ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 403
ベルイマンとデプレシャン
JD 映画の形式面を成り立たせているものは何か。モンタージュも含めて、あらゆる要素が複雑に絡み合って成り立っています。それは現実の社会と結びついているかもしれませんし、映画史とも結びついている。ファスビンダーやアルモドバルの映画も、そうしたものの一部をなしています。
映画は、多くのことを請け負う可能性を持っています。しかしながら、出来の悪い映画は、非常に狭い見方に基づく作りになっています。人工的に操作された心理描写劇であったり、単に物語を説明するだけのものにもなります。または、映画作家が、自身の狭い見方に基づく考えをクドクドと述べるものにもなり得ます。社会に対する考えや、映画史に対する自分の見方など、さまざまな立場から、映画を利用している人が大勢いるのです。いずれにせよ残念なものです。そして、観客もそうした映画に影響されて、プレシオジテ(もったいぶったもの)こそが良いものであると考えるようになってしまう。今日の映画の世界では、その傾向が強まっています。それは映画に限らず、芸術全体に言えることなのかもしれません。芸術は、本来であれば、感性によって受け取られ、または作られるものです。細部の細部を見たり、知識を自慢したりするものではありません。そうではなく〈生〉全体を感じ取るべきなのです。
HK ベルイマンは、細部に拘らない、〈生〉の映画を作ることができていたということでしょうか。例えば、アサイヤスやデプレシャンと比較すると、家庭内の狭い世界で映画を作っていた。『サラバンド』を観ても、カメラの動きや舞台の変化がほとんどない、狭い空間で繰り広げられる家族劇です。
JD ベルイマンは、〈生〉に真剣に向き合っていた映画作家です。言うなれば、彼の語ることは噓になりようがない。物語が、自らの体験と結びついていたからです。デプレシャンやアサイヤスに関しても、似たところがあります。しかし、私の考えでは、ベルイマンの映画には広がりがあります。彼個人の生き方に基づくものでありながら、同時に、現代の人間の生活全体に関わる要素を持っている。ベルイマンという一人の人間の生き方に関しては、あまり言うべきことがありませんが、何度も結婚と離婚を繰り返し、多くの家庭問題を抱えていました。そうした背景からも理解できるように、彼は男女間の戯れや家庭生活に関して非常に多くの経験をしている。そうした経験、彼の生き方が、作品に非常に強く反映されています。ある観点からすると、ベルイマンは、自身の戯曲や映画を作るため、個人的に問題を抱えつづける必要があったとも言えます。もし実生活のうえで多大な問題がなければ、同様のテーマで、あれほど多くの作品を作ることはできなかったはずです。
少し話は逸れますが、ウッディ・アレンはベルイマンのそうした一面に影響を受けていると思います(笑)。ウッディ・アレンは、――言うなれば――決してベルイマンのように女性を惹きつける人ではありません。しかし、彼は自身の映画を作るうえで、多くの〈問題〉を必要としていました。問題を自ら探しているところがあるのだと思います。ベルイマンが自然と問題を引き起こしていたのとは異なり、ウッディ・アレンは余計なことに足を突っ込んで問題を起こしていたのではなないか。その違いは、彼らの映画作りにも反映されています。
ベルイマンと家庭の問題に話を戻すと、デプレシャンと似た面があるのは事実です。デプレシャン自身、昔から家族の問題をいろいろ抱えていました。姉との間には大きな確執があり、他の人々とも上手くいっていなかった。けれども、家族として振る舞っていかなければならない。それはデプレシャン家に限ったことではありません。フランスの家族において頻繁に見られることです。日本でもアメリカでも、形は違えども、同種の問題があるはずです。フランスにおいて――また他の国々においても――、彼の映画が見られるのは、そうした身近な家族の問題を根本的に取り扱うことができているからです。
HK アサイヤスも、身近な問題を取り上げているのではないでしょうか。
JD 私は、そのようには然程思いません。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)