<食暴力の構造への小さな抵抗>
藤原辰史×安田菜津紀
藤原辰史著『食権力の現代史 ナチス「飢餓計画」とその水脈』(人文書院)
現代史家の藤原辰史氏が『食権力の現代史 ナチス「飢餓計画」とその水脈』(人文書院)を上梓した。食の集中=食権力をめぐり、ナチスとイスラエルを中心に、我々を取り巻く資本主義経済の巨大な闇を克明に記す。ナチスはソ連の住民三〇〇〇万人の餓死を目標とした史上最大の飢餓計画を立て、ガザでは飢餓を武器とした虐殺が行なわれている。そして地球上の餓死者は少なく見積もって毎日二万四〇〇〇人(二〇二一年九月の報告)。衝撃的な現代史である。
本書の刊行をきっかけに、フォトジャーナリストの安田菜津紀氏とお話しいただいた。(編集部)
安田 イスラエルがパレスチナに対して行ってきたことと、ナチスが振るった暴力に共通点が多いことは、感覚としてはもっていました。でも今回、藤原さんが「食権力」に焦点を当て、経済合理性を通して徹底的に歴史を掘り下げて書かれたことで、あまりにもシンクロするところが多いことがわかりました。ソ連に対するナチスの飢餓政策「バルバロッサ作戦」をはじめ、「食権力」が暴走した歴史的事実が、網羅的かつ緻密に提示されるのを、終始身の毛のよだつ思いで読みました。
かつて麻生太郎氏がナチスを引き合いに出して、「その手口に学んだらどうか」といった発言をしましたが、実際にその手法が「洗練」されたかたちで現代に立ち現れ続けていることを考えると、あれは全く笑えない暴言だったと思います。
現在進行形で、ガザあるいはヨルダン川西岸においても、食権力による暴力が、武力行使とともに続いているいま、立ちすくんでいる場合ではない。とは言え、イスラエルとナチスの行為を系譜として捉えることは、ある種の「タブー」でもあったのではないかと感じます。
昨年三月にドイツに行きましたが、ガザでのイスラエルの虐殺に反対の声を上げると、「テロリストの味方」だとか「反ユダヤ主義者」だというレッテルを貼られ、実際に逮捕されることまで起きていました。この事態の中、それでもこの観点から掘り下げねばと思われた理由を伺えますか。
藤原 確かに、版元の担当者が「この本はモサドに狙われることはないか」と事情通の方に尋ねるほどには、ナチスとイスラエルを同じ地平で論じるのは、リスクがあったようです(笑)。
私は学生の頃からドイツ現代史の、特にナチスの内地植民政策というテーマから研究を続けてきましたが、イスラエルを論じることはありませんでした。実は『ナチスのキッチン』という本で、イギリスの委任統治領だったパレスチナに、ナチスの脅威から逃げてきたユダヤ人のレシピ作家を取り上げたことがありました。でもその人がどのようにパレスチナで暮らし、ヘブライ語とドイツ語併記のレシピ本を作ったのかは考えもしませんでした。私の中に、ユダヤ人はディアスポラとして苦しめられている存在だという固定観念があったんです。
十年ほど前に安保法制の運動に加わり、その一年後の二〇一五年に「自由と平和のための京大有志の会」を友人と立ち上げました。ここにアラブ文学を研究し続けておられる岡真理さんにも加わっていただいたのですが、岡さんは私たちの姿勢を批判されました。つまり運動が非難する「戦争」には、封鎖されたガザ地区や入植に苦しむ西岸地区のような「占領」という暴力への意識はどれだけあるのかと。
二〇一六年からは、京都大学で有志の会のメンバーを中心に、一年生と社会問題を考えるゼミを始めました。岡さんにもお話を聞く中で、自分のナチス研究の狭さを痛感するようになっていきます。イスラエル建国に際しての凄惨な暴力が、ナチスの犠牲者でもあったユダヤ人によってなされた事実に衝撃を受けました。またサラ・ロイの『ホロコーストからガザへ』や、イラン・パペ『パレスチナの民族浄化』などを読み、イスラエルで起こっていることは食と農業問題だということにも気づき始めます。
