2025/09/05号 6面

尼僧少尉カタリーナ・デ・エラウソ

尼僧少尉カタリーナ・デ・エラウソ 坂田 幸子編訳 岡本 淳子  十七世紀初頭、女性でありながら男性としてアメリカ大陸に渡り、さまざまな主人に仕えて職を転々とし、数々の苦難をくぐり抜けて生きた実在の人物カタリーナ・デ・エラウソ(一五九二~一六五〇年)を多角的に捉えようとする画期的な一冊である。本書はエラウソの「自伝」から始まるが、それは括弧付きの自伝である。エラウソ本人による原稿は発見されておらず、訳出されているのはセビーリャ大聖堂付属の文書館に保管されている一七世紀末の手稿『尼僧少尉の生涯と事蹟』である。そのテキストではエラウソの度肝を抜くような人生が一人称で語られ、まるでピカレスク小説を読んでいるかのような感覚に陥る。  「自伝」はエラウソが四歳で入れられた修道院から十五歳の時に脱出するところから始まる。修道院の裏手の山で三日三晩を過ごし、「下履きスカートを上着とゲートルに仕立て直し」、長い髪を切り落として「山にばら撒き」、その後は男として生きていくのである。大学教授に仕えるのを皮切りに国王秘書官の小姓を経て、見習い水夫としてガレオン船に乗り込み植民地であるアメリカ大陸へと渡る。  驚くべきはエラウソの気性の激しさと喧嘩っ早さである。「噓つき呼ばわり」されたことから剣を抜いて殺害したという場面が二度ある。ロペ・デ・ベガも説いていたように、当時いかに名誉を守ることが重要であったかがわかる。それにしても、エラウソが殺めた人数はいかほどか。警吏と口論になった時には屠殺用のナイフを床屋でよく研いでもらい、「顔中に思う存分剣をふるったので、二十二針分の傷になりました」と淡々と語る。暗闇の中の決闘では実兄を殺めてしまう。死に際の声を聞いて相手が兄だとわかった瞬間、さすがのエラウソも「気を失いそうにな」り、珍しく人間らしい一面を見せる。  エラウソは一所に長く留まることをしない。数多くの罪を犯した「お尋ね者」であることも理由の一つであろうが、割の良い仕事を提示された際にもそれを断り、あえて試練の道を選んでいるように見える。兵士、鉱山の監督、小麦商人、警吏、公証人と、何をやってもそつなくこなすが、カードゲームやちょっとした揉め事でためらいなく人の命を奪う。しかも良心の呵責は語られない。  人を殺めた後、エラウソは何度も教会に逃げ込む。「キリスト教における教会の聖域特権は、大小無数の犯罪で追跡される者たちが、少なくとも一時的に、世俗の司法から逃れる手段であった」(第Ⅱ部第1章)ため、エラウソはそれを巧みに利用していた。それでも幾度となく投獄され、死刑宣告を受けたこともあるが、なぜかそのたびに助けが入り釈放される。エラウソに手を差し伸べる者の多くが同郷のビスカヤ人であることは、第Ⅱ部第1章の「バスク人の繫がり」を読むと納得がいく。  エラウソが男性であったとしても、これほど波乱万丈な人生を送った者はそう多くはないだろう。エラウソを女性らしからぬ強靭な肉体と精神の持ち主と呼ぶならば、筆者にジェンダーバイアスがかかっていることになるだろうか。第Ⅱ部第3章「『尼僧少尉』、あるいはカトリック帝国における貞操と征服――カタリーナ・デ・エラウソの『自伝』が照らし出すジェンダーとセクシュアリティの諸問題」は、十七世紀に男性として壮絶な人生を生きた女性の「自伝」を、さまざまな理論を用いて現代的に読み直そうとする刺激的な論考である。  第Ⅱ部第4章では、スペイン黄金世紀の「もつれた劇」に登場する男装の「恋する女性」や、女性であることを嫌う「英雄的な女戦士」の要素が戯曲『尼僧少尉』に見られるという議論がなされる。主人公にとってハッピーエンドになっていないため「実在の同時代の人物を題材にしたことによって、演劇の理想的な結末が妨げられたと言える」という結論には、やや早計な印象を受けた。  第Ⅰ部の「自伝」はあまりに劇的で、フィクションの要素が多分に含まれているように思われるが、エラウソの冒険を裏付ける史料の提示を含め、第Ⅱ部がその実像にさらに迫る。ただし、エラウソの「自伝」が事実に基づいているか否かは必ずしも本質的な問題ではない。第Ⅱ部第5章と第6章で紹介されているように、カタリーナ・デ・エラウソという人物が演劇作品、映画、翻訳や翻案といったさまざまな形で取り上げられていること自体が、彼女の魅力を雄弁に物語っている。(おかもと・じゅんこ=大阪大学大学院人文学研究科教授・スペイン演劇)  ★さかた・さちこ=慶應義塾大学名誉教授・スペイン語圏の文学。著書に『ウルトライスモ マドリードの前衛文学運動』など。

書籍

書籍名 尼僧少尉カタリーナ・デ・エラウソ
ISBN13 9784911029176
ISBN10 491102917X