追悼・紀田順一郎<底辺の「知」の探究者>対談=荒俣宏×鹿島茂
作家・評論家の紀田順一郎氏が七月十五日に九〇歳で亡くなられた。その広範囲にわたる重要な仕事を改めて振り返ることで追悼し、これから先にその仕事を繫いでいく一助にできないかと、作家・翻訳者の荒俣宏氏と、フランス文学者の鹿島茂氏に対談をお願いした(本対談は鹿島氏からの提案で、十月十五日神保町のPASSAGE SOLIDAで公開イベントの形で行った)。(編集部)
鹿島 紀田さんのことは、「古本屋探偵」などの推理小説でご存知の方も多いと思いますが、実際には、本に係わる川上から川下まで、全域をカバーされた巨人です。紀田さんの本を図書館で検索するとわかるのは、01や02台が非常に多いこと。これらは図書館・図書館学、図書・書誌学という分類にあたりますが、こういう著者は滅多にいないんですよ。
荒俣 そうですね。今私たちがいるPASSAGEのような場にも、紀田さんは非常に関心をもっていました。紀田さんが愛した古本屋街の佇まいも時代とともに変わり、懇意にしていた伝説的な書店の親父さんたちもほとんどいなくなりました。古本屋の形態も今ではネットなどのIT空間に移って、古本屋街が知識の倉庫という実感が味わいにくい印象ですが、PASSAGEは買いに来る人たちと売る人、そして本の旧所有者たちとのコミュニケーションが、成立する場になり得ますよね。そうしたコミュニケーションできる場が欲しいと時々おっしゃっていました。
鹿島 本の魅力、古本屋の魅力とは、そういうことなんですよね。
荒俣 紀田さんが古書業界に魅力を感じた最大の理由は、一見とっつきにくい親父さんたちが、懐に飛び込むとものすごく知の宝庫を開陳してくれることだった。ネット検索なんか太刀打ちできない深さがあった。
古本屋業がネットに入ってきてまず問題になったのは、それぞれの店の値付けが一覧でわかるようになったこと。自分が本に付けた値段を他と比べてほしくない。手に入れた本は一冊から、古本屋さんの誇りなのだということです。それが本を介したコミュニケーションの一つです。でもネットならボタン一つですから、同じ本なら安いほうがいいとなってしまうでしょう。
鹿島さんと僕も、海外の本を蒐集するのに、ヨーロッパでのオークションが勉強になったでしょ。各店は出品する本のことを実によく知っていた。
鹿島 欲しい本がバッティングして、二人で競り上げてしまったこともありました。結局落としたのはニューヨークの本屋さんで、後から、高めに摑んでしまったとぼやいていた(笑)。
荒俣 古書業界については紀田先生が詳しく書いておられますが、日本の古本のセリは、非常に複雑な方法で、オープンなオークションはなかなかできない。反町茂雄でも開けなかった。親方たちがさせなかったんですね。
鹿島 貴重なコレクションが売り立てに出ると、最初に勧進元の古本屋が内覧会を開きます。その段階で希望者が落札価格を、勧進元の本屋に入れる。
荒俣 そのとき希望者が直接ではなく、必ず古本屋を通す。
鹿島 勧進元の一次審査でトップになった人が、本番の市会に参加できるというシステムです。本番の市会には他の古本屋からも入札できる。
荒俣 本の市場を安定させていた。フランスのオークションでも、落札してお金を払おうとしたら、それは国から出しませんと言われて、ぬか喜びしたことがあった。
鹿島 ありましたね。「ルーブル」という声が、端から聞こえてガックリしました。ルーブルとかオルセーなどと声がかかったら、そちらが優先なんですよね。
荒俣 文化財は、なるべく国の所有にしようというのは、当然といえば当然です。日本はある意味ではそれを、古本業界のシステムが、自動的に行っていたと言えるかもしれません。
鹿島 ただし、いよいよ最大の障害だった日本語の翻訳が、AIの進化でクリアできるようになってきて、外国の人が日本の古本業界に入ってきています。写真集専門店の魚山堂書店なんて、行くと外国人にしか会わないぐらいです。
荒俣 僕も驚いてますよ。和本専門の大屋書房へ行ったら、ほとんど外国のお客さんでした。