それからイスラエルとナチスを比較していこうと、ささやかながら毎日新聞などに書き始めて、この話題がタブーだとわかってくるんです。
安田 それは反響を得て、ということですか。
藤原 逆です。他のエッセイを書くとある程度反響があるのに、イスラエルとナチスに関しては、全く反響がなかった。
ただ、タブーって何かなと思うんです。イスラエルを批判すると「反ユダヤ主義」と呼ばれてしまう。古代から差別を受け続けてきたユダヤ人は、現代史において虐殺の歴史も背負った。イスラエルを批判することで、そうしたユダヤの存在そのものを否定しているように捉えられてしまうわけですね。でもタブーと思われていることの多くは、自己検閲によって生み出されていることが多いのではないかとも思っています。
パレスチナの蜂起が起こり、イスラエルの暴力とナチスのそれとは似ているのではないかと人々が気づき始めた頃、ようやく私もナチスの行いを絶対視する歴史意識が、イスラエルによる虐殺を軽視する方向へ向かわせたと、岡さんとのシンポジウムの中で発言することができました。そのときにはたとえタブーだとしても言わなければ、という思いでした。むしろ、イスラエルの飢餓の暴力が研究の中に位置づくことで、自分はやっとナチス研究者として物が言えたと悔んでいるんです。
安田 藤原さんはご自身のあり方に引き付けて話されましたが、これは歴史研究そのものが抱える問題だと言えると思うんです。ナチスのユダヤ人に対する暴力を絶対視する流れは、二度の歴史家論争に影響を受けていますよね。そして藤原さんご自身も、それを内面化したところがあった。
藤原 そうだと思います。私が学生だった頃は、第一次歴史家論争真っ盛りでした。それを私が内面化したのは、歴史修正主義が日本に溢れていたからです。日本に比べてドイツはナチスの歴史に向き合っていると評価していました。
安田 私も、今でもドイツの記憶文化には学ぶところがあると思っています。ただ、何かを絶対視することで、加害に序列を作ってしまうという弊害は見るべきですよね。とりわけ本書の軸になる「食権力」を掘り下げていただくことで、そのたちの悪さがより見えてきました。繰り返し書かれるのは、「飢餓計画」により加害者は、街を封鎖するのみで手を下さず、銃火器を節約して、大量の人間を死に至らしめることができる。だから良心の呵責から免れやすい。さらに被害者側も攻撃されているという意識が希薄だと。
私が連絡を取り合っているガザの母親たちは、自分を責めるんです。自分は悪い母親だ、子どもに十分な栄養を与えられないと。女性は台所を守る役割を社会から担わされている、その点でも重圧を受けています。女性は統治の対象であり、主体ではないという指摘も、本書ではなされていました。戦争も飢餓計画も遂行者は男性なので、その人物を検証しようとすると、戦後検証自体が男の顔になっていくわけですよね。
ただ本書には、ジェンダーの視点からこの暴力を解き明かそうという姿勢が見られました。食権力を振るう側が男性であり、食を通してケアを求められるのが女性であるという不均衡が浮かび上がるように、意識して書かれていたと思います。
藤原 そこは苦労したところです。まさに安田さんが話された母親たちの言葉のような、女性の声を歴史に組み込みたいという思いがありました。
男性研究者が、権力や為政者たちについて書こうとするとき、その書きぶりがどうにもマッチョになってしまう。それがこれまでの歴史研究の良くないところだったと感じているんです。
安田 論じる側も、論じる対象のマチズモから逃れられないところがあると。
藤原 それが政治史の限界ではないかと思うんです。これは意識的にでないと解消できないと思ったので、今回は食権力の一番厳しい部分をかぶる女性の目線を入れようと心掛けました。
