百人一瞬
小林康夫
第86回 ミッシェル・セール
お会いしたのはただの一度。それも当時、わたしが学会の渉外委員だったので、東大駒場キャンパスで行われた講演会のときにお世話をしたというだけ。だが、「一瞬の交差」にも届いていないその時間がわたしの記憶に残したのが、なによりもセールさんが話すフランス語の軽やかで明るい南仏のアクセントだった。
同じフランス語なのに、南仏訛りには、特に鼻母音がそうだが、まるで太陽の光が差し込んでいるかのような不思議な明るさが響いている。もちろん学生時代にセールさんの「ヘルメス」シリーズを何冊も目を通していたのだが、リオタール/デリダ的な方向に哲学的思考の舵をきっていたわたしには、セールさんの「科学哲学」は地続きではあるが違う太陽に照らされた「別の地方」のもののように響いていたのだった。
それは一九九一年六月だった。では、セールさんはそのとき何を語ったのだったか? 調べるのは簡単で、当時、わたしが実質上の編集を担当していた雑誌『ルプレザンタシオン』(筑摩書房)に、同僚だった石井洋二郎さんの訳で全文が掲載されている。タイトルは「第三教養人」(なお、法政大学出版局の及川馥訳による訳本では『第三の知恵』となっている)。早速、書棚の隅にあった雑誌を取り出して読んでみると、冒頭、「天体の一般運動が楕円軌道だ」というケプラーの発見からはじまって、だから誰の軌道も、いわば「太陽」ともうひとつ「誰も語らない黒い太陽」という二つの中心をもっている、しかも「各軌道の本当の中心はまさしく第三の場所に、きらめく球体と暗黒の点という二つの焦点の中間に隠れています」と言い放っているのだった。
う~~ん、そうだったのか、わたしは唸る。あのときなにもわかっていなかった。でも、いまなら、そうだよね、と心から相槌が打てる、と。
二年前に『存在とは何か 〈私〉という神秘』(PHP研究所)を上梓させていただいた。まさに〈私〉という実存を、「太陽」が照らす「実」の世界と密かに「黒い太陽」が周回している「虚」の世界とが「暗黒の点」において交差する四元的存在として記述しようとするもので、その次元構造を数学的に保証するものとして、十九世紀の数学者ハミルトンが発見した四元数を使ってみた実験的なものだった。
だが、そのような数学的、複素数的基礎をどうやってわれわれ人間の文化に返えすことができるか? 長い間、悩んだ。その迷いから解き放ってくれたのが、セールさん晩年の書『作家、学者、哲学者は世界を旅する』(水声社)だった。セールさんは、そこで文化人類学者フィリップ・デスコラのアニミズムやトーテミズムに関する研究(『自然と文化を越えて』水声社)を引き継ぎ踏まえつつ――南仏的な軽やかで明るい文体で――人間文化の根源的四元性をまとめていた。
それが、わたしに『存在とは何か』を一冊の本として書きあげる勇気を与えてくれた。「南」の明るい太陽と「北」の黒い太陽、その二つの次元がクロスオーヴァーする交差の中心においてこそ、〈私〉は――「知恵」でもなく「教養」でもなく――なによりも一個の〈神秘〉として実存すると、わたしも言い放ってもいいのだ、と。
メリメの『カルメン』が題材になっていたあの講演の最後を、セールさんは「文学が哲学よりもなお深くまで行くことを示せるほど深くまで行けるのは、やはり哲学だけなのです」と締め括っていた。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)
