアクロバティックなことを職業にしている人たち」の「聡明さ」に触れている。「それが何なのかずっと気になっていた」が、本書をへて著者は、それを、「外に開かれた素の心身の聡明さ」だと理解するに至る。墜落死した祖父の「生まれ変わり」のようにワレンダ一座を再興したニック・ワレンダは、おのれの内にうごめく強烈な野心や功名心を告白している。高所綱渡り師たちは、膨張するそのエゴや恐怖をコントロールし、「生と死のボーダー」でバランスをとり続ける。風も温度も空中では「下界」と違う。ワイヤー(綱)の湿り気や油分も時に応じて異なる。心身を「素」にして開き、揺れをからだに吸収しながら、一本の綱の上で歩みを進める。どうしてそんなことが「できる」のか。その一歩一歩に、「足に住まう神々」(フィリップ・プティ)が去来しているのだろうか。(あおき・しん=都留文科大学教授・歴史人類学)
★いしい・たつろう=舞踊評論家・慶應義塾大学名誉教授・身体文化論・セクシュアリティから見るパフォーマンス論。著書に『身体の臨界点』『男装論』『サーカスを一本指で支えた男』『アクロバットとダンス』『サーカスのフィルモロジー』『異装のセクシュアリティ』など。
書籍
書籍名 | 高所綱渡り師たち |
ISBN13 | 9784787274731 |
ISBN10 | 4787274732 |