小谷野敦×倉本さおり
「芥川賞について話をしよう」第27弾
第一七二回 芥川龍之介賞
第一七二回芥川賞は、鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」、安堂ホセ「DTOPIA」の二作が受賞した。ほかの候補作は乗代雄介「二十四五」、竹中優子「ダンス」、永方佑樹「字滑り」だった。今回も小谷野敦氏と倉本さおり氏に、お話しいただいた。(編集部)
小谷野 『文藝春秋』に載ったインタビューを読むと、小六のときから毎年五〇〇枚以上の小説を書いていたという。大学院での専門はシェイクスピアですが、今回の作品のテーマはゲーテだし、三作目はディケンズで書いていて、自分では研究者になれるほど頭はよくないと言うけれど、かなり変わったタイプの天才だと思いますね。
倉本 ゲーテ研究者の大学教授が視点人物で、書籍名や作家名、ゲーテ論、文学の知識などが目いっぱい扱われていますよね。芥川賞の選考委員は、こういう衒学的とも捉えられる作品はあまり推さないのではないかと勝手に思っていたのですが、蓋を開けたら大方が一推しだった。
小谷野 私は、受賞は『ゲーテ』一択だと思っていました。鈴木くんは大江健三郎が死んだときに、二日間泣き暮らしたとか。大江が鈴木くんと同じ二十三歳のときには暗い作品を書いていましたが、この人は向日的ですね。学者として入り込むと知ることになる、アカデミズムの暗さは、まだ経験していないのかもしれません。
倉本 確かに、大都市の固着化したアカデミズムの現場にいたら、このようにのびやかなものは書けなかったかも。若いからこそ、という筆ぶりもあると思うし。
小谷野 私は、ゲーテは好きではないんです。『若きウェルテルの悩み』はいいけど、『ファウスト』は特に第二部がわからない。バジル・ホール・チェンバレンという明治時代に東大で教えていた言語学者が言うには、英国にはシェイクスピアがいたけれど、ドイツにはそれに相当する人がいなかったので、ドイツ人が無理やりゲーテを文豪に押し上げたと。その説に賛同します。
ただこれは、ゲーテが偉い文豪でなかったとしても成り立つ小説ですよね。本人も言っているように、丸谷才一の『横しぐれ』のような、謎解き要素を含む軽やかな構造も良かった。
倉本 ある名言が本当にゲーテの言葉なのか探求する物語ですが、小川洋子さんは選評で、「主役は〝一度書かれて標本にされた言葉〟」「どこまでも言葉を追い掛けてゆき、それが見つかったからといって何がどうなるわけでもなく、平凡な一家の生活は続いてゆく」と。同じことを川上未映子さんは、「はじめにあってしまった「言葉」というものをどうすることもできないまま現在に至る歴史の普遍性を照らす稀有な明るさがあり」と書いています。聖書の「初めに言があった」に係わるところだと思いますが、言葉をめぐり本をめぐるストーリーなのに、教養主義のべたついた熱はなくて、どこか乾いている。最初に言葉があったのだからそこは仕方がないというような、ある種の諦念というのか、淡泊さを持ち合わせているところがよかった。
小谷野 文学は名言で成り立つものではないですよね。小説を成り立たせるための道具であって、文学が名言から成り立つと、作者が思っているわけではない。
倉本 そうですね。名言というよりは、言葉はここに確かにあって、その上で何をどうするかという思考の部分を小説化している。
小谷野 ヴォルテールの言葉として「僕はあなたの意見には反対だけど、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というのが出てくるでしょう。博把統一が講義中の雑談で話したときに、あ、失敗したな、と思ったんです。でもその後、別の会話の中で、ヴォルテールの言葉ではないと語る人が出てくる。それを読んで、「おぬし、なかなかやるな」と思った。わざと間違ったことを言っておいて、あとで訂正するというのは一つのテクニックですからね。
倉本 書かれた言葉を盲目的に信じていると足元を掬われると、さりげなく示している。
小谷野 今回の受賞で、ヴォルテールが言ってないことが広まったらいいと思う。ヴォルテールはルソーをいじめ抜いた人なので、私は嫌いなんですよ。