表紙はドイツのケーテ・コルヴィッツという画家の作品で、子どもに食べ物を与えている母親の姿が描かれています。第一次世界大戦前に描かれた穏やかな光景です。裏表紙にはまさに飢えて苦しくて、母親に齧りつく子どもを描いた、「Brot!(パン)」という絵を載せました。
良心の呵責や罪の意識を台所に立つ女性たちに預けて、マッチョな経済成長や政治がなされてきた、それが近現代史です。そしてその最たるものがナチズムであり、現在のイスラエルである。
ただ『食権力の現代史』を、「食暴力の現代史」としなかったのは、歴史の中で台所に立ってきた女性たちが、一方では食権力の担い手でもあるからです。それは小さなものですが、胃袋を握ってきた女性たちにこそ、巨大な食権力を育てる力だけでなく対抗する力もあるのではないか。女性が統治され搾取されたという歴史観を記すだけにはしたくなかったんです。
安田 パレスチナに滞在したときのことですが、イスラエル軍の急な襲撃があったりして、人々は、常に暴力にさらされているんですね。それでも朝目覚めて、電気もガスも使えなければ、薪を集めてでもコーヒーを沸かして飲む。難民キャンプで薪を手に入れるのは、実はすごく大変なのですけど。
藤原 どうやって手に入れるんですか。
安田 人から分けてもらったり、ゴミ広場で小さなものをかき集めてきたり。なんとかわずかな薪を集めてコーヒーを沸かすということが、藤原さんがおっしゃる小さな抵抗なのだと思います。ただそうした抵抗に対して、構造的な暴力があまりに大き過ぎますが。
ナチスは、捕虜や外国人労働者をかき集める一方、貴重な労働力であるはずの人々をどんどん殺していく、そういう矛盾がありましたよね。そしてパレスチナでも同じことが起こっています。イスラエルが、西岸を含め経済的な依存の構造に追い込んだため、人々は「出稼ぎ」を余儀なくされ、安価な労働力として使われることになりました。しかしガザの蜂起後は、途端に労働の場からしめ出されます。イスラエルの経済大臣は、十六万人の労働者をインドから連れて来て、パレスチナの人々と置き換えると宣言しました。実際に昨年末までに入国したのは一万六〇〇〇人だと報じられていますが。労働者を食料生産力や、労働力のコマとしか考えない社会は、持続可能性とはほど遠いですよね。
藤原 はじめに安田さんは「経済合理性」という言葉を出されました。悲惨な事件はしばしば「人道問題」に置き換えられ、感情的に語られがちです。もちろん事態には憎悪と蔑視が含まれています。がそれに加えて、いかに金をかけずに労働力を奪うかという、資本主義の課題がある。
なぜナチスは「ドイツ人ファースト」を掲げながら、ドイツ人の障害者を抹殺しようとしたのか。それは、障害者は労働力にならないからです。女性の価値も子どもを産むか産まないかで決める。人間を生産力でしか測らない。その背景に経済合理性があるんです。
ナチスが登場したとき、ドイツ国内には失業者が六〇〇万人いました。その状況を変える党派が出てきたと国民からの期待を集めた。しかしその裏には、労働力にならない存在は排除するという経済合理性が働いていた。その理論に基づくと、戦争捕虜や外国からの労働者が集まってくれば、もはやユダヤ人はいらないということになる。
彼らの中では人種のランクが明確です。一番低いランクのユダヤ人を餓死させ、あるいはゲットーで虐殺することで、人口の調整弁として働かせる。つまり、反ユダヤ感情だけでなく、食糧政策として、明確な計画の元に虐殺は行われたということです。
