2025/02/28号 1面

時間の比較社会学

読書人カレッジ@立教大学 載録(講師=吉見俊哉)<『時間の比較社会学』と社会システム論>――社会学・人類学と歴史学
読書人カレッジ@立教大学 載録(講師=吉見俊哉) <『時間の比較社会学』と社会システム論> ――社会学・人類学と歴史学  立教大学(東京・池袋)で昨年開講された連続講座「読書人カレッジ」(「戦後の日本社会に影響を与えた「古典」を読む」全十四回、読書人/公益財団法人日本財団共催)の第十二回「『時間の比較社会学』と社会システム論――社会学・人類学と歴史学」(講師=吉見俊哉・東京大学名誉教授・國學院大學教授)の講義の模様を載録する。吉見俊哉氏の恩師である社会学者・見田宗介(真木悠介)について、改めて、現在の学問知の中に位置づけて考察し直す画期的な論議である。なお完全版は読書人WEBにて公開予定(詳細はQRコードから/第二~十一回は公開中)。(編集部)  今日の講義のタイトルは、「『時間の比較社会学』と世界システム論――社会学・人類学と歴史学」としました。これは言うまでもないことですが、見田宗介先生は、戦後日本を代表する最も重要な社会学者です。私は大学時代、見田先生のゼミに所属していました。一九七〇年代の後半ですが、その頃、見田先生は立てつづけに本を出しています。一九七七年に『現代社会の存立構造』と『気流の鳴る音』、そして一九八一年には、今日のテーマとなる『時間の比較社会学』を出しました。三冊ともすごく話題になって、当時社会学を学ぼうとする人は、圧倒的な影響をこの三冊から受けたと思います。これらの本の前提になるのが、一九七一年に刊行された『人間解放の理論のために』という本です。この時から、先生は本名の「見田宗介」とは別に、「真木悠介」の名前で本を書いていきます。今、紹介した四冊は、すべて真木悠介名で書かれています。  なぜ真木悠介という名前を使うことになったのか。これにはすごく深い背景があるのですけれども、この著者名が登場してくる背景にあるのは、一九六八年からはじまる東大紛争です。紛争の中で、自分の立ち位置を明らかにしていくために真木悠介という名前が登場したのです。それについては今日、深く話すことはできませんが、見田先生は、真木悠介として著作を出していく際、次の文章を書いています。我々の世代にとっては非常に重要な一文です。 「自己解放こそが唯一の自己否定である。けだし、自己解放として、自己の実存的要求のうちに必然的な根拠をもたない自己否定とは、およそ真正の自己否定ではありえぬ」  難しいですよね。この言葉を読んで、一瞬でわかったら天才です。多分ちんぷんかんぷんだと思いますが、すごく深い意味を持っています。これが、見田宗介が一九六八年から六九年の大学紛争を通じて考えていったことです。そして「自己解放としての自己否定」を自ら実現していく。現代社会に対する社会学的ビジョンとして、『現代社会の存立構造』と『気流の鳴る音』、そして『時間の比較社会学』という著作を真木悠介の名前で書いていくことで、見田宗介はこの考えを実践していったのです。見田先生は、これらの本を出すのとほぼ同時に「見田ゼミ」を組織します。このゼミは、もちろん東京大学の学生たちが中心でしたが、外部の人も大勢出入りしていました。そうした様々な人間が出入りする場において、見田宗介が考えようとしてきたことを、今日のテーマである時間論に絡めてお話ししていきます。   *  真木悠介=見田宗介が書いた『時間の比較社会学』(岩波現代文庫)を考えていくために、三人の知的巨人の三冊の名著をまず挙げます。見田宗介は、日本では稀有な知の巨人だと思います。けれども世界を見渡せば、同じぐらいの巨人が何人かいる。その三人の巨人が書いた名著と関係づけながら、『時間の比較社会学』という本の意味を考えたい。  見田宗介以外の知的巨人、その三人とは誰か。ひとりは、歴史家のフェルナン・ブローデルです。グローバル・ヒストリーという概念を、最初に大きく提示し、それを推進したのがブローデルです。特に地中海域の歴史的な研究で不朽の仕事をした。『地中海』がその代表的な著作ですが、今日の議論との絡みでは、『歴史学の野心』という本を書いています。