倉本 作中の博把統一をはじめ、書き手である鈴木さんご自身も、多くの他の登場人物たちと同様、読み手のひとりとしてそこにいるんだなと。皆がフラットに同じ地平にいる。だからこそ衒学的な鼻につく感じがないのかなと。
小谷野 博把統一は六十三歳で、私と同年代なんです。義父で学問の師匠である芸亭學の家で、皆で紅白歌合戦を観るのだけど、知っている歌手が一人もいなかったと言っている。それはないだろう。ここは、「石川さゆりしか知ってる歌手がいなかった」としたらリアリティが増したのに。
倉本 確かに(笑)。
小谷野 統一は『ゲーテの夢――ジャムか? サラダか?』でサントリー学芸賞を取っている。東大教授でゲーテの研究者の石原あえかは、サントリー学芸賞を取っていて、先日紫綬褒章ももらったのだけれど、全く話題にならなかった。地味なんですよ、ゲーテは。
そのゲーテの全集を鈴木くんは全部読んだというのだから、すごいですよ。まさかドイツ語で読んだわけではないと思いますが。これまで十九世紀文学はあまり読んでこなかったけれど、小説を書く上で、そこに取り組む必要があると考えたと。ただ、十九世紀文学は、ほかにもフロベールやスタンダール、バルザックとか結構いるんですけれどね。
大学では英文学とか仏文学とか国別に分けられるでしょう、あれが嫌でね。もっといろいろな国の文学を読みたいと思っていたので、私は英文学から比較文学に移ったんですよね。だからシェイクスピアが専門だけれど、ゲーテについて書くというスタンスは、分かる気がします。
彼は父親が牧師のプロテスタントの教会に生まれて、小学生のときに聖書を一日に三章ずつ読み、一年で読み切ったと言うんですよ。私は高校生のときに聖書を一日に一章ずつ、三年で読みました。聖書って真ん中辺りが退屈なんです。
倉本 私がずっと昔に挑戦してみたときもそこで諦めました(笑)。 小谷野 キリスト教に帰依していることが、今後どのような形で表れてくるのか。ドストエフスキー的なロシア正教の原理主義の世界には、のめり込まないでほしい。
然という人物は架空でしょうけれど、深井智朗という人が著作と論考で捏造・盗用が認められて、読売・吉野作造賞受賞を取り消された事件があったんです。しかも当人は謝罪とかしていない。その人の翻訳を講談社学術文庫から出したというので、騒ぎになっていますね。栗原裕一郎などはそれが元ネタなのではと思っているようです。
倉本 これは三部作の二作目ということなので、三作書き終わった次に、何を書くのかが気になります。
小谷野 非常に政治的な小説です。大江健三郎も小説ではあんなふうに政治的な主張はしなかった。それから、睾丸をナイフで切り取るとか、描写が暴力的。私は暴力的な映画や小説は苦手です。金原ひとみの『蛇にピアス』以来の嫌さでした。
モモという人物の父親が、子どもがトランスジェンダーになることに目に見えて否定はしないながら、睾丸を切り取る行為を「暴力」として糾弾するときに「家族って、国から人預かってるようなもんだ」と言うんです。そんなこと実際には言わないと思います。父親に悪印象を植えるための作り事に感じました。
倉本 あのセリフに関しては私も違和感を覚えました。モモの父親って、良くも悪くも作中でいちばん人間臭いダサさがあって、だからこそ生々しい説得力を備えていると思っていたんですが、あの部分はあらかじめ用意された言葉のように感じてしまったというか。
ただ、暴力的な描写と、政治的な主張は、安堂さんの小説にとって必然性のあることだと思うんです。たとえばガザで凄惨なことが行われていることは事実で、小説はそういう現実を意識的に削いでしまうような世界であってはいけない、そういう姿勢の表れではないかと思います。小説は、作者によって取捨選択がなされ構成される世界ですが、安堂さんは暴力をことさら煽情的に描いているわけではなくて、現実にある暴力性を反映しただけなのではないかと。
そしてたぶん、KADOKAWAから出されなかったトランスジェンダーの本がありましたよね。あの一連の出来事に対する応答でもある。