藤原 これはナチスだけの問題ではありません。経済というものの容赦のなさによって、現在の私たちは商品が大量に廃棄される世界に生きている。その自己意識の中でこそようやく、イスラエルがしていることを批判できるのではないか。パレスチナの人々を低賃金で働かせてきたことには、イスラエルの経済合理性が働いています。そして中東にサウジアラビアからエチオピア人が安価で働きに来るなど、刻々と変わっていく世界の労働市場をイスラエルは敏感に察知し、その流れの中でガザを破壊し、パレスチナの人たちを殲滅させる方向にむかっています。冗談のような話ですが、トランプはガザを観光地にすると言う。手っ取り早く、金を生む場所にしようとしているわけです。
これまでナチスの悪の根源は人種主義であると考えられてきました。またイスラエルでは、パレスチナのアラブの人々を「人間動物」と呼び、虫けらのように蔑んでいます。でもナチスやイスラエルのあくどさは人種主義にとどまらない。私は、経済合理性とレイシズムの問題を、併せて考えたいと思っています。
安田 パレスチナに対して、醜悪で巨大なヘイトクライムが起こっていることは間違いないのですが、報道機関が「憎悪の連鎖」といった定型句を使うことで、その背後にある圧倒的な不平等の構造を覆い隠してしまうわけですよね。憎まなければ問題は解決するのか、ということです。当然、背後にある不公正なシステムが変わらない限り問題は続きます。
ガザでの紛争が人道問題にすり替えられてしまうのもその一端でしょう。バケツの底が抜けた状態で援助をつぎ込み続けることが、ガザの蜂起以前から続いてきたわけですが、これによって潤うのはアメリカの巨大な穀物商社であり、イスラエルを経由して届けられることで、イスラエル経済にとってもプラスになっている。自分たちでガザを封鎖しズタズタに破壊しておいて、そのリスクを背負うことなく、援助によってむしろ潤う、そうした経済の仕組みがあるわけですよね。
藤原 憎悪の問題に回収してしまうことで、行為主体が消えて「人道危機」という、これ自体何の意味もなさない言葉のみが残ることになる。実際に起こっているのは、力の強いものが作り上げた装置の中で、大殺戮をしているというわかりやすい構図なのに、「人道問題」という言葉で、ヨーロッパ精神の未成熟というような曖昧なものにすり替わってしまう。そうした言葉のずらし方には強い違和感があります。
アウシュヴィッツを訪れると、巨大な二つのスペースについて教えられます。アウシュヴィッツ1は入口付近の比較的小さな収容施設、アウシュヴィッツ2はバスで一〇分くらい行く巨大なバラックの施設です。ところがそれ以外に、見学可能ではない重要な場所があるんです。これがアウシュヴィッツ3。「モノビッツ」と呼ばれますが、ジーメンス、クルップ、ダイムラー・ベンツなど、いまなお圧倒的な影響力をもつドイツの巨大企業の工場があった場所です。
企業は、収容者たちを無償で働かせ、訓練や管理はナチの親衛隊にお任せだった。つまりナチスに「鞭代」を支払いさえすれば、企業は安価な労働力が手に入るという仕組みです。この問題について調査し続けている研究者はいますが、仕組みを論じる難しさから、一般的にはこれまでほとんど知られてこなかった。 その反省から今回は、得意ジャンルではありませんが、穀物商社や水を独占する企業など、虐殺の構図に関与した商社や大企業を扱いました。
安田 「世界の覇権争いは、穀物の覇権争い」だとありましたね。
藤原 穀物商社はその系譜を辿るとユダヤ系が多いんです。歴史的に法的な差別を受けていたユダヤ人にとって、物財の「移動」に係わる仕事が始めやすいものだったからです。とはいえユダヤ資本主義というような言い方は、また別の固定観念を生み出すことになってしまうのですが。
安田 穀物など食品を扱う企業とは少し違いますが、昨年ザクセンハウゼンの収容所跡地を案内していただいたときに、被収容者で靴の強度実験を行っていたという話を聞きました。被収容者は靴の強度を試すために、ときには死ぬまで歩かされたという話に衝撃を受けました。