本の中で彼が展開している話が、実は『時間の比較社会学』と関係していると、私は思っています。  もうひとりは、イマニュエル・ウォーラーステインです。ブローデルとよく結びつけて論じられる社会学者です。「世界システム論」が有名ですが、彼の『近代世界システム』は不朽の古典的著作です。ウォーラーステインは「世界システム」という言葉が付けられた本をたくさん書いていますけれども、その中に『世界システム 長期波動』という本があります。ここで彼が展開している議論が、今日の話のひとつのポイントになってきます。  最後に、もう一人の巨人は人類学者のクロード・レヴィ=ストロースです。彼の名著に『野生の思考』があります。この本と真木悠介の『時間の比較社会学』、ブローデルの『歴史学の野心』は相関していると思います。三つの結びつきを明らかにしたい。ウォーラーステインだけは少し違うと思いますが、その違いを明らかにして、ウォーラーステイン的な世界システム論の地平から、真木悠介的な「時間の比較社会学」の地平へのシフトを構想してみたい。社会学の世界がひっくり返るような話ですが、社会学と人類学と歴史学、三つの連環の中で考えていきたいと思います。  最初に、フェルナン・ブローデルの話から入ります。ブローデルは、現代において、最も重要な歴史家のひとりです。アナール派の中心人物でもあり、「社会史」の原点を担う人でもあります。このブローデルが、社会学のことを批判している文章があります。 「社会学者にとって時間とは、歴史家においてほど重大なものでも具体的なものでもなく、彼らの問題や思索の中心に置かれることなど決してないものだ」(『歴史学の野心』222頁) 「社会学者たちが無意識に敵対しているのは、歴史学ではなく、歴史の時間――いかに手なずけようとしても、分類しようとしても、勢いを弱めることはない一つの現実――である。この現実の持つ拘束力から歴史家は決して逃れないのに対して、社会学者はほとんどいつも身をかわしている」(同、226頁)  厳しい批判ですね。この批判は、一九五八年に発表された「長期持続」という論文にあります。簡単にいえば、社会学者は、歴史を全然わかっていないし、それと向き合ってもいない。ブローデルはダメ出ししているのです。 〔社会学者のいう〕「社会的な時間とはたんに、私が見つめる社会的現実の個別の側面である。それは、個人の内部にあるのと同様に社会的現実の内部にあり、そこに付与された一つの記号であって、その社会的現実が個別的な存在であることを示す一つの特性なのである。社会学者は、このような便利な時間を嫌がらずに受け入れている。これなら思いのままに切り刻んだり、流れをせき止めたり、またもとの流れに戻したりできる」(同、224頁)  ブローデルのこの批判の念頭にあったのは、当時、フランスを代表する社会学者だったジョルジュ・ギルヴィッチです。社会学概論を習った人にはわかると思いますが、社会学には三人のファウンディング・ファーザーがいます。マックス・ウェーバーとエミール・デュルケームとカール・マルクスです。フランスでは、とりわけデュルケームの影響が大きい。そのデュルケーム派をいろんな人たちが引き継いでいきますが、戦後になると、デュルケーム派の社会学の流れの中にエドモンド・フッサールの現象学が入ってきます。つまり、社会的現実が客観的に存在するのではなく、私たちが社会と交渉していく中で立ち現れていくという考え方です。そうしたフッサールの現象学の社会学への導入において、フランスの場合、今いったギルヴィッチの社会学が出てきて、フランス社会学のひとつの主流になっていく。  この現象学的社会学のキーコンセプトを「多元的現実論」といいます。我々が日常的に「現実」だと考えている現実以外にも、夢の世界、狂気の世界、科学的思考の世界など様々な「現実」がある。それらは社会的に構築されるものである。では、それらはどう構築されていくのか。そのことを考察するのが、現象学的社会学の重要なテーマだった。そうすると、歴史的な時間も多元的な現実の一部となります。したがって、長期持続の緩慢な時間、不意打ちの時間、不規則な鼓動の時間、循環的時間、自分に遅れをとる時間、遅延と先行とが交代する時間、自分に先行する時間、爆発的時間と、いろいろな社会的時間がある。