ラーメンと瞑想
宇野 常寛著
渡邉 裕之
朝活の本だ。それもかなり戦略的な。
この本の著者、批評家・宇野常寛は毎週水曜を朝活に当てている。高田馬場から千駄ヶ谷の新国立競技場までランニングする。競技場のベンチに座り瞑想を行う。終えて宇野はあらかじめ決めていた料理店(ラーメン店が多い)へ全速力で走りこむ。彼は料理にガッと向かいひたすら食べる。だからタイトルは『ラーメンと瞑想』だ。
著者の基本姿勢は前作『庭の話』(講談社)と同じだ。SNSプラットフォームで承認を求めることに生きるエネルギーの多くを費やしている人々から遠く離れること。そのための環境づくりが前作なら、本書は体を使った実践編。
と書いたが、実は宇野は朝活を一人で行っていない。友人Tと一緒だ。高田馬場で集合し二人で走る。瞑想もTが持ち込んできたもので、ラーメン屋も二人で並んで食べる。
朝活は、それが太極拳、街路の掃除、早朝読書会でもいいが、一人語りにぴったりだ。見栄えのいい写真をUP、ちょっとした朝の感慨を述べる。まさにSNSに使える。それを宇野はしなかった。二人で行った。だから戦略的と考えたのかといえばそうじゃない。台湾の楊双子著『台湾漫遊鉄道のふたり』(三浦裕子訳、中央公論新社)を思い出したからだ。
この小説、昭和13年(1938)の日本統治下の台湾を舞台にした日本人女性作家と、台湾の女性通訳とのシスターフッド物語。
思い出したのは、こんなことがきっかけだった。Tは哲学的な対話を日常的に行える友人。この本で特徴的なのは、対話の中心は宇野の瞑想の中で空想的なTとの会話として行われること。だから瞑想というより対話の時間と言っていい。
そして読み進み、終わりの方で気になることがあった。Tの家庭生活が大きく変わったことが語られる。妻子との別居、離婚調停、そして20年間の結婚生活にTはピリオドを打っていた。あれだけ深い会話を交わしていた友人なのに、宇野はこれだけをさらりと事後報告する。私は不満だった。「あっさりしすぎだ、色気ないなぁ~」と思ったのだ。一緒に朝活している相手が別居生活を始めたなら、薄氷を踏む調停に入ったと知ったなら、何かサポートしようとするんじゃないか。しかし、それがない。
これが女性同士の朝活だったら、もっとグシャグシャした、あるいは感動的なケアの物語に展開かな~と思った。その時、私は『台湾漫遊鉄道のふたり』を思い出したのだ。
この小説の構成要素が『ラーメンと瞑想』と同じだから。ランニングの代わりに二人の女性は、当時の台湾鉄道を駆使して彼の島を走り抜ける。台湾料理をひたすら食べる。この大食漢の女性たちは宇野理論を実践するように、事物としての食物に向き合い食べ尽くすのだ。では瞑想、いや対話は? 宇野が瞑想の中で行う対話のように、Tとの哲学的会話を思い出し考察するように、女性作家も相手の会話を反芻し考えていく。まあ、これ、百合小説なので、考察は恋愛そのものなのだが。そして、この小説が興味深いのは、鉄道紀行+グルメ報告+百合小説の方法を意識的に使用して植民地体制とは何かを浮かび上がらせていくこと。戦略的なのだ。本書と同じじゃないか。
ランニングも鉄道旅行もグルメも、宇野も楊にとっても没頭できる趣味だ。車窓に流れていく台湾の風景、走り抜ける都市東京、そして麺類、お菓子……。制度を食い破るようにそれは描写される。そう、人に自己承認を欲求させる制度の向こうの、事物の世界を予感させるように。その予感の中で楊の登場人物たちも宇野とTも対話をする。しかし、その対話が違う。楊の小説では戦前の台湾の厳格な結婚制度を巻き込む形で行われるが、本書ではTの結婚生活の破綻がさっと触れられ終了する。
婚姻制度が問題なのだと言っているのではない。そうではなく、制度を突き破り向こう側にある事物の世界を予感した者が、対話の相手がそれでもなお制度に絡めとられていることに気づきドラマを作ること、それが『ラーメンと瞑想』には足らないのではないかと思ったのだ。
制度との闘いが一人ではできないことをよく知っている宇野が、戦略的に作り上げた本。だからこそ、ここでの対話の展開が実に気になったのだった。(わたなべ・ひろゆき=編集者)
★うの・つねひろ=評論家。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』『母性のディストピア』『遅いインターネット』『水曜日は働かない』『チーム・オルタナティブの冒険』『庭の話』など。
書籍
| 書籍名 | ラーメンと瞑想 |
| ISBN13 | 9784834254044 |
| ISBN10 | 4834254046 |
