私労働小説
ブレイディ みかこ著
九螺 ささら
本書は、ブレイディみかこの「私労働小説」第二弾で、サブタイトルは「負債の重力にあらがって」。第一話は、主人公の「あたし」が働く六本木のスナックの話。そこの初老のママは、二十代半ばのあたしに占いをして、「五十歳になるまで死ぬな。五十まで、稀に見るほど運が悪いから。何やってもうまくいかない」と言い、呪詛で支配する。ママは田舎から出て来た店員と客を巻き込み、店を疑似家庭にして、そこでママ=母親として、お母さんなのだから大事にしてねという圧力をかけてくる。ママは、噓か真か分からぬ身の上話を語り、泥酔して大声で泣きながら失禁したりする。自己憐憫、自己陶酔、自分の悲しさ、つまり人生を、自分一人では抱えきれないのだろう。それを、疑似家族である店員や客に漏らし、共有してもらってやっと生き延びている。ママは母親の仮面をかぶった雇用主なのだが、まるで実の母親のように「あたし」の家に突然差し入れにきてしまったりして、娘ではなくただ労働者である「あたし」をうんざりさせてしまう。
第二話から五話は、英国やアイルランドで働く日本人の「あたし」の話。
第六話は、アイルランドから一文なしで日本の実家に戻った「あたし」が、ローンの督促の仕事を始め、給料が出ると家族に「貸して」と言われ、ほとんど全額を、今までがそうだったから今度も決して返されないだろうと分かりつつ「貸す」話。「あたし」は、債務者の一人が追いつめられて自殺したことを知り、彼が中学生の娘と二人暮らしであったことが分かると、泣き出してしまう。督促の電話には子どもが出ることがあり、その子たちは、居留守の親に言われた通り、「お母さんもお父さんもいません」と噓をつくのだが、「あたし」は、自分もかつてそうしていたことを急に思い出し、そういう親や何もかもが嫌になって海外に逃げたはずだったのに、と自分の因果を馬鹿らしく悲しく感じる。そこで「あたし」は「負債の重力」を感じ、これがあるから自由に飛べないのだ、みんな誰かに負債を返すために生きていると思い至る。
「あたし」は、育ててもらったことを親に対する借金だととらえ、だから、親は子に、その借金を返せと言う権利があるという発想をしている。家庭と労働現場が、同様に、御恩と奉公的支配・隷属のシステムに見えている。でも、だから、「あたし」は運命によって故郷に戻されてしまったのかもしれない。「あたし」は、親子の関係の例えを金銭の貸し借りではなく愛のエネルギーに書き換えられるまで、何度でも実家に戻されてしまうのではないか。そうして、親や家族を含めた全人間関係の確執が愛でゼロになるとき(他者や過去を全部赦せるほど自分で自分を幸福にできたとき)、「あたし」だけでなく人間は、この世への執着の別名であるしがらみを消し、羽根を広げて自由にあの世へ飛んでいけるのでは、と思った。
本書を読み、私は昔の職場のことを思い出した。その職場で、私は毎日のようにサービス残業をしていた。そうして、毎晩最後に帰った。そこは引き戸だったのだが、鍵がどうしてもかからない。同僚は、「その鍵の開け閉めにはコツが要るんですよ」と楽し気に言っていた。何かの弾みでやっと施錠できたのは一時間半後の深夜〇時過ぎだったのだが、私は、鍵を掛けられない要領の悪い自分が悪いのだと自分を責めていた。後日、建物のオーナーがたまたま通りかかったとき、鍵をガチャガチャやっている私に気付き、「鍵のかからない鍵は鍵じゃない」と即刻鍵屋を呼び、修理させてスムーズに施錠開錠できるようになったのだが、同僚たちのためにも、彼らが何度訴えても「上に言っておきますから」で実際上には言っていなかった上司に、もっと早く本気で訴えるべきだったと今思う。昔の私も「あたし」同様、雇ってもらったことを負債と感じ、身を削って必死に返済していたのだろう。今から思うと屈辱的で、あまりにも自尊心が低かったとも言えるが、社会システムの基礎勉強中とも言えると思った。(くら・ささら=歌人・絵本文作家)
★ブレイディ・みかこ=ライター・作家。一九九六年から英国ブライトン在住。著書に『子どもたちの階級闘争』(新潮ドキュメント賞)『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(毎日出版文化賞特別賞ほか)など。一九六五年生。
書籍
| 書籍名 | 私労働小説 |
| ISBN13 | 9784041141427 |
| ISBN10 | 4041141427 |
