2025/06/06号 3面

論潮・6月

論潮<六月> 高木駿  X(旧Twitter)で「女性学・ジェンダー研究の発展と多様性の尊重をもとめる声明への賛同の呼びかけ」についてのツイートが流れてきました。内容は次の三点。一、マイノリティの権利保障を後退させる動きへの反対。二、性別に関する生物学的本質主義(生物的に男女が決定されているという立場)への反対。三、「女性の権利と安全」を大義名分としたトランスジェンダーに対するヘイト言論への反対。要は、ジェンダー研究をする上で、トランスジェンダーの特に女性の権利を侵害したり、ヘイトを行ったりすることに対する反対に賛同を求める署名でした。もちろん、すぐに賛同しました。署名が開始されてから約一ヶ月で、賛同者の数は研究者を中心に約一〇〇〇人に上っています。  事の発端は、日本女性学会の二〇二四年大会でした。その分科会の一つで、トランスジェンダーの女性(出生時に割り当てられた性と性自認が異なる女性)をシスジェンダーの女性(割り当てられた性と性自認が一致している女性)にとっての脅威のように描く「差別的」言説が展開され、フロアの聴衆からも、トランスジェンダー当事者や彼女たちの権利擁護をする人々への攻撃や侮辱が行われました。この事態が関係者から学会側に報告されたことで、調査ワーキンググループが発足され、調査が行われました。結果は、「日本女性学会2024年大会分科会調査報告書」としてまとめられ、当該分科会ではトランスジェンダー当事者やその権利擁護の立場をとる参加者に対する攻撃や侮辱が行われ、確かに問題があったと結論づけられました。また、学会の対応についても、事前・当日ともに不備があったとされ、今後の学会運営の改善を検討する方針が示されました。ただ、報告書は、差別があったとは結論づけませんでした。特定の属性に対する攻撃や侮辱があったとしつつ、それが差別ではないというのは理解に苦しみます。  それもあり、また、昨今の世界状況もあり、今回の声明が出され、署名が行われたわけです。「これを一学会運営の課題に終わらせることはできない、深刻で重大な問題ととらえるべきだと考えています。アメリカにおけるDEI(Diversity, Equity & Inclusion)の否定の動き、また、欧州をはじめとする各国での排外主義の台頭は、これまで蓄積してきたジェンダー、セクシュアリティ、人種などに関する反差別の運動や施策を後退させようとしています。同様の傾向の萌芽は日本でもみられます。私たち有志は、女性の多様性やセクシュアリティの多様性を認識し、すべての人の権利と尊厳を守ることこそが、真に平等な社会の構築につながると信じています」(「有志による声明」)。  しかし、この声明に対して、日本女性学会第二十三期有志と元代表幹事から「日本女性学会への声明の背景に対する説明とガバナンスの機能不全について」と題した文書が公開されました。「この『声明』は、日本女性学会の正規の手続きに基づきまとめられた調査報告書を、内外からの圧力をもって上書きしようとする行為であり、学会のガバナンスと討議の自由を著しく損なうものです」とあるように、声明への反論です。そのなかで注目したいのは「討議の自由」です。  元代表幹事らの文書には、「『性自認』概念を自明のものとして擁護するとともに、身体の二分法〔=身体を男女に分ける考え方〕は許されないのだと宣言されています。場合によっては、議論自体が不要であり、議論すること自体が差別であるといっている(ノーディベート)ようにすら見えます。この宣言のなかには改めて検討されるべき課題も含まれていますが、そうであればなおのこと、署名運動ではなく、議論をすべきであったと思います」とあり、議論や討議が制限されてしまう、つまり議論や討議の自由が制限されてしまうことへの危機感が読み取れます。  実際、性自認や身体、あるいはジェンダーといったテーマを扱う際に、生物学的性差(セックス)を話題にするだけで、トランス排除であるとレッテルを貼られたり、差別だと非難されたりして、生物学的性差を議論すること自体がタブーになりつつあります。このまま行くところまで行き、生物学的性差という概念が消去されることになれば、ジェンダー研究は、生物学的性差を前提とする医学や生物学といった自然科学の研究と没交渉になってしまいます。そうなると、お互いの知見を生かし合うことができなくなるのはもちろん、果ては、一部の哲学分野などと同じように、科学的実在を無視した机上の空論になってしまう可能性さえあります。こうした点からすれば、議論や討議の自由が制限されることへの危惧は理解できます。  しかし、問題なのは、そうした自由が悪用され、今回の分科会での事件のようにマイノリティへの攻撃や差別をするために使われてしまう場合です。これは、議論や討議の自由だけでなく表現の自由にも言えることであり、自由の「武器化」として問題視されています(桧垣伸次「ヘイト・スピーチ規制について考える――表現の自由のジレンマ」、『現代思想』)。本来、それらの自由には、たとえば誰かを害さないという制限(他者危害の原則)などの縛りがあるはずなのですが、近年では、それが積極的に無視されて、むしろ他者を害する根拠になってしまっています。  また、議論や討議、表現の自由の武器化は、さらに悪い状況を引き起こしています。その一つが、マイノリティへの攻撃や差別の商業化とエンタメ化です(山田健太、「いま〈面白い〉を問い直す」、同)。攻撃や差別が起きると、今回の署名のように反対する人々が声をあげたり、問題化したりして、いわゆる「炎上」が起きます。皮肉なことに、炎上はSNSやウェブメディアのPV数や再生数を上げ、収益化につながります。攻撃や差別は金になるのです(ヘイトビジネス)。事実、日本には(世界でも)、トランスジェンダーを含めたマイノリティへの攻撃や差別を行い、収益を得ている番組やメディアが複数存在します。そして、こうしたヘイトビジネスは、攻撃や差別をさまざまな仕方で企画したり、演出したりして、ヘイトをエンタメ化していきます。エンタメとして収益化するために炎上を用い、そのためにマイノリティへの攻撃や差別を行う。そして、その行為を自由によって正当化するという構造ができているのです。  たしかに、議論や討議、そして表現の自由を国や政府、公的機関が制限するという事態は可能な限り避けるべきでしょう。国や政府が私たちの言論を取り締まったり、検閲したりすることにつながるからです。しかし、それらの自由がマイノリティを攻撃、差別するための武器として使われたり、そこからビジネスを展開したり、エンタメ化したりするという大きな問題があることを考慮すれば、各人が主体的に参加する学会などの社会的組織においては、少なくとも集会における発表や発言を縛るグラウンドルールなどを作ってもよいのではないでしょうか?(たかぎ・しゅん=北九州市立大学准教授・哲学・美学・ジェンダー)