このギルヴィッチの時間理解を、ブローデルは批判をするわけですね。 「歴史家がこんなものに納得できるであろうか。こんなにさまざまな色があったら、歴史家に不可欠な、もとの白くて均一な光を復元することが不可能になってしまう。歴史家はまた、このカメレオン的時間が、それ以外の分類項目を、新たな記号によって、色を加えることによって、示しているだけだということをすぐに理解する。というのも、ギュルヴィッチの国のなかでは、最も新参の者である「時間」は、ほかの住民のもとにきわめて自然に宿っているからだ。……これでは、数式を解かずに書き写すようなものだ。社会的現実の一つひとつが、ありふれた貝のように、みずからに固有の時間や時間の尺度を分泌している、というわけだ」(同、225-226頁)  ブローデルはギルヴィッチに対して、バカなことを言うな、あなたの言うことは話にならないと批判している。このブローデルの批判に対して、社会学はどう応えるのか。これは、社会学の重要なテーマです。さらにブローデルは、歴史学と社会学を比較しながら、相手に対して対話も呼びかけています。 〔歴史学と社会学の〕「双方の領域にさほどスタイルの対立があるという風には、私は思っていない。歴史学はより連続主義的で、社会学はより非連続主義的であるのか。そのような主張がなされていたが、何と不適切な問題提起であろうか! はっきりさせるためには、著作それ自体を突き合わせ、それらの対立がわれわれ各自の仕事の内部に存するのか外部に存するのかを調べるべきだろう。さらにまた、今日では非連続性というのは、歴史的考察にごく普通に入ってゆく言葉であることを覚えておこう」(同、243頁)  つまり、歴史学は長い連続性を扱い、社会学はその場その場のもっと短いスパンを扱うという主張があるが、これもまるで間違っていると述べている。それでは、歴史学と社会学の対話がいかに可能であるか。そのことをはっきりさせるためにはどうすればいいのか。歴史学だって非連続性を扱う。社会学だって持続性や連続性を扱う。そういう面では差はないのであって、どこでふたつの学問の対話のテーマが出てくるのか。次のように論じています。  「出来事を超えたところに、今度は無意識の歴史が、あるいはむしろ多少なりとも意識的ではあるが、大部分が行為者らの明晰な意識から逃れてしまうような、そんな歴史は一つとしてないと言えるのであろうか、と。彼ら行為者は歴史を作るが、歴史が彼らを押し流すのである」(同、236頁)  この意見に、私も同意します。つまり、いつもその場その場の瞬間的な出来事がある。今だったら、自民党の裏金問題とか、コロナのパンデミックとか、それから東京都知事選とか、すべてがひとつひとつの出来事です。そのときに、そうした出来事以外にも、非常に長い無意識の歴史が、歴史学には存在するし、社会学にも存在する。そこにおいて文系の学問がコラボできるだろうということです。この点について、ギルヴィッチとはまったく違う観点から社会学からの回答を示したのが真木悠介、つまり見田宗介先生だったと考えたい。真木悠介はブローデルの問いに答えると、明示的にいっているわけではありません。ただ私の目から見ると、真木悠介が『時間の比較社会学』で示したビジョンは、ブローデルの問いに対し、ギルヴィッチなんかよりはるかに真正面から答えていると思います。  『時間の比較社会学』という本には、どういうことが書かれているのか。まず序章で次のように言っています。 「私の死、あるいは人類の死滅の不可逆性という認識からくる虚無の意識は、はるかな未来、自分自身が経験することのない抽象的な未来への関心を前提とする」(28頁)  人間はみんな死にます。死ぬ時期が違うだけです。人類だって、永遠に繁栄するということはたぶんなく、いつかは死滅する可能性がある。自分の死、あるいは人類の死を考える。人がいなくなって、すべてがなくなってしまう。そのことばかりを考えはじめると、すごく虚しくなってきます。自分はこんなにもちっぽけな存在だと感じ、虚無の感覚が出てくる。その問題について、『時間の比較社会学』では詳しく語られていますが、未来のことを考えるから、自分の人生が非常に虚しいものに思えてくるわけです。