鹿島 荒俣さんが紀田さんを最初に知ったのは、雑誌『マンハント』だったそうですね。
荒俣 一九六一年、中学三年のときに愛読していたのが『マンハント』という若者向け雑誌でした。紀田さんは怪奇幻想ともマイコンとも無関係だった雑誌からデビュー作の「よろず人生案内」(のち『現代ビジネス案内』と改題し単行本化)を連載していた。世捨て人みたいだった中学生には衝撃的な連載でした。現代の見方が変わった。
鹿島 どういう商売が現在成り立っているのか、というガイドですね。紀田さんが後に古本を資料として、『幕末明治傑物伝』や『明治大正・成金列伝』などを書くのは、この『現代ビジネス案内』の流れではないでしょうか。
荒俣 『マンハント』は海外のハードボイルド小説を翻訳して紹介する専門誌でしたが、じつはコラム執筆陣の魅力で売っていた。植草甚一、田中小実昌、永六輔、野坂昭如、後の方では大橋巨泉まで登場した。この中に紀田さんは伍したわけだけれど、僕にはいちばん光って見えた。テディ片岡とか、真鍋博とかいろいろな人が書いていた。
鹿島 テディ片岡って、片岡義男ね。
荒俣 僕は当時、推理小説をかなり読んでいて、ハードボイルドに期待していたんですが、その雑誌で読む限りは面白くなかった。でも中村能三だったか、目利きの翻訳者がハードボイルドとは似ても似つかないサキの短編小説を連載していたんですよ。あまりに面白いので、サキを読むために毎月買っていたんです。
これを学校で読んでいると、取りあげられるんですよね。表紙がヌードぽかったから。
鹿島 ライバル誌に『ヒッチコック・マガジン』もあった。『サスペンス&ミステリーマガジン』というのは、実は内容はSM。
荒俣 そうそう。タイトルは噓なんだよね。『ヒッチコック・マガジン』も、拳銃の特集ばっかりだったし。
鹿島 要はオタク雑誌ね。
荒俣 当時、「ヒッチコック劇場」というテレビの三〇分番組があって、これがやたらに面白かった。我々の世代がミステリ好きや、のちにSF好きになったきっかけの一つは「ヒッチコック劇場」ですよ。ただその名前を冠したマガジンですら、「昭和軽薄体」とかいう独特の新口語を駆使したコラムニストが輝いていた。今では信じられないだろうけれど。紀田さんはそんな中から世に出た。
鹿島 『ヒッチコック・マガジン』は映画の話も多かったですね。編集長の小林信彦さんも、中原弓彦名義でいろいろな雑誌に映画のコラムを書いていた。
当時はどの雑誌もコラムが充実していましたよね。それは『新青年』からの伝統で、「コラム充実主義」です。
荒俣 それぞれのコラムニストがユニークな日本語で書く競争をしてたね。僕がいちばん影響を受けたのは、湯川れい子でありました。
鹿島 僕も大ファンで、ミニ伝記まで書いちゃった。
荒俣 「れい子、困っちゃう」という書き出しでね。「昭和軽薄体」は、偉そうに言うと、今のギャル語に近い。口語体とか文語体という既存のものを乗り越えた。
鹿島 田中小実昌とか。でも紀田さんも、のちの文章とはちょっと違う感じでしたよね。
荒俣 違いました! この頃のものを読むと文体は少し無理して調子を合わせているけれども、知的関心と取材力は群を抜いていた。『現代ビジネス案内』でも、キーパンチャーとか、ビルのネズミ捕りとか、直接取材をして、鋭い切り口から、業界がガイドされるわけです。あまりに面白そうで、ここに出ていた業界に電話をしたことがありますよ。それが監察医務院の遺体洗いの仕事でした。高校一年だったと思いますが、「アルバイトさせて欲しい」と、昼休みに学校の赤電話からかけたんです。人間は死ぬと体重の三倍の重みになるとか、そういう話がたくさんあった。
鹿島 大江健三郎の『死者の奢り』ばりですね。『太陽がいっぱい』で、アラン・ドロンが、殺した男の死体が重くてヒーヒー言うシーンも思い出されます。
