2025/11/07号 8面

映画時評・11月(伊藤洋司)

映画時評 11月 伊藤洋司  他人に性的欲望も恋愛感情も抱けない人間がいる。香里はそんな女性の一人だ。「私はずっとまわりに噓をついて生きてきました」と彼女は言い、「自分がおかしいんじゃないかと思って隠してきたんです」と説明する。一方、健流は女性ではなく男性を愛し欲望する人間で、学生時代に本気で愛した男性が去っていったことの傷がいまだ癒えずにいる。そんな二人が出会う。香里は、職場の男性の同僚たちと違って自分を性的な目で見てこない健流に会って、「やっと自分のままでいれるようになった」と感じる。健流のほうも、香里と一緒にいることで、「何かが変わる」と思う。竹馬靖具の『そこにきみはいて』の男女はこうしてすぐ一緒に暮らし始め、やがて婚約する。  二人の間に本当の恋はない。健流は女性を愛せないし、香里は男性も女性も愛せないからだ。だから、香里が初めて健流の家を訪れ、そのまま泊まることになっても、二人のやり取りは甚だ不自然で、恋の始まりを生きる男女のやり取りからは程遠い。香里の手作りの夕飯を食べて、健流は思わず、「なんか、初めて食べる味です」と言ってしまう。この食事の場面での二人のぎこちなさは、恋愛に不慣れな男女の微笑ましい失敗といったものとは明らかに異質だ。二人はここで恋愛の真似事をしている。香里にとって、彼との時間は偽りの恋に基づくとはいえ、確かに特別な経験である。けれども、健流にとっては、事態はあまりいい方向に進まない。健流は香里との結婚を考えていたが、彼女との関係を真摯に考えるにつれ、自分の本当の欲望が彼女に向かっていないことを痛感し、その事実から目をそらせなくなる。こうして浜名湖に旅行する時には、二人のすれ違いはもはや修復不可能なものになっている。健流は自ら命を絶つ。  香里にはどこか、男女を問わず他人と自然な関係を築けないところがある。だからある時、「私、あなたのことずっと嫌いです」と、彼女は職場の後輩の女性に言われ、さらに、「卑怯者じゃん」とか「死ねよ」と罵られる。繊細な照明と構図が俳優の演技を引き立てるこの場面の台詞だけを見ると、後輩のほうが嫌な人物のようだ。だが、これは同性への欲望の屈折した裏返しでもあり、原因はむしろ香里の側にある。健流の一周忌における香里の言動はもっと理解しやすい。かつて健流とただならぬ関係にあった小説家の中野慎吾と一緒に、香里は健流の母のもとを訪れる。健流と母の関係に問題があったのは事実だ。そんな母が、「健流のこと、どうしてなんにも話してくれないの」と訴える。だが、香里は彼女の話の言葉尻を捉え、「そうやって健流を縛ってたんですか」と返すばかりだ。家を出ると、「あの人だって傷ついてるんです」と小説家が言うが、香里は、「中野さんって人のこと、うわべでしか見ないんですね」と返す始末だ。  健流の死の理由を知ろうと、香里は小説家とともに浜名湖を再訪する。だが、死の理由など本当は明白だ。彼女が旅を経て本当に知るのは自分自身のことに違いない。海辺に小説家と並んで立ち、香里は言う。「中野さん、私、健流の一番近くにいたのに何もできなかった。ごめんなさい」本当に必要だったのは他人への批判ではなく、この謝罪なのだ。恋愛感情から隔絶された女性の孤独の果てに、わずかな希望の光がさす。この女性に幸あれ。  今月は他に、『てっぺんの向こうにあなたがいる』『君と私』などが面白かった。また未公開だが、パヤル・カパーリヤーの短篇『午後の雲』も印象的だった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)