しかし先ほど藤原さんが挙げたダイムラー・ベンツもジーメンスも現存する企業です。その事実を考えると、この問題が十分に顧みられなかったのは、加害企業の罪を問うことよりも、経済を回し続けることを、戦後の世界の中では優先した、ということなのではないかと。
藤原 それについては、思い当たるところがあります。一つはニュルンベルク裁判です。ゲーリングをはじめとするナチスの幹部が裁かれたことはよく知られていますが、ほかにも並行して重要な裁判が行われていました。その中にIG・ファルベンなど、ナチスと提携した大企業に対する裁判もありました。実際、彼らは収容者に強制労働をさせ、大量虐殺のための毒ガスを作ったので、有罪になっています。ただし刑は「超」がつくぐらい軽かった。これも経済システムを温存する意図が、戦勝国側にあったからでしょう。だからこそ、ナチスを支えた企業はほぼ全て残っている。
日本でも、日本統治時代の朝鮮半島の植民地経営を支えた企業である、日本窒素肥料は、水俣病を引き起こした原因でもありながら現在もチッソとして残り、旭化成、積水化学などの母体企業となっています。
戦犯に値する大企業は温存され、いまもなお人権を無視した労働力の搾取は世界各地で行われています。現在、プランテーション農園で働く人たちは、身体を拘束され人権を剝奪された、経済奴隷だと言えます。あるいは難民キャンプの多くの女性たちが、強制的に性産業で働かされるシステムが成り立ってしまっています。人権を無視しなければ経済成長はできないことが、今回つくづくわかってしまいました。
スターバックスもマクドナルドも、イスラエルを支えることを明言しているわけですよね。イスラエル支援企業は食品関係以外でもいくらでもあります。大企業の経済システムには、収容所で鞭を振るいユダヤ人たちを無償で働かせた、ナチスの心性と同じような経済合理性とレイシズムが働いていると言わざるを得ません。そのように私は、世界を見ていきたいと思うんです。
藤原 日本でもかつて、秋田県の花岡鉱山事件や、各地の炭鉱で朝鮮人労働者たちが劣悪な環境の中で強制労働をさせられた事実がありました。それに対し、労働者たちは自主的に日本に働きに来たのだと主張する人がいますが、たとえ志願して出稼ぎに来たのだとしても、その背景には働きに来ざるを得ない経済状況に追い込まれる構造があったわけですよね。
安田 長年住んでいた土地を去らざるを得ない状況を巧みに作り上げるのは、現在進行形でイスラエルが行っていることと重なりますね。たとえばヨルダン川西岸のオリーブ畑では、すぐそばの水源をイスラエル側に押さえられ、パレスチナの農家は遠くの水源から水を引いてくるしかないといったケースがありました。出荷や生産をイスラエルに握られ、経済的に立ち行かなくなり、農業を手放して、イスラエルの工場労働者になる人もいる。そしてイスラエルは、彼らは自主的に農地を放擲したと、パレスチナの土地を吸い上げていきます。
それを許す背景には、イスラエル社会の中に、自分たちは被害者なのだという意識が未だに貫かれてあるのではないか。本書にも、第四代首相のゴルダ・メイアの回想録が紹介されていますが、イスラエル建国は、「金持ち」のアラブ人たちに包囲された貧乏な小国が、正当防衛の戦争に勝ったのだと、徹底的な犠牲者意識に貫かれています。同じ事件がパレスチナ人からすれば土地を蹂躙され村ごと虐殺された「ナクバ」です。これはメイヤだけでなく、国の団結や一体性を正当化する上で用いられがちな「物語」だと思います。
藤原さんは、「犠牲者意識ナショナリズム」と、食権力の暴力的な行使の親和性について、どう思われますか。
