本書は、四つのパートからなる。すなわち、①表題がテーマのパート、②多様なテーマのパート、③論壇時評、④書評、という四部で構成されている、いわゆる「評論集」である。
構成の内訳はこうである。最初に、雑誌『子午線 原理・形態・批評』にて連載された論考を中心にしたパート。ここでは、中村光夫、平野謙、江藤淳、蓮實重彥、三島由紀夫といった人物についての論考が展開されている。そこでは、プロレタリア文学からの転向、文学的リアリズムへの批判、戦後民主主義への違和、などがおもなテーマとなっている。つぎに、ラーゲリ、反原発、毛沢東主義、災害ユートピアといった様々なテーマの記事からなるパート。こちらの掲載誌は多岐にわたる。第三のパートは、二〇一四年に『読書人』で連載された「論壇時評」をまとめたものである。こちらも、その時事に応じて多様な問題をあつかっている。最後は、様々な媒体での書評に加えて、鈴木貞美との論争的な記事が収録されている。
このように本書は、評論集というジャンルが帯びることになるアナクロニズムを積極的にひきうけている節がある。それは、対象となっている批評家がまとっているアナクロニズム、また、転向、プロレタリア文学、戦後民主主義への批判といったテーマがまとっているアナクロニズム、そして本書の文章がひきよせるアナクロニズムから読みとることができる。こうした手法は、あたかも批評家と「世界」のみが存在しているような印象を読者にあたえる。そこには、その中間にあるはずの社会が欠落している。しかしそのことにより、本書はきわめて「重いギア」で思考することに成功している。一方で、このアナクロニズムは、本書のスタイルだけでなく内容も規定している。それはどのようにしてか。
本書の序文において「失われたラザロ」についての、モーリス・ブランショの言葉が引用されている。すなわち文学は「昼に返されたラザロではなく墓のラザロ」を、「すでに臭ってい、悪であるもの」としてのラザロを欲する。これは『ヨハネによる福音書』のなかにある、キリストの言葉によって、死んだはずのラザロが復活するというエピソードをふまえている。ではなぜラザロの死と復活が問題になるのか。
存在するものは、名をあたえられることによって殺害される。眼の前を歩いている犬のようなものは、「犬」と名指され登記されることにより、その存在を抹消される。こうした認識は、ラカンによる「シンボルによるものの殺害」という「ローマ講演」での言葉を彷彿させるものである(「エクリⅠ」)。興味深いことにラカンは、このテーゼに続く段落で、典型的なシンボルとして「埋葬」をあげている。たとえば代々語り継がれる昔話に登場する「犬」は、すでに言葉によって「埋葬」されている犬なのである。
このように言語による名指しは、その対象の殺害を含意している。したがって言葉によって現実が把握できるという認識は端的にまちがっている。それは死んだ知人が、いまだ生きていると錯覚するようなものである。本書が「転向」を問題にしているのもそのためである。転向とは、ある言語体系から他の言語体系への転向以外の何ものでもないからである。本書は「究極、文学は、ラザロを蘇らせる者と、失われたラザロを求める者とのたたかいである」と断言している。言い換えると、文学とは、死者を生き返らせようとする手品師と、墓の下で腐りつつある屍体を求める倒錯者との戦いである。
本書では、このような手品師のことを「リアリズム」と名づけている。考えてみれば、リアリズム文学とは奇妙な言葉である。言語は、その対象とはまったく違った存在であるのに、言語で「リアル」を実現するというのは、そもそも不可能である。それこそ倒錯以外の何ものでもない。ではなぜ、近代文学はリアリズムを志向するようになったのか。本書では、小林秀雄『私小説論』における「社会化した私」という定式と、中村光夫『私小説について』における「社会化された私」という定式の違いに着目している。中村光夫にとって、社会とは「自己の人間性」を殺すことによって成立する場所である。そして「社会の良識がいかに人間を歪めるかという社会そのものの姿を正確に表現して、社会に投げ返すことが彼の実生活を滅ぼした社会に対する彼の復讐なのだ」(三七頁)。こうした認識において、社会は人間存在を殺害して埋葬するものであり、小林秀雄的な「社会化した私」には、そのような認識はなかったと本書は述べている。
小説のジャンルを論じる一節において、坪内逍遙『小説神髄』は、「模写小説」という用語に「アーチスティックノベル」というルビをふることによって、また馬琴『里見八犬伝』の八犬士が「仁義八行の化物」であり人間とは言い難いものだとすることによって、近代文学のパラダイムを構築した。しかしながら、言語は存在を殺害する。この状況のなかで「模写」を成立させるには、この言語と存在をむすびつける第三の要素として、かの有名な「人情」が要請されるのである。こうして近代文学において「模倣」と「共感」からなるサイクルが完成する。このサイクルによって、均質で取り替え可能な存在としての「市民」が構築される。このパラダイムから排除されたのが、政治小説である。中村光夫が「ふたたび政治小説を」と唱えるのは、こうした理由によるものである。
さらに本書では、中村光夫が「鉄兜」という小説を書いたことに着目している。ごっこ遊びの一環として「戦争ごっこ」をはじめた子どもたちが、やがて玩具の鉄兜をかぶるようになるなか、ひとりだけその兜を買うことのできない子がいる。「電燈料」が払えないために電気が止められたであろう、その家の子は、やがてボール紙でできた手製の鉄兜で、戦争ごっこに加わるのだが、その「陣笠」のような兜の形のために揶揄われ、やがて敵の「支那人」として殺される役を押しつけられてしまう。この話における「鉄兜」を、市民社会における「社会的ペルソナ」に置き換えると、そのまま現代社会における「大人」のコミュニケーションに当てはまることがわかるだろう。
こうして中村光夫は、墓の下にあるラザロを発見する。同様に、平野謙は墓の下から「人民戦線」を発見する。江藤淳は、くだんの「ごっこ遊び」を戦後民主主義にみいだしている――そこでは「八・一五革命」説が「ひわい」な「ごっこ遊び」として糾弾されている。また三島由紀夫は、墓の下に眠る、自由という観念の「化物」であるマルキ・ド・サドを召喚し、またのりこえ反転する疎外という行き詰まりそのものを体現した、否定性の「化物」として天皇を召喚するのである。
なによりも注目すべきは、これら「文学者」それ自身が、社会的コードが飽和した現代において、すでに墓の下に埋められているということである。本書の試みとは、これらのラザロたちを、市民社会のインテリとして復活させることではなく、腐臭をおびて崩れかけた、みるも無惨なラザロとして招き入れることである。こうした作業のはてに見出されるであろう「文学の真実」にこそ、本書のアナクロニズムは賭けられているのだ。(いけだ・ゆういち=文芸評論家)
★なかじま・かずお=文芸評論家・近畿大学文芸学部教授。著書に『収容所文学論』。一九六八年生。