この時間意識こそが、近代なのだと、見田先生は言っている。 「近代の合理主義が、究極においてひとつの非合理によってしか支えられない構造を持っているということ、すなわち、意味づける主体の存続を時間的に無限のものとして幻想しないかぎりは、自己を虚無から救い出すことのできない構造をもっているということ」(3頁)  永久に不死の生命があるのかどうかは知りませんが、主体の存続を「無限のものとして幻想しないかぎり」、あるいはそうやって無限の未来に向かう時間を想定してしまうからこそ、有限である人間の生や人類の歴史が虚しくなってしまうのです。そこのところをどうしたら超えることができるか。それが、この本のテーマになっています。 「〈時間の中で現実はつぎつぎと無になってゆく〉という感覚、「たえずむなしく消え去ってゆく」というこの感覚のとり方は、しかしけっして人間にとって普遍的な心性ではない。……いくつかの文化においては、過去は現在するものとして感覚されている。/さらに時間が「すべてを」消滅させるというかたちで一般化されている虚無の感覚と結びつくのは、未来が具体的に完結するものとしてではなく、抽象的に無限化されたものとして関心の対象となるからである。このように抽象的に無限化された時間への関心もまた、一定の文化と社会の形態を前提としている」(7頁)  実は、人間は、元々最初から、自分の人生は短くて虚しい、すぐ先に死が迫っていることが虚しいなんて思っていなかったのです。この感覚が一般化したのは、近代からです。つまり、未来が無限のものであると考えるから、有限なものは虚しいと思ってしまう。しかし、未来を無限のものとして考える社会は、それほど昔からのことではない。せいぜい過去三〇〇~四〇〇年、ヨーロッパを中心にそういう考え方が広まった。歴史全体を見てみれば、そのような考え方をしている社会は、むしろ少数派です。逆に、そう考えない社会がいっぱいあって、それはアフリカの文化を見てみれば明らかです。この辺りは、人類学的な知見がたくさん使われています。たとえば次の一文です。 「明日や今年の秋という未来一般ではなくて、とおい未来に向けられる時間の意識が、アフリカの文化になかったということだ」(33頁)  未来と言っても、明日や今秋という未来は誰もが考える。こういう思考はどの社会でもあります。そうではなく、何十年、何百年先の未来、さらにもっと遠い未来のことを考える。そうした遠い未来に向けられる時間の意識が、アフリカの文化にはなかったということです。アフリカだけでなく、近代以前の多くの社会が同じです。 「たとえば現在〈昼〉であるならば、すべての〈夜〉はたがいに同等に過去として現在に対立している。そして同様にすべての〈昼〉は、この〈夜〉と対立する時としてくりかえし現在してくる。〔エドマンド・〕リーチが「対立する」というのはこの〈昼〉と〈夜〉のあいだの関係であり、〔ベンジャミン・〕ウォーフが「同一のもの」の再現というのは、この〈昼〉とわれわれのいう「他の」すべての〈昼〉のあいだの関係である。/したがってリーチのいう「過去」はほんとうは過去というよりも潜在する現在であり、舞台裏で待機しているもうひとつの時空に他ならないだろう」(20‐21頁)  昼が来て、夜が来て、昼が来て、夜が来てと、繰り返されながら時間は流れていきます。そのときに、半年先の昼も夜も、一年先の昼も夜も同じです。昼と夜が反復する時間の中に人々がいる。つまり、昼と夜というふたつの時間しか存在せず、それが行ったり来たりしているだけならば、明日の昼も明後日の昼も、一年先の昼も、昼は昼であり、また夜は夜です。そういう時間の中で生活している文化もいっぱいあります。  「トーテミズム」という習慣があります。レヴィ=ストロースが『野生の思考』の中で見事に分析しています。トーテムは動物であったり植物であったりしますが、我々ひとりひとりの人間と、トーテムの系列が対応している。そしてトーテムの系列のことを〈原系列〉といいます。〈原系列〉とは何か。たとえばある種族の祖先は虎だったとか、蛇だったとか、起源を考えるわけです。けれども、その〈原系列〉である虎や蛇と、人間は常に同時に存在している。