小谷野 私もあの本に対する反論として、安堂ホセは書いたと思う。
私は現実にあることを書くというのならば、ノンフィクションでいいと思う。フィクションにしてまで書く必要があるのか、フィクションにすべき題材なのか、そこは考えるべきだと思います。昔、中村和恵が、「小論自分ごととして動く世界文学」(『群像』二〇二〇年六月)で、ポストコロニアリズム小説のすすめ、のようなものを書いたことがありましたが、植民地の歴史を知るのにはノンフィクションを読めば、より正確にわかるではないかと思う。同じことはハン・ガンにも言えるんですけれどね。
もう一つ気になるのは、新人賞を受賞する作品に、同性愛ものやLGBTに係るものが、かなりの確率で入ってくること。文学に流行を作るのはよろしくない。プロレタリア文学など、過去にも流行はありましたが。
倉本 その点に関しては、LGBTQをモチーフにしているから評価されている、というのではなく、既存の小説が捉えられなかった現実を掬いとる、そのまなざしがあるから評価されている、ということではないかと思っています。
小谷野 流行で賞を上げてしまう傾向はある。太宰賞も結果として市街地ギャオの「メメントラブドール」だったりするわけだから。
倉本 市街地ギャオさんは、テーマというより、テクストの個性の部分が評価されたんじゃないですか。
小谷野 鈴木くんのような天才でない限りは、流行で受賞が決まることになると思う。あるいは大田ステファニー歓人『みどりいせき』のような飛び道具。
倉本 あれも、主人公の見ている世界、描写の仕方が、これまでの小説にはないものだったことが評価されたと私は思っています。テーマやモチーフの新規性よりも、見えている世界への疑いです。「DTOPIA」もその意味で、すごいと思った作品です。
小谷野 倉本さんは、同性愛を書くことで視野が広がり、未来が拓けると言うかもしれないけれど、私はそれによって偏向していくと思う。
倉本 川上弘美さんが「いかに書くか、なのか、何を書くか、なのか」ということを書いていましたが、「DTOPIA」ではたとえば、最近のアカデミー賞について、候補作はどれも「二十世紀に白人が残した負の遺産をセルフ懺悔するコンセプトを持っていた」と書く。つまり「白人による白人のための懺悔ショー」だと。大衆の評判の一方でそういう視界も存在することを提示した場面だと思います。このような書き方は、何を書くかではなく、いかに書くかの、安堂さんの色だと感じたんです。粗雑さ、雑駁さを指摘する選考委員もいましたが、同時にあの勢いだからこそ書けるものがあることも認めていましたよね。私もそう感じています。
小谷野 私は何を書くかの上にいかに書くかがあると思っていますが、安堂ホセは常に政治的なので、政治的な含意のないものを書いて実力を示してもらいたい。
倉本 鈴木さんの場合は、読み手の多様性をあまり想定していないというか、自分と同じぐらいのリテラシーで読まれることに疑いを持っていないようなピュアさがあって、その意味でのポジティブさも感じるのですが、安堂さんはディスコミュニケーションが生じることを織り込み済みで書いている。
暴力の「域」の話が出てきますが、これはフィクションの構造のメタファーとしても読めると思うんです。恋愛リアリティショーの参加者が、「デートピア」というフィールドの中で、一定のルールに基づき、デートしたり、喧嘩したり、競い合ったりしている、それが主人公のひとり、Mr.東京ことキースにとっては「すごく落ち着くんだ」と。
小説を読むときも同じように、読者と作者の間に暗黙の「ルール」がありますよね。先ほど、ノンフィクションで書けばいいと小谷野さんは言ったのですが、安堂さんにとっては、フィクションとして「域」のある中で書くことを良しとしているのではないかと。小説に書かれたことはそのまま現実であるわけではなく、あくまで言葉で囲われかたちづくられた可能性の領域に過ぎない。けれどその中で、様々な意見を投げかけながら考えを尽くす、ということを試みているのではないかと思います。
小谷野 吉田修一は選評で一切触れていなかったですね。それから松浦寿輝は、乗代くんと「字滑り」と、受賞しなかった二作を推していました。選考会は荒れたのではないか。
