2025/10/10号 5面

文芸・10月(山田昭子)

文芸 10月 山田昭子  日本語は主語を省略する場合が多い。だが、時には敢えて主語をすり替えることで行為の主体をずらすこともできる言語だ。「皆が持っている」と親にアピールする子供。電車の中で騒いでいる自分の子供を注意され、「あの人が怒るから静かにしましょうね」と言う母親。自分だけを主語にしている人間は嫌われるが、他者ばかりを主語にする人間も嫌われる。本来、不快感や不利益から特定の人々を守るためにある、ポリティカル・コレクトネスもまた、主語の所在を間違えれば誰かを束縛し、苦しめる結果にもなる。  『すばる』は特集「「笑い」はむずかしい」を組んだ。石田夏穂「わたしを庇わないで」のアヤノは、タナマル水産に勤める肥満体型の女性だ。アヤノが自身の体型、容姿を自認している一方で、それを直接指摘する人はこれまでいなかった。だからこそ、自社の宣伝用インスタグラムに食べ歩きの動画を載せたことでSNSに書き込まれた「暴言」に、アヤノは衝撃を受けると同時に高揚感を覚える。アヤノにとってSNSの「暴言」は初めて自分を定義し得たものだったからだ。「おいしそう」に食べているつもりがなぜか「笑い」を誘ってしまうアヤノは、「笑い」の向こうに「デブ」という言葉を過度に避ける人々の不自然さ、誰のためかわからない過剰な気遣いが気になりだす。誰かを「庇う」ということは、一見相手のためのようでいて、同時にその人は「庇われるべき人」であり、「庇われなければならない」という自認を相手に一方的に押し付ける暴力性をもはらむものであることを鋭く指摘する短編だ。  小説は言葉によって成り立っている。だが、その言葉たちはどのようにして形作られていくのだろうか。金原ひとみ「モヤとチアーズ」(『群像』)の「私」は小説家で、ノンフィクション記事のための密着取材を受けることになるが、自身の小説に対し「過激、すごい、潮吹き、普通」という言葉で感想を述べた、担当ライターのスクミンに苦手意識を抱くようになる。スクミンの言葉に捉われ、関係を構築し得ないまま仕事をしてしまったことを後悔した「私」は、スクミンと共生する可能性を探るべく葛藤する。「書く」ということは書こうとするものを「認め」、「好意」を持つことである。「私」はスクミンを捉えようとする行為を通して、小説を書くことと向き合う。スクミンは「私」の空想の中でやがて「モヤ」となって実態を失うが、「私」は応答しないモヤに向かって質問し続ける。小説を書くということは言葉によってモヤに立ち向かうということであり、孤独な戦いでもある。しかし、手ごたえのないまま話し続ける「私」の姿は「緩急をつけて楽しそう」であり、モヤに向けた乾杯のジョッキは、新たな小説が生まれようとすることへの喜びに満ちているといえよう。  言葉は記憶を呼び起こし、誰かと共有し得る手段となるが、自身だけが知る、言葉にならないイメージのほうがより鮮明に心に残り続けることもある。小野正嗣「生真面目な時」(『新潮』)の亜紀は、愛人として生きた女性の噂話に興じながら、自らも愛人として生きた過去を持つ母を忌避しつつ、自身もまた小島誠と不倫関係に陥っていた。誠と密会し帰宅した朝、意識が混濁していた息子、良樹の容態を亜紀に知らせたのは飼い犬コジローの鳴き声だった。亜紀と同じ地区に住む多田和明は、唯一亜紀の不倫現場を目撃した人物だが、誰とも交流することなく黙々とこなすランニングを日課とし、三十年以上経った今も生真面目に時を刻み続けている。回想の中のコジローの鳴き声、今も続けられる多田のランニング姿は、自身の行いへの悔いを反芻させ、言葉にならないイメージとして亜紀の罪悪感を刺激し続ける。だが、コジローの墓前で亡き兄である良樹を見守って欲しいと頼む妹の純真な声、それに応えるように黄色い花が揺れるさまは、言葉なく示される唯一の救いのようである。  内に秘められた言葉は、時を経て成熟し、突如としてあふれ出ることもある。坂崎かおる「へび」(『文學界』)は、中古車販売の仕事に就いている父親が息子である夏秋に買い与えたへびのぬいぐるみの視点で語られる。発達障害である夏秋は、自分の気持ちを表現する言葉が不足していると診断されている。夏秋は小学五年生の時にショウという少年と出会うが、没頭していたゲーム、マインクラフトの仮想空間で交わされていたショウとのやり取りの痕跡から、父は夏秋の内部に多くの言葉があったことを知る。日々に追われ、成長し遠ざかる息子の背中ばかり追いかけていた父は、これまで息子と、そして妻と正面から向き合ってこなかったのではないか。だが、「自己修復機能」を持ち多少の穴も付属の液体で撚り合わせれば塞がるという特徴を持つへびのぬいぐるみは、父が家族との向き合い方を修復し得る可能性を暗示するものである。  へびは本来、脱皮することで新たな皮膚に生まれ変わる。父は物語の最後で未来の夏秋を想像するが、そこでの夏秋は、戸惑いながらも自分の内に秘められていた「言葉」を紡ぐことができるまでになっている。そのさまはこの先夏秋が獲得するであろう新たな姿を予感させよう。(やまだ・あきこ=専修大学非常勤講師・日本近現代文学)