前者が後者の進化論的な起源とは考えない。昼と夜が同時にあるみたいな感じです。そういう世界観の中で生きている社会が、人類史上いっぱいあった。『時間の比較社会学』では次のように書かれています。 「〈原系列〉としてのトーテムが人間たちの出来事よりも前から存在し、われわれの「祖先である」とさえも神話が語るとき、この〈原系列〉はとおい過去にあり、そこからわれわれの現在の生にむかって歴史的な時間がながれているかのごとくだ。けれども同時に〈原系列〉は現在しつづけるのであって、生の出来事をたえずみずからの無時間的で有限なわくぐみの中に還元してしまう基準体系である。/すなわち〈原系列〉としてのトーテムは、時間のことばで語られる永遠、通時のことばで語られる共時である」(50頁)  少し整理をします。今日、私たちが生きている社会は、基本的に構造が未来に向けられた時間の中にあります。レヴィ=ストロースは、これを〈熱い社会〉といいます。それに対して、昼と夜が往還している、また〈原系列〉と現在の自己が行ったり来たりしているような社会がある。これは、〈冷たい社会〉です。そこでは構造は変わらず、時間が構造の中にあります。生きられる時間が、いわば行ったり来たりしているのです。  ここで、レヴィ=ストロースの『野生の思考』に話を移します。〈冷たい社会〉について、彼はこう述べています。 「冷たい社会は、自ら創り出した制度によって、歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響をほとんど自動的に消去しようとする。熱い社会の方は、歴史的生成を自己のうちに取り込んで、それを発展の原動力とする」(『野生の思考』280頁)  現在では、近代的な価値観が浸透していますから、どんどんイノベーションをして、発展をつづけていく社会がいいと、私たちは思い込まされています。けれども、そういう社会が行き着く果てはどこか。たとえば地球温暖化が止まらなくなる。あるいは人口の増加に対してコントロール不能となる。資本主義経済は、最終的にどこかで飽和するわけです。それが〈熱い社会〉の宿命です。それとは異なる〈冷たい社会〉があることを、レヴィ=ストロースは、アフリカや中南米の社会を人類学的に探究しながら明らかにしたのです。そして実は、そうした社会が比較的最近まで、地球上にはいっぱい広がっていた。その〈冷たい社会〉とはいかなる社会なのでしょうか。 〔外から加えられた変化を〕「受け入れ、意識化することによってそのおよぼす結果を異常に増幅する社会もあるが、他方それを無視して、発展過程の中で「初原的」と考えられる状態を巧みに可能な限り恒常化しようとする社会もある。/冷たい社会がそれに成功するためには、制度によって、偶然的な人口要因の影響を制限し、集団内および集団間にあらわれる対立を緩和し、また個人的集団的活動の枠を恒久化して、回帰的連鎖に調節作用を及ぼすだけでは足りない。結果の集積が経済社会的大変動を生じるような非回帰的事件の連鎖が形成された場合、ただちにそれを破壊しなければならない。……歴史的形成を否定するわけではなくて、それを認めはするのだが、内容のない形式として認めるのである」(『野生の思考』281‐282頁)  「異常に増幅する社会」とは、たとえば近代日本のことを指していると考えればいいでしょう。幕末に黒船が来て、幕府が倒れて、近代化に突き進んでいった。外から加えられた変化を受け入れ、その結果を増幅していく社会です。それに対して、「〔変化を無視して…〕可能な限り恒常化しようとする社会」とは、歴史上どこに見られるか。ひとつ例を挙げれば、最終的には鎮圧されてしまったけれど、一九世紀の中国清末期の太平天国の乱がそうだったのではないか。この辺りはかなり難しいのですが、一方で変化を受け入れて増幅する社会があり、それに対して変化を回収してしまう社会がある。この二種類の社会を、レヴィ=ストロースは示したわけです。  それでは、どういうふうな回収の仕方があるのか。その回収の仕方として、見田先生は『時間の比較社会学』の中で、ミルチャ・エリアーデの〈聖なる時間〉論を使って説明しています。 