文芸
山田 昭子
小説を読む際、いつも思い浮かべるのは「多義図形」だ。多義図形とはトリックアートの一種で、見るものによって複数の解釈ができる図形のことを指す。代表的なものとして、デンマークの心理学者エドガー・ルビンが考案した「ルビンの壺」がある。左右対称の壺に見える一方で、意識を変えれば二人の人間が向かい合った横顔にも見えるというものだ。だが小説は二通りどころではない。読者の数だけ見え方があり、読み方がある。そこが小説の面白いところでもあり、難しいところでもあるのだが、本欄を担当した一年間を振り返って思うのは、各作品が見せるいくつもの図形の中から、果たして私自身はどの図形を選び取ったのか、ということである。私が強く関心を持っていたことは二つあった。「見る/見ない」という行為を通して捉え直された世界。もう一つは「言葉」の持つ力の存在である。
連載第一回目の〈1月〉では自己イメージの〈選別〉という観点から石田夏穂「小人二十面相」(『すばる』)に触れた。本欄で取り上げた作家の中では最も多くなったが、石田作品はいずれも「見る(見られる)」という行為を通して、他者イメージから自己イメージを再構築し直すことの複雑さを描き続けた。〈2月〉の水沢なお「こんこん」(『文藝』)は、遊園地のきぐるみという「匿名」の存在を通し、相手を「見る」ことでその本質を見極めようとする人物を描いた作品だ。人は時に自分の見たいもののみを見ようとするが、その恣意的な視点が時に他者を苦しめもする。〈3月〉の中西智佐乃「橘の家」(『新潮』)は、「子孫繁栄」を良いこととして「見る」一方で、女性のみに課され続けた妊娠にまつわる様々な負担を「見ない」ことにしてきた過去への〈反逆〉を描く作品として印象に残った。
一方で、自身が「見た」世界の真偽が根本から問われる場面に直面した時、人はどうなってしまうのか。〈4月〉の筒井康隆「偽眼」(『文學界』)は、龍彦の不思議な体験を通して、見ている世界に疑いを抱く者は何を〈本物〉だと信じたら良いのか、そもそも〈本物〉とはどこにあるのか、といった問いを巧みに読者に投げかけた。それに対し、村上春樹「夏帆とシロアリの女王」(『新潮』)では夏帆が「見て」いる現在の世界を「自身の世界の物語」として受けとめ、選別を迫った作品だといえよう。
〈7月〉清水裕貴「光の味を知るものたち」(『すばる』)は原爆投下当日の広島市を撮影したカメラマンの所有物であるマミヤシックスの視点で描いた。カメラという無機物と撮影者である有機物は、「見る」行為を通じて「記憶」を共有することで結びつく。「スケッチ」によって、「見た」ものを「描く(書く)」ことで「記憶」に残り続けることへの希望を描いたのは〈8月〉鳥山まこと「時の家」(『群像』)である。
小説もまた、「言葉」を書き留め、綴ることで新たな力を生み出してゆく。〈5月〉の鈴木結生「携帯遺産」(『トリッパー』)は、「人にはどれほどの本がいるか」(『小説トリッパー』2024年春季)、『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版)に続く「初期三部作」の三作目だ。作家である舟暮按と他者の関係を織り込みながら創作する「自叙伝」をめぐる本作に、鈴木作品の特徴である既存作品へのオマージュ、そして言葉遊びは、効果的に響き合う。
関連性を強調するハッシュタグによって拡散し続ける言葉のありようを描いたのは、〈6月〉永方佑樹「生成変容体」(『文學界』)だ。ハッシュタグは投稿者自身のためではなく、受け手側である「他者」のためにつけるものである。「言葉」で語り継がれる「記憶」と「他者」である受け手側の実感との距離感を描いたのは〈9月〉滝口悠生「花火」(『群像』)だ。書き、語る者だけではなく、読み、耳を傾ける存在がいることでも「言葉」は力になりうる。
〈10月〉坂崎かおる「へび」(『文學界』)の夏秋は、言葉を発することが不得手だが、それは彼の内部に言葉がないということではない。彼の内に秘められた「言葉」の溶鉱炉の存在と、それを受け止める「他者」の存在がいることが希望としてほのめかされる作品だ。
「言葉」によって現代社会の閉塞感を描いたのは〈12月〉坂本湾「BOXBOXBOXBOX」(『文藝』)だ。本欄で取り上げた作品の多くには、匿名性からくる責任放棄、没個性となることへの恐れ、もはや本物と偽物の区別が「見た」だけでは分からない世界への疑念が通底していた。「箱」になぞらえた匿名性、没個性で交換可能な閉塞感を描き出した坂本氏の作品には救いが描かれず、最後まで絶望の匂いが漂う。それはある意味現代社会の世相を的確に反映しているともいえる。だが人は絶望の中でこそ希望を強く渇望する。だからこそ本作に敢えて希望の欠片を見出そうとする読み方もあるのではないか。
多義図形は、一見しただけでは、同時に複数の図形を捉えることはできない。だが、何度も見返してこそ、別の形が浮かび上がってくるものだ。取り上げてきた作品を今後繰り返し読む中で、新たな気づきを得られることへの喜びを予期しつつ、2025年の回顧としたい。(やまだ・あきこ=専修大学非常勤講師・日本近現代文学)
