君たちの記念碑はどこにある? 中村 達著 福島 亮  「多方向的」な怒りをたぎらせ、日本の思想・言論界に殴り込みをかけた前著『私が諸島である』(書肆侃侃房、二〇二三年)の著者は、いま、共に歌い、踊り、祝おうとしている。  エリック・ローチの詩から取られた前著の表題に続き、本書の表題はデレック・ウォルコットの詩の一節から引かれている。お前たちの記念碑はどこにあるのかという問いに対して、ウォルコットは書く、「海が歴史である」と。諸島と海。いわば絶え間なく反転する図と地のように、前著と本書は呼応しあっている。  「海が歴史である」という言葉は、前著の第八章「カリブ海によるクレオール的時政学」ですでに掲げられていた。そこで著者は、ジャマイカの詩人・思想家エドワード・ボウの「歴史との諍い」というヴィジョンをもとに、「東から西に向かって進むヘーゲル的な歴史の流れ」(前著、一三五頁)に対抗する別の〈歴史〉の語り方、すなわち想像力による過去の幻視のうちに、カリブ海思想の可能性を見出していた。全一五章の中央に配置されたこの章は、前著の白眉というべき章である。  本書はその第八章を全面的に展開し、カリブ海における「記憶」の問題系を縦横無尽に論じた書物である。目を引くのは「記憶の詩学」という副題だ。なぜ「詩学」なのか。これに対して著者は、西インド諸島大学の恩師ナディの私信を引きながらこう説明している。「『詩学』は『哲学思想』のように抽象に始まり抽象に終わるのではなく、カリブ海という世界に寄り添いながらそこに立ち現れる現実(世界観)を語ることのできる言葉で、そこで絶えず実践される特異なるクレオライゼーションが起こす変化の波に従事することができる知的営み」(本書、三二頁、注三一)なのだ、と。  「詩学」とは「実践」の謂である。そのようなポエティック(詩学)は、言うまでもなくポリティック(政治学)でもある。であればこそ、ハンナ・アーレントに対して、本書はカリブ海思想の立場から徹底的な批判を繰り出す。すなわち、アーレントは「人間の本質」を「記憶されること」に見出しているのだが、その際「非歴史性」の烙印を押されてきたアフリカおよびカリブ海の人々の営みが彼女の思考から抜け落ちている、と。この点については本書でも参照されているキャスリン・T・ガインズ『アーレントと黒人問題』(人文書院、二〇二四年)も併せて読むべきだろう。  「西洋」の思想家への批判は、前著の核となる姿勢だった。その強張った筋肉は、魅力でもあり、また微かな弱さでもあったと思う。本書でも同様の姿勢は一切崩れていないものの、手足はずっとしなやかだし、声も豊かだ。たとえば本書第六章「音楽という記憶装置」では、ジェール・ハミルトンの「フォノグラフ的記憶」という概念を参照しながら、粉々に砕けてしまった記憶を紡ぎなおし、「グリオ」の文化を環大西洋的につなぐカリブ海音楽の「実践」がのびやかな筆致で論じられている。歌や踊りがいまにも始まりそうだ。  その時きっと、先人たちの歌声や身体のリズムが同期する。不勉強な者たちはカリブ海やアフリカを思想の「白地図」と呼んで恥じることがないのであるが、そんなことはない。わたしたちはそう遠くない〈過去〉と常に共にある。ここでわたしが念頭に置いているのは、たとえば一九七三年、隘路に陥った政治の季節から身を引き剝がし、カリブ海や中南米を旅した太田昌囯と唐澤秀子。今年は彼らがボリビアの映画制作集団ウカマウと協働を開始して五〇年目の年だ。あるいは伝説のウェブサイト「Cafe Creole」。そこでは本書で紹介される作家たちの名が萌芽的な形で言及されている。カリブ海思想はいま始まったばかりのものではなく、クロノスとカイロスのあわいに浮かぶ群島のように、この国の言論のうちに点在しているのである。本書は、そんな島々を巡る、いわば想起の旅へも開かれている。(ふくしま・りょう=富山大学専任講師・フランス語圏文学)  ★なかむら・とおる=千葉工業大学准教授・カリブ海文学。著書に『私が諸島である』(第四六回サントリー学芸賞)など。一九八七年生。