藤原 犠牲者意識ナショナリズムについては、私も研究の軸の一つとしてイム・ジヒョンさんの本を読んで学んできました。紛争の歴史に対しては各国ともに〝かつていじめられたかわいそうな僕たち〟というアイデンティティを利用して、ナショナリズムを再構築している感じがありますよね。犠牲者意識ナショナリズムにおいて〝飢餓で殺された私たち〟は、強烈に心をわき立たせる物語です。批判を恐れずに言えば、それに乗ったのがウクライナだということは、現状を知る上で重要だと思うんです。
ウクライナでは一九三二年から三三年に、ウクライナ民族主義を潰えさせる目的も含みつつ、ソ連によって半ば意図的に大量の穀物が収奪され、大飢餓が起こりました。ホロドモールと呼ばれますが、ウクライナの約四〇〇万の人々が餓死しています。凄まじい暴力です。ウクライナはこの歴史を、ジェノサイドだと訴え続けた。まだ出来て間もない民族国民国家であるウクライナのアイデンティティを築くために、ホロドモールの犠牲者であったという物語を利用し続けているわけです。
プーチンの侵略は許せることではありません。完全な国際法違反ですし、その暴力性は強調してもしきれないほどです。ただし、ウクライナがホロドモールの歴史を利用して、犠牲者意識ナショナリズムを発動していくこと自体も、西洋の資本主義システムの中に組み込まれることと軌を一にしている、そのことは押さえておきたいんです。
別の角度から言えば、ウクライナはどのヨーロッパ諸国よりも労働賃金が安い国です。ウクライナがEUに組み込まれれば、儲かるのはドイツやフランスの企業です。人件費の安いウクライナの人々を、介護や低賃金労働に利用すればヨーロッパ経済が活性する。そういう決着を目指すのが、帝国主義的視点であり、EUにもそういう振る舞いがあるということです。
安田 日本の朝鮮に対する植民地支配の加害性や、ホロドモールで不条理に多くの人の命が奪われたという歴史を知ることは大事なことですし、加害者の加害性を薄めてはいけないと思いますが、それを国家権力が語るときに、どういう角度で、何のために、誰に向けて語るのかには、注意深くあるべきだということですね。
藤原 つい先日、韓国の済州島と光州に行ってきたのですが、光州の南の全羅南道は、今なお見事な穀倉地帯ですね。
安田 光州事件の凄惨な歴史が刻まれた地であると同時に、食どころとして思い浮かぶ場所です。
藤原 映画「タクシー運転手」にも描かれていたように、光州事件の際に、市場の女性たちが学生たちにおにぎりを握っていました。
そうした穀倉地帯を日本は植民地として押さえ、現地の朝鮮人の労働力と穀物を収奪し、日本の人々を食わせていた。それによって朝鮮半島の人々は飢えに苦しんだという構造がありました。しかしシステム化されることで、加害側に、飢えさせたという記憶は残りにくいんです。ソ連がウクライナに対して行ったホロドモールもそうですし、ナチスが計画したソ連の三〇〇〇万人の飢餓も、大躍進時代の中国の四五〇〇万人とも言われる飢餓も同じです。ナチスは、良心の呵責を覚えさせない仕組みまで作って、スラヴ人たちを計画的に飢えさせる、巨大な暴力を繰り広げました。 そうした加害について、加害者側が詳密な事実としてきちんと叙述して残さない限り、語りは都合よく利用され国家に収奪されてしまう。これだけ大量の人が意図的に殺されながら、ナチスのユダヤ人虐殺に対して、飢餓の暴力は語られなさ過ぎるのです。あるいは朝鮮を植民地化した日本のあり方も。イスラエルは囲われた場所で低関心のまま、パレスチナの人たちを死ぬがままにしています。加害側が残虐さを感じず、忘れやすい暴力だということが、食権力の暴力性と悲劇性を増しています。
飢餓の苦しみを担うのは基本的に民衆です。貧しいものから、そして女性が圧倒的に亡くなる数が多い。社会的な慣習やシステムは、男性を優遇するものに出来上がっているからです。
そのことを念頭に、この本で試みたのは、飢餓とはどういう苦しみなのかという具体的な語りでした。飢餓を経験した人々の言葉や、病理的な変遷をできるだけ克明に記すようにしました。