「〈原系列〉が派生系列と「並んで漕ぎ進んでいる」というふうにレヴィ=ストロースがいうように、〈聖なる時間〉と〈俗なる時間〉は、交替としてあらわれるよりも以前に平行している。すなわちそれらは、一方は他方の影であり倍音であるようなかたちで、並行する二つの時間だ。……けれども〈聖なる時間〉に関して、〈俗なる時間〉とのこのように共時的な平行関係をいうのみでは充分ではない。それはたんなる振動の双極ではなく、同時にひとつの非対称性なのだ。……それは流れゆく時間の意味を、普遍のものとしての構造のうちに繰り返し回収してゆく。エリアーデが強調しているように〈聖なる時間〉とは、まさにこのような時間の廃棄への意志に他ならず、それは〈時間のない時間〉であることこそ本質とする」(56-58頁)  この〈聖なる時間〉のモデルは、レヴィ=ストロースの『野生の思考』によれば、次のようになります。 「過去を生成の一段階としてよりも無時間的モデルとして考え、それに執着するのは、なにも道徳的、もしくは知的な欠陥を表わすものではない。それは意識的な、もしくは無意識的な、一つの態度決定の表現であるその体系性を証明するために、一つ一つの技術、規則、習慣について飽くことなく繰返される正当化の手段は、全世界的に、「御先祖様の教えだ」という説明がただ一つである。……古さと連続性が正統性の基礎である。しかしこの古さは、世界のはじめに遡るものだから、絶対性の中に位置づけされているのである」(『野生の思考』283頁)  伝統的な社会では、「これはご先祖様の教えだから変えてはならない」と説明されることがあります。それは、単なる頑迷さの証拠なのではありません。過去の時間が常に生きている社会では、人々は過去の力、〈聖なる時間〉の影響を受け続けています。それ故、社会はそこから逸脱する方向には進まず、〈聖なる時間〉に戻っていく。具体的な例を挙げれば、お祭りの時間がそうですね。近代以前は、そうした時間を社会の中に埋め込むことで、〈聖なる時間〉からあまり逸脱しないようにしてきたのです。それが壊れていくのが近代でした。    では、〈聖なる時間〉はどのようにして壊れていったのか。そのことを『時間の比較社会学』は、ふたつの方向で分析しています。ひとつは、時間が量に変わっていく過程です。お金と同じく、時間が量に変わっていく。  カール・マルクスの『資本論』の最初の方で、価値形態論という議論がなされます。たとえば、ある所に共同体Aがある。別の所に共同体Bがあります。それぞれ共同生活を営む村社会です。AとBのあいだで物が交換される。そのとき、どういうふうに交換するか。最初は物々交換だった。非常に単純化した例で話をします。共同体Aは山村で、共同体Bは漁村だった。Aでは毛皮が獲れ、一方のBでは魚が獲れた。そこでお互いに魚と毛皮を交換する。これが物々交換です。それが一般的な市場の段階まで、どのように発展していくか。共同体AとBの他に、共同体Cが現れる。そこは農村で米が獲れた。米は共同体AもBも欲しいから、Cは米を出して、それぞれ毛皮と魚に交換する。さらに共同体D・E・F・Gと、たくさんの村が現れる。それぞれの村が米を欲しがる。そうすると、米は魚とも毛皮とも、また別の何かとも交換できるようになる。その場合、この米のことを「等価形態」にあるといいます。そして交換する時の価値を「交換価値」という。  ひとつひとつの商品を見てみると、たとえば毛皮は寒いときに着るために使う。魚は夕食のときの食材になる。このことを「使用価値」といいます。米はみんなが欲しがるから、より交換価値が一般性を持っていることになります。これを「一般的等価形態」といいます。けれども、お米は食べてしまったらなくなる。また、後々魚と交換するときのことを考えて、食べずに残しておく場合もあるでしょう。その場合、お米の交換価値は維持されるわけですが、カビが生えたり腐ったりすることもある。そうなると交換価値はゼロになってしまう。かりに交換価値の方が大切だと考えるならば、交換価値だけに特化したものがあればいい。そこで何が出てくるか。最初は貝殻や綺麗な石だった。それが最終的に金・銀・銅に変わっていく。金は装飾品としても使えますが、使用価値があるとまでいえるかどうか。そこはなんともいえません。