ひとつ以上の言語
バルバラ・カッサン著
馬場 智一
現代フランスを代表する文献学者・哲学者が2012年に子供向けに行った講演。翌2013年の『ノスタルジー』(拙訳、花伝社、2020年)に続き、単著の日本語訳としては二冊目。原書の出版年が近いので二冊は内容的に重なるが、こちらの方が子供向けに簡潔で平易に語られており読み易い。『ノスタルジー』が難しかったという方は、ぜひこちらの講演も読まれたい。
他方、著者が編集した『ヨーロッパ語哲学語彙翻訳不可能なものの辞典』に関わる内容も多くある。特に翻訳不可能性にまつわる話題は豊富だ。ある単語が持つ多義性は言語ごとに異なる。例えばロシア語のpravdaは真理と正義両方を意味する。後者の意味は聖書ギリシャ語のdikaiosunêに由来する。各言語が持つ独自の歴史は単純ではなく、単語の潜在的意味の全てを移し替えることはできない。しかしだからこそ、一つ以上の言語を翻訳により往復することで、別の世界観を獲得できる。
グロービッシュ(コミュニケーションのための世界で通じる英語)への警鐘にもページが裂かれている。英語という言語そのものへの批判ではない。映画館への行き方のような会話表現に限定された、詩や文学の出てこない英語、文化的背景を根こぎにされ、言語独自の世界観を薄められた英語が問題となっている。ちなみに、講演と同年出版のエマニュエル・ジャフラン『企業の小哲学』(Emmanuel Jaffelin, Petite philosophie de l’entreprise)では、フランス企業に侵入するグロービッシュ的な英語の語彙(ビジネス用語)が多数列挙されている。日本でも随分前から企業や行政用語にカタカナ語が多用されているし、国語教育から文学を取り除いた実用的国語教育も、グロービッシュ的発想の侵入だと言える。こうした波への抵抗が翻訳行為には期待される。
本講演では、Google翻訳が同じ文章を仏語→独語→仏語と一往復すると、主語と述語が入れ替わる奇妙な現象が報告され、「今のところ、翻訳は機械的な手法では行われない仕事」(四九頁)とされている。本講演から一三年後の現在、生成AIの発達により、グロービッシュ的な実用言語は、かなりの精度で翻訳できる。とはいえ、たとえば自動翻訳を駆使した「日本昔話Remix」(原倫太郎・原游)によれば、桃太郎を日→英→日と自動翻訳にかけると「桃太郎」→「Peach Taro」→「桃タロイモ」となる。「一寸法師」は「少量法律助言者」になる。ネット上に桃太郎の英語訳が多数存在すればAIは学習してその平均を取るだろう。しかし、翻訳というものは(何度も訳される名作や古典などは除くと)まだ別の言語になっていない文章のはじめての翻訳であり、平均を取りようがない。また、平均が「正解」になるわけでもない。著者は、旧約聖書におけるバベルの塔の逸話を例に、エルサレム聖書と呼ばれる格調高いフランス語訳とアンリ・メショニック訳を比較する。前者は読者を、後者は著者を「平穏に保つ」翻訳だ。しかし後者の訳が決して意味不明というわけではなく、原文ヘブライ語の文体と意味の両方を伝えている(しかも、日本語訳は仏語からの重訳にも関わらず、ほぼ同じ意味内容と文体の違いの両方を伝えることに成功している)。資本主義的な価値や言説が支配を広げる世界にあって、本書は、翻訳の原理的な複数性という希望に目を開かせる。
後半に収められた小さな聴衆たちとの質疑応答は微笑ましいが、子供相手にも(たとえ全て理解できないとしても)全力で回答を試みる著者の姿も印象的だ。本書はおそらく小学生くらいの子供を対象にした平易な講演だが、日本語になると小学生には難しい漢字や語彙もある。フランス語では日常用語と哲学の言葉との間にさほど大きな壁はないが、日本語の哲学用語は漢語による翻訳語を多用しており、壁はまだ高い。AIにできない翻訳の仕事は、人間に残された希望の一つだ。(西山雄二・山根佑斗訳)(ばば・ともかず=法政大学社会学部教授・哲学・倫理学・思想史)
★バルバラ・カッサン=フランスの文献学者・哲学者。フランス国立科学研究センター研究員を経て、同センター名誉ディレクター。二〇一八年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出。著書に『ノスタルジー』『翻訳を讃えて』『私をググって』(未邦訳)『詭弁の効用』(未邦訳)、編著に『ヨーロッパ語哲学語彙』(未邦訳)など。一九四七年生。
書籍
書籍名 | ひとつ以上の言語 |
ISBN13 | 9784924671911 |
ISBN10 | 4924671916 |