たとえば、飢餓が進むと体はふくれてきます。これは体内のタンパク質を分解してエネルギーに変えるからです。
また今回特に注目したのは、ジョズエ・ジ・カストロというブラジル人の栄養学者ですが、ナチスの「飢餓計画」の命名者であり、この計画をヨーロッパ植民地主義の歴史に位置づけて論じた人物です。彼が残した記録には、飢えを満たすために人は土さえも食べたとか、彼が絶賛したクヌート・ハムスンの『飢え』という小説では、飢えのあまり自分の指を食べるシーンもありました。
ナチスの収容所での暴力はすでにかなり詳細に語られています。歴史家たちはそれと同じだけ克明に、飢餓がどれほど凄惨な暴力なのかを、言葉を積み、記録し記憶しなければならない。それがこの醜悪な社会システムに、小さい穴を穿つことになるのではないかと思うんです。
安田 ジ・カストロの指摘で印象的だったのは、一九四五年四月に、イギリス軍によってベルゲン=ベルゼン強制収容所が解放されて、国際援助が入ったときに、飢餓の被害者に医療者たちが静脈注射をうったことで浮腫がひどくなったという話です。飢餓状態の人に対してどのような処置をすべきかを、医療者たちは知らなかった。ジ・カストロは、搾取構造を作りながら飢餓を目の当たりにせずに済んできた西洋文明を痛烈に非難した。
藤原 西洋は医学を発展させたからこそ、力をもてたと思うんです。植民地で様々な病原菌に苦しむ人たちを治療し、信頼を勝ち得ていく側面もあったでしょう。のみならず、新薬や治療法を生み出す被験者としても植民地の人を使い、医学を発展させてきた。医学は人を救う学問として称賛されますが、農学も含め、このような「生かせる政策」にもレイシズムは組み込まれているのだと、ジ・カストロは示していると思うのです。
飢餓状態の人にいきなり栄養をたくさん与えたら死んでしまうということは、全ての医療者が常識として知っていてもおかしくない知識です。それさえも共有できていない医学の知とは何だったのかと。現今の食権力を批判し覆すためには、私たちの認識の枠組みを変えるような学問、教育を作り直さなければならない。構造的な暴力を理解するために、西洋由来の学問や思想に欠けているものは何か、問い返す必要があります。
安田 今の話は、私たちが身近なものとして口にするチョコレートやコーヒー、バナナなどの生産現場で、誰がどのような環境で働いているのか、働かざるを得ないのか、そのことに無自覚でも生きることができる、そういう構造への痛烈な批判にも通じていますね。
数年前にガーナの奥地のカカオ畑に、児童労働の現状を改善する国際NGOと共に行かせてもらったのですが、そこで働いていた子どもたちは、チョコレートなんて食べたことがありません。単一品目栽培は生態学的均衡を壊してしまうため、飢餓と貧困に晒されながら、自分たちが口にできないものを作っている。不均衡の象徴的な表れです。現在も続くこのシステムから変えない限り、ナチスはひどかったという過去の語りで終わってしまいます。
ジョン・ボイド・オアが、世界の食の構造を変えるための「世界食糧委員会」を構想し、頓挫した経緯が書かれていましたが、これから私たちは、食権力が暴力と化さないために、何をどう考えていく必要があるでしょうか。
藤原 私もそれについて議論したくて、この本を書いたところがあって、まだ明確な答えを出せてはいませんが、食権力の適正な使い方、食の集中の民主的で公正な仕組みを、考えなければならないと思っています。
それには、言及いただいた「世界食糧委員会」構想ですよね。一つの企業や国が「飢餓計画」を発動しないように、国連のような組織が世界の穀物倉庫を監視し、急な穀物の高騰が起こるときには、世界規模の緩衝在庫から穀物を放って穀物価格をコントロールする、そういう構想でした。しかしイギリスやアメリカ、企業の圧力で頓挫します。ただ、そうした歴史を知ることは、可能性を探る基本作業だと思うんです。
