宗教認知科学入門
クレア・ホワイト著
井上 順孝
一九九〇年代以降、脳科学や認知科学の影響は学問の広い分野にわたっている。日本の宗教研究者もそれに目を向けるべきと主張してきた評者にとっては、この書は参考になる点が多々あった。「入門(introduction)」と銘打ってあるように、認知宗教科学(Cognitive Science of Religion、以下CSR)についての教科書的な内容である。関連するテーマや理論、研究者を網羅してあるので、なぜこのような研究の流れが欧米で生まれたか、それが従来の宗教研究のどの部分に批判的であるかを読みとりうる。ただこの分野に馴染みのない人にとっては、網羅的、教科書的であるがゆえに、議論の本筋が少し摑みにくく感じられる箇所もあるかもしれない。
第一章「宗教認知科学とは」において「宗教研究への新たな認知的アプローチの何よりの目標は、宗教のより良い理解を提供することではなく、それを説明することにある」と述べられている。文化相対主義的な理解を乗り越えようとしているのは一つの特徴である。宗教が文化の産物であることは紛れもない事実だが、宗教と呼ばれている現象の根底にある人間の認知のあり方の次元に目を注ぐことの必要が主張されている。
個別の宗教史に引きずられない宗教研究のあり方は、比較宗教学と称される研究においても目指されていたことだが、それが認知科学と総称される新しい研究の飛躍的な発展によって新しい段階を迎えていることを示そうとしていると捉え得る。
第二章「前提となる知識」は、CSRがどのように発想され、どのような点を特徴的なものと考えているかの整理である。八つの古典的宗教理論と対比させながら、CSRのボトムアップ的なアプローチについて説明する。これまでの研究を乗り越えようとする意識が明確であるが、従来の宗教研究のそれぞれのアプローチを本書で示されたように総括できるのかについては若干疑問もわく。
第三章「解き明かすべき問い」において著者は、宗教的な考えを支え、影響を与える認知的基盤について整理する。これは、CSRが主にどのような視点から宗教現象にアプローチしようとしているかの見取り図になっている。
第四章「研究方法」でCSRの研究方法として、宗教は科学的な方法で研究できるという確信、方法論的自然主義、方法論的多元主義の三つを挙げている。そして第五章以下で宗教の思考法や世界観が科学的なそれと異なることを示していく。第五~十章で、世界のあり方、死後の世界、超自然的行為者、道徳、儀礼のそれぞれをめぐる議論が、取り上げられている。
特徴的なことの一つはCSRが「科学的」研究であることを強調する点である。このことは実はCSRの広がりとともに一層顕著になっている欧米における宗教研究の方法をめぐる対立を踏まえないと理解しづらい。おおまかに言えば宗教研究が科学的方法でなされるべきことを前面に出すかどうかである。だが日本では「科学的方法かそうでないか」は宗教研究において重要なポイントではあるにしても、分断をもたらすような対立軸となっているわけではない。その点は注意して読む必要がある。
著者はCSRを宗教社会学とも区別しようとするが、実際の宗教現象と向かい合うと、ことはそれほど単純ではない。宗教の認知基盤を明らかにしようとする研究自体は、これまでとは異なった宗教現象の説明を導く可能性がある。とはいえ本書でいくつか例示されている実験例にしても、その分析自体が研究者の認知の限界に関わる問題を孕んでいる。少人数を対象にした実験結果から人間の普遍的な認知現象を推測する方法などは、予測における認知バイアスや結果への誤認が常に生じ得る。
日本の宗教研究者にはあまり馴染みがないような多くの新しい理論の紹介はとても有難い。だが、これを日本の宗教研究に参照していく際には、「科学」が強調されるようになった欧米の宗教研究の事情についても考慮しておかなくてはなるまい。(藤井修平・石井辰典・中分遥・柿沼舞花・佐藤浩輔・須山巨基訳)(いのうえ・のぶたか=國學院大學名誉教授・認知宗教学・宗教社会学)
★クレア・ホワイト=アメリカの宗教学者。カリフォルニア州立大学宗教学部教授。宗教認知科学の創立者の一人であるハーヴィー・ホワイトハウスの薫陶を受ける。アメリカで初めて、宗教認知科学で終身雇用資格付きの職を得た。
書籍
書籍名 | 宗教認知科学入門 |
ISBN13 | 9784326103515 |
ISBN10 | 4326103515 |