2025/11/14号 3面

ベンサム論集

ベンサム論集 H・L・A・ハート著 戒能 通弘  本書の著者のH・L・A・ハートは、現代を代表する法哲学者であり、その主著『法の概念』(初版は一九六一年)では、法を、刑法をモデルとする、制裁を伴う主権者の命令として捉え、影響力のある法理論を示していた一九世紀のジョン・オースティンが批判的に検討されている。そして、刑法のような「義務賦課ルール」だけでなく、人々に権能(権限)を与える契約に関するルールのような「権能付与ルール」も法の重要な構成要素であること、人々は自らの行為を正当化し、他者の行為を批判するルールとして法を捉えているという「内的視点」の強調、法と非法を隔てるのは、人々によって服従されている主権者の命令であるか否かではなく、裁判所が適用している「認定(承認)のルール」によるといった諸点を示すことで、ハートは現代法にも即した洗練された法理論の基礎を築いた。  一方でハートは、ジェレミー・ベンサム(一七四八年―一八三二年)の思想の優れた研究者でもあった(ハートのベンサム研究者の側面は、N・レイシー(中山竜一・森村進・森村たまき訳)『法哲学者H・L・A・ハートの生涯(下)』に詳しい)。ベンサムには未刊行の膨大な草稿があり、一九五九年にロンドン大学にベンサム・プロジェクトが創設され、新全集が刊行されることになった。そしてハートは、初期の巻である、『道徳および立法の諸原理序説』、『法一般論』(ともに一九七○年刊行)、『註釈へのコメント・統治論断片』(一九七七年刊行)の(共)編者を務めている。いずれもベンサムの法思想・政治思想の最も重要な著作であり、その編集の過程で草稿に直に当たったハートは、それまで十分な評価がなされていなかったベンサムの思想、特にその法哲学の意義に光を当てている。もちろん、ベンサムに対する関心は二○世紀になっても持続していたが、ベンサムが、法哲学にも極めて重大な貢献をしており、その意味でベンサムが正当に評価されるようになったことも、ハートの重要な貢献の一つである。  本書は、そのハートが、一九六○年代から八○年代に発表した論文をまとめ、一九八二年に刊行した論文集であるが、「訳者あとがき」で的確に示されているように、歴史的な哲学者の著作を今日的な観点から論じる、非歴史的な分析哲学者のアプローチが取られている。そして、ハート自身の論述の精確さ、質の高さもあって、(原著が)約四○年前に刊行されたものとは思えないほど、現代性がある。また、章を追うごとに、ハートのベンサム像、さらには現代の水準から見たベンサムの法哲学の難点が明らかになる構成になっている。  (以下、部分的な紹介であるが)、ベンサムは、現にある法とあるべき法を峻別し、「悪法は法ではない」とした自然法思想を批判していて、本書の第一章「法の脱神秘化」では、そういった、法は人間の意志が作り出すものであるという観点から、ベンサムがコモン・ロー賛美などを脱神秘化しようとしたことが描かれている。脱神秘化とは、言語、概念の誤用、混乱を突いた批判であるが、ベンサム自身の言語論については、続く第二章「ベンサムとベッカリーア」で、ベッカリーアの影響も示唆されつつ、ベンサムの言語論が言葉自体の意味を問うものではなく、その言葉が含まれる言明の意味を問うといった現代的な発想に基づいていたと主張されている。  その言語論に基礎づけられたベンサムの法理論が検討されるのが、第五章以降になる。すでに触れたように、ハートはベンサムの法理論の最も重要な著作であった『法一般論』をベンサムの草稿から編集し、一九七○年に刊行している。そして、本書の第五章「ベンサムの『法一般論』」でも示されているように、一九世紀後半以降に影響力を持っていたオースティンのものよりも、はるかに洗練された議論をベンサムは展開していた。ベンサムは『法一般論』で、自らの言語論に基づいて、法、権利、義務などの法的概念を分析し、オースティンと同様に、法を主権者の命令として捉えていたのだが、第八章「法的権能」でハートが的確に指摘しているように、ベンサムには、法的権能についての詳細な分析があった。また、第九章「主権と法的に制限された政府」では、オースティンとは違って、ベンサムが、『法一般論』において、主権者に対する「法的」制限も認めていたことが確認されている。しかし、ここからがハートの真骨頂であるが、法命令説に依拠したベンサムが、最終的には、法的権能を義務賦課的法に依存するものとして捉えざるを得なかったこと、また、ベンサムは、主権者に対する法が破られた際には、主権者に対する「服従の習慣」が止まると説明していたが、主権者をも拘束するような憲法的制度を説明するには、裁判所による憲法の承認と、それに基づいて主権者の行為の有効・無効の判断がなされるといった枠組みが必要であると、現代の水準から、ベンサムの所論が批判されている。  本書の「補説」でも示されているように、ハート以降、新全集の刊行がさらに進むとともに、ベンサム研究も飛躍的に進展した。そして、ハートの分析方法にも批判はあるが、ベンサムの法哲学の特徴、特にその現代性を摑んでいることは否定できない。同時に、「訳者あとがき」にもあるように、ベンサムとの対話を通じて、ハートは、本書で自らの法哲学を発展させることも試みていた。本書には難解な部分もあるが、森村進の訳によって大変読みやすいものになっている。(日本の)ベンサム研究はもちろん、法哲学の分野でも必読書となるのではないだろうか。(森村進訳)(かいのう・みちひろ=同志社大学教授・法思想史)   ★ハーバート・ライオネル・アドルファス・ハート(一九〇七―一九九二)=イングランドの法哲学者。オックスフォード大学で古典と哲学を学ぶ。弁護士を務めた後、第二次世界大戦中は陸軍情報部に勤務。戦後はオックスフォード大学で哲学フェロー・法理学教授を務める。分析哲学の枠組みで、法実証主義の理論を発展させた。著書に『法の概念』『法学・哲学論集』『権利・功利・自由』『法・自由・道徳』(未邦訳)、共著に『法における因果性』など。

書籍

書籍名 ベンサム論集
ISBN13 9784326451463
ISBN10 4326451467