国連は現在あまり機能しておらず、パレスチナの人道支援さえイスラエルとアメリカが握り、援助しているようで実はじわじわと殺しているということも起こっています。それでもやはり、国際的な組織が各国の同意の下、そうした食権力を発動することは一つの対抗のあり方だと考えます。
二つ目はもう少し小さな話ですが、植物はそもそも、土と空気と太陽と水があれば育つものです。それがいつの間にか大量に作って大量に捨てるというシステムに絡めとられ、膨大な化学肥料と農薬と機械が必要になって、それを手に入れるためのマージンを握られることで、貧困と飢餓に喘ぐ状況が、現在のフードシステムの在り方です。
それを最高度に発達させたのがイスラエルの農業です。イスラエルの乳牛の生産量は世界平均の三倍ですし、ICTを使ったデータ処理や、点滴灌漑による水や化学肥料の調整によって収穫量ははるかに高く、培養肉の研究も盛んです。フードテックが、イスラエルの食権力をさらに強化し、一方のパレスチナには水さえない。そうした不均衡を生み出す仕組みを、私たちは見過ごしているんです。
日本でも見られる都市への人口集中は、「生きること」が「働くこと」であるという、資本主義の表れです。いま地域の土壌や水源に根差した、漁業や農業を中心とする小さなコミュニティから、誰も排除されない民主的な食権力というものを、もう一度見直していくことができないか。それが食権力の暴走に対する小さな抵抗になるのではないかと思っています。
安田 経済合理性とレイシズムが結びついたとき、食権力の暴走は起き得てしまうと思うのです。先日の参院選では「日本人ファースト」というスローガンが踊り、実態とはかけ離れた外国人問題が捏造されもしました。参政党は粗雑な主張が目立つので、ナチスやイスラエルと比較するのは適切ではないかもしれませんが、日本の中でレイシズムが食権力を食暴力に変えないために、何をすべきなのか。それを最後に伺いたいのですが。
藤原 これもじっくり議論したい問題ですね。食べ物は基本的に場所に規定されるので、レイシズムによって配給量を変えるというのは、本来は非合理的です。「日本人ファースト」のようなレイシズムが蔓延していく中では、「市民」というより「住民」という観点から、食権力のあり方を捉え直していくことが必要ではないかと考えています。
第二次世界大戦でも、捕虜収容所でドイツ人がソ連の人に食べ物を与えたという記録がありました。お腹をすかせた人が目の前にいたら、人種を考える前に、食べ物を分け与えようとする。そうした近接性が、レイシズムを乗り越える力になるのではと。
韓国では「お腹減ってないか」というのが、挨拶がわりなんですよね。
安田 「ご飯はもう食べたか」ってね。
藤原 そこに、お前は日本人かというような問いは挟み込まれないと思うんです。レイシズムを、共にご飯を食べるというレベルの議論に、一段、落とし込んで考えていけないかと思っています。
もう一つは、安田さんがガーナで取材されたように、ある地域の特定の人々が、極限までの低賃金で、奴隷的な労働をすることによってしか、私たちの飽食は成り立たない。つまり我々の食卓を成立させる仕組みにレイシズムが組み込まれていると認識した上で、食権力を考え直していくということが必要なのではと考えています。
安田 まだまだ話したいことがたくさんあります。この本をきっかけに、今後も議論していきたいですね。
藤原 そうですね。今日はありがとうございました。(おわり)
書籍
書籍名 | 食権力の現代史 ナチス「飢餓計画」とその水脈 |
ISBN13 | 9784409511084 |
ISBN10 | 4409511084 |