いずれにせよ金や銀は絶対に腐らないし貴重なものだから、最終的にはこれらが最も一般的な等価形態になっていきます。これが貨幣の起源です。  今話したのと同じようなことが、時間に関しても起こります。たとえば、複数の共同体があって、それぞれ所属している人がいる。そのときに、共同体Aに所属する人が、共同体BやCでも仕事をする。そうすると、その人の労働をどうやって計るのか。最終的には、時間という均一の形態で計ることになります。共同体が多数存在し、相互に関係を持ってくれば、一般化された、抽象化された尺度としての時間が登場してくるわけです。この「尺度としての時間」は、多数の共同体が広域的に結びつけられた市場システムを前提とします。それが最初に成立したのは、古代国家においてです。古代エジプトやギリシャ、あるいはローマ帝国や中華帝国においては、必ず量的なものとして計られる時間があった。あたかも自存する客体として物証化された時間の尺度があったということです。  もちろん時間というのは、本当はもっと多様なものです。たとえば祭りの時間は、ものすごく濃密です。何も考えずにぼーっとしている、佇む時間もあります。また、時間の在り方にしても、熱い南の国と寒さが厳しい北の国では違うだろうし、働き者がいっぱいいる共同体と、毎日酒を飲んで楽しく暮らそうと考える人が大半である共同体ではまったく違います。時間の在り方、経験のされ方は、共同体によって全然違うということです。けれども、それを超えて、古代帝国のような広域的な国家や王国が成立すると、流通システムが整ってきますから、共通の時間を計ることが必要となってきます。時間が量的なものになってくるのです。そうなると、量的な時間を操る人間が出てきます。最初は、呪術師みたいなものだったかもしれません。それが最終的には、神殿を司る神官が担うようになる。マヤ文明や中南米の文明、あるいはエジプトの文明でもそうですが、一番偉い神官は、基本的には帝国全体の時間を操る。暦を独占するということです。そのこと自体が、権力を持つ。『時間の比較社会学』では、次のように書かれています。 「共同態・間の集合態的な連関、あるいはすでに風化して集合態化した(元)共同態・内の個人や集団間の、多角的にくりひろげられる相互依存の関係は、それぞれに独自の生きられる世界を構成するさまざまな異質の活動を外的に調整する媒体として、一般化され抽象化された尺度としての「時間」を析出せずにはいない。/貨幣がそうであることとおなじに、あたかも自存する客体として物象化された時間の尺度は、近代市民社会における普遍化された分業連関の存立を可能ならしめる媒体であり、萌芽的または一般的には、共同体間の依存する関係を内包する文明、とりわけ都市化した文明一般の存立を可能ならしめる媒体である」(39-40頁)  「都市化した文明一般の存立を可能ならしめる媒体」というのが、量化した時間のことです。これが古代国家においては必ず現れてくるわけです。そうした時間が現れてきたとき、社会はどうなっていくのか。 「「時間を計る」ということは、原始的な共同体においては最もなじみのない発想であるが、それはリーチがここで鋭く指摘するとおり、われわれからもことがらからも自立してあらかじめ存立している、抽象的に客体化された「時間」の観念を前提とするからである。ところがわれわれの社会においては、まさしくこの「時間を計る」ということ(時・計!)こそが、この社会の一切のメカニズムを存立せしめる基礎的な要件として、日常意識のすみずみにまで浸透する」(68頁)    大きな帝国や王国になってくると、抽象化された時間によって時間を計ることが必要となってきます。その結果、天空の観測に基づいて暦が定められ、日時計や砂時計とか、様々な時計が生まれます。時間を計ることができるものが権力を持つ。そうやって量的な時間が、古代社会において一般的に現れてくるわけです。(つづきは、読書人WEBへ)  ★よしみ・しゅんや=東京大学名誉教授・國學院大學教授・社会学・文化研究・メディア研究。著書に『アメリカ・イン・ジャパン』など。一九五七年生。

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