倉本 皆さん、いつもより選評への書き込みが多いですよね。
小谷野 山田詠美は鈴木くんのことを「文学的おしゃまさん!」って。久しぶりに聞きました。
小谷野 「本物の読書家」は川端康成の作品は代作だったのではないかという仮説をもとにした、大変よくできた作品で、これで芥川賞を取っていれば誰も文句を言わなかった。
倉本 私もそう思います。
小谷野 芥川賞はシリーズものを入れてはいけないことになっていると思っていたのだけど。
阿佐美景子という人は、女装した乗代くんにしか思えない。乗代くんが書く、女性の視点人物は女の人に見えないんです。あの「痴漢騒動」のときもそうだったけれど。
倉本 痴漢騒動って「最高の任務」の中の電車の場面のことですかね。私も、それまではジェンダーレスな書き手なのかと思っていたんですが、考えが変わりました。
乗代さんは弟とか父母といった「家族」のキャラクターは、ものすごく上手く書けるのだけど、家族以外の「他者」の書き方があんまりよくない。平野啓一郎さんも「他者性に対する考察の甘さ」と書いていましたが、とりわけ他者との出会い方に違和感が残るんです。弟の結婚式前夜、互いの家族のみの食事会の緊張感とか会話の機微とか、景子という娘のことをわかっているからこそ、その言動に母親がそわそわと気配を伺っている感じとか、あんなに細やかに書ける人なのに。なぜ他者には、非実在キャラのような、ご都合主義的な動き方をさせてしまうのか……。乗代作品の中に現れる他者は、きまってオタクに優しいギャルのようなキャラクターが多いなあと。内向的で自分からは踏み出せない主人公に、外側からふいにコミットしてくる感じは、村上春樹の小説の構造にも似ている気がする。
小谷野 芸術選奨の文部科学大臣賞を取っているということは、もう中堅作家なんです。乗代くんは芥川賞とは関係なしに、作家活動をしていったらいいと思う。村上春樹がデビューから八年で『ノルウェイの森』を書いているわけでしょう。乗代くんも、もう自力で勝負するべきです。
あとは日本語がところどころ気になるんですよ。たとえば「裕福を忍ぶのを是とする我が家」とか言うんだけど、これは素直に書かないせいでしょうね。
倉本 擬古的な文章のぎこちなさや違和感に惹かれるところがあるのでしょうか。
小谷野 鈴木くんは、書いていた小説を友だちに見せたら、こんなものを書いてたらダメだ、風俗小説を書けと言われて、今回の三部作を書くことになったとか。乗代くんも友だちに相談してみる、とかね。「阿佐美景子」シリーズに拘るのはもう止めた方がいい。
倉本 私は拘るならとことん拘っていいと思いますが、他者のリアリティはもう少し高めて欲しい。家族の解像度はあんなに高いのに。
たとえば、同じように内向的な語り手でも田中慎弥さんなら、ままならない他者のままならなさを、そのまま書くと思うんです。乗代さんは技巧に長けているせいか、小説の中の人々を差配してしまう。
小谷野 他者が主人公の操り人形になっちゃうんですよね。乗代くんは、相手が自分に都合よく手を打ってくれると思いながら、将棋を指している感じがする。
倉本 もちろん、とても好きなシーンもたくさんあります。たとえば景子が中学生のとき、雨の日に弟を塾へ迎えに行く、それを結婚相手の母親が見ていたというエピソードです。弟は塾で一緒だった幼馴染と結婚するんですよね。その母親は景子のことを、まだ子供なのにかっこよかった、と記憶しているんですが、景子はそのエピソードから、叔母に迎えにいくように言われたと思い出している。
景子が抱え続けている叔母の記憶については、最後まで具体的に書かれずに終わり、それについては指摘する選考委員もいましたが、私はむしろ他の人の忘れがたい思い出を通して、景子が別の記憶をよみがえらせる、その瞬間的な輝きの連鎖が素敵だ、と。
小谷野 乗代くんは、いつも最後で登場人物を泣かせますよね。演歌じゃないんだから、小説の最後に、必ず泣かせなくていいんだよ、と教えてあげたい。
倉本 夏葵という女子大生との出会い方はどうかと思うけど、後半になって再会したとき、その兄の自転車のカギに、芳香剤の先っちょだけがキーホルダー代わりについているとか、そういう小さなエピソードの妙はとりかえのきかない輝きがありますね。
倉本 新潮新人賞の選評でも言われていましたが、この器のサイズ感が魅力でもあり弱みでもあるというか。
小谷野 面白さがわからなかった。
倉本 私は面白く読みましたが、読者の世代やジェンダーで評価が分かれるところはありそう。
小谷野 女性二人の関係性が、全く引っかからない。
倉本 「私」の職場の先輩である「下村さん」が、三角関係のすったもんだの末に同僚と別れたことで会社に来なくなって、その尻ぬぐいで忙しくしている「私」は当初怒っている。そこから構築されていく、下村さんとの関係性がうまく描かれていたと思いましたが。
小谷野 ただ芥川賞では女性の委員もあまり支持していなかった。
倉本 そうですね。川上弘美さんと小川さんぐらいでしょうか。
ただ、たとえば太郎という魅力的なキャラクターが急に退場して、離婚したことがサラリと告げられ、それ以降、太郎の動向が一切分からないところとか、体感としての人生の描き方がリアルだと思うんです。急に何年も経っている、あの時間の経過の描き方とか。久々に会った友人と話すときなどはそうなりますよね。誰かの人生を受けとる体感としてリアリティを感じました。
小谷野 私は大学時代の同じ英文科にいた人間の訃報を聞いたら、その人の人生を全体的に捉えたくなって、年表を作ってしまうんです。私の感覚が、一般的だとは思いませんが。
倉本さんの年表もありますよ。
倉本 衝撃の事実…!
倉本 漢字とかなで成り立つ日本語の、発音や表記といったものがずれて崩壊してしまう現象が局地的に起こるという。アイデアは面白いのですが……。
小谷野 この人は、歌人でしたか?
倉本 詩人です。
小谷野 最近、詩人や歌人が小説を書くことが多いですよね。
倉本 これは個人的な見解ですが、詩歌をやっている人のお話を聞くと、ふだんから採取される言葉そのものが違うなと感じるんです。言葉の体系も変わってくるというか。新人賞のシステムの中で生まれてくる作品とはまた違う新しさがあって面白いと思っています。
小谷野 アイデアはよかったけれど、アイデア倒れですよね。ただよく最後まで書いたと思いますよ。
倉本 そう。このアイデアで最後まで書き切ることがまずすごい。
小谷野 アイデア倒れと言えば、筒井康隆の『残像に口紅を』もそうだけれど。
倉本 『残像に口紅を』は虚構の磁場が勝ってくるけれど、こちらは「字滑り」という超常的なことが起きている一方で、その他の部分で世界があまりにもつつがなくあるために、失速してしまったのではないかと。
言葉にフェティシズムを感じている人であればあるほど興味をもつテーマですよね。でもそれを実況する地の文の位相と、字滑り現象が、途中からかみ合わなくなってしまった。字滑りからそのまま日本列島も移動してしまうとか、世界が裂けるぐらいのことが起きていたなら、虚構の磁場が高じて、フィクションとしてのバランスが良かったのかもしれない。
小谷野 でもそれだとSF性が高くなって、芥川賞の候補にはならなかったかもしれませんね。
途中からは、固定したキャラクター間の会話で成立させてしまったところがありました。
倉本 言葉の起源の話も面白かったですし、母語が実体化するところなどは、官能的ですごく良かった。ただ書き込み方にもばらつきがあったため、牽引力が落ちてしまったように感じました。
小谷野 初めて書いた小説ですよね。
倉本 そうですね。はじめての小説だと思うと、選考委員も好意的な評価がありましたし、すごいことだと思います。
小谷野 次作に期待ですね。
私は、今回は最初から圧倒的に『ゲーテ』推しでした。
乗代くんは芥川賞に拘らず、作品を書いていって欲しい。(おわり)
★こやの・あつし=作家・比較文学者。著書に『聖母のいない国』(サントリー学芸賞受賞)『とちおとめのババロア』『この名作がわからない』(共著)『直木賞をとれなかった名作たち』『レビュー大全 2012-2022』『蛍日和』『あっちゃん』など。一九六二年生。
★くらもと・さおり=書評家・ライター。一九七九年生。