荒俣 デビュー作から紀田さんは、新しい世界への関心が強い人でしたね。その紀田さんがついに本領発揮するのは、一九六四年に出した『現代人の読書』です。僕も刊行直後にこれを読んだけど、こんな教養主義読書に真っ向から切り込んだ読書論の著者が、まさかあの『現代ビジネス案内』の紀田さんだとは信じられなかった。僕は高校二年だったけど、読書論は、高校の図書室長が勧めてくれた河合榮治郎の『学生と読書』を読んで、東大の教授連もけっこう変な本を読むんだなと気づいた頃で、本は毒でも薬でも、読むのが勝ちだと信じ始めた矢先だったので、紀田さんが一生の師匠だと思った。それで硬いのと柔らかいのを併読し出した。わが文体の神であった植草甚一もわすれなかったけれど。
鹿島 でも、メディアの広がりはどうなんだろう。『スイングジャーナル』では、植草甚一、牧芳雄、柳生すみまろとかね。その中からラジオに移って活躍したのが、福田一郎や永六輔。
荒俣 紀田さんが知の復興の中心に据えた読書とは別の世界も、実は紀田さんは見ていたと思います。でなけりゃマイコンやワープロの改革には向かわなかったでしょう。その意味で重要なのは三木鶏郎さんがやったNHKラジオ番組「日曜娯楽版」ですね。軽くて俗っぽいバラエティが戦後の国民に、諷刺という知的戦略を与えた。紀田さんはマルチメディア問題を極めるには、まずラジオの歴史に注目すべきだと言っておられた。それから映画についても自らサイレント映画をコレクションして詳細に分析をおこない、ヴィジュアル革命の起源に迫ろうとされた。紀田さんのお宅でよく上映会を開いて。
鹿島 そのうちにテレビの司会者になっていたかもしれませんね。「11PM」にも最適だった気がする。
荒俣 そちらへ行ったら大橋巨泉さんや永六輔さんと同じような立場になっていたでしょう。でも紀田先生は、幻想怪奇の文学へと向かわれた。
鹿島 荒俣さんが紀田さんにいよいよ会うのは、数多くの海外幻想怪奇小説を紹介した、平井呈一さんのご紹介。平井さんは荒俣さんのもう一人の先生ですね。
荒俣 中学生の頃からのね。破門を三回食らいましたけど(笑)。
しかし初期から紀田順一郎の文章を読んできましたが、幻想怪奇の人だとは知りませんでした。平井先生からは「佐藤俊」という名前を聞いていたので、それが紀田さんだと知ったときには驚きましたね。
鹿島 紀田さんは平井さんに激励されながら、慶應義塾高校からの友人の大伴昌司さんと、同人誌『THE HORROR』を立ち上げ、その後は荒俣さんと『世界幻想文学大系』を刊行していくわけですよね。でも確かに、幻想怪奇に紀田さんがなぜ深くコミットしようと思われたのか、ちょっと不思議です。
荒俣 『戦後創成期ミステリ日記』は、二十代の頃に紀田さんが同人誌に発表した批評を集成したものですが、実はここにその謎を解く話が書かれています。
戦前は教養主義が重視され、読書は教養を深め、人格を豊かにすることを主たる目的とされていました。それが戦後になってガラリとひっくり返るわけです。
紀田さんが、中学・高校の頃には、全集ものがぞくぞくと刊行されます。
鹿島 全集全盛期ですよね。
荒俣 本に飢えた青年は、喜んで名作文学を読んだ。でもいつしか読書が義務のように感じられていきます。たとえばドストエフスキーの作品は、社会状況の中での人間の精神を明確に描いた素晴らしいものだけど、二回読む気は起きない。人間は苦しむために生まれてきた、ということを思い知らされるような内容ですし、日本人には宗教色が強すぎる。
そうした中で紀田先生は推理小説――昔は探偵小説と呼ばれていましたが――に、知的な興奮を味わいます。言い換えれば、本を読む純粋な楽しさを覚えた。自分にぴったりのメディアに出会ったと、夢中で読みふけるわけです。『少年倶楽部』からはじまり、江戸川乱歩はずっとお好きでしたよね。
慶應義塾大学では推理小説同好会という、日本で最初のミステリ同好会に加入しています。会長は木々高太郎で、ほかにも傑物たちが揃っておりました。
草森紳一は紀田さんより二、三年年下で、漫画評論などで才覚を表しましたが、この人がまた非常に複雑で、なぜ推理小説同好会に入っていたのか。中国文学に詳しいし、宗教にも歴史にも精通している。ジャズもクラシックも、古い時代から最近の音楽まで語ることができた。
しかしですね、鹿島さんは、戦前の推理小説の役割をどう思われますか。
鹿島 濱尾四郎とかいろいろ読んだけど、小栗虫太郎など数名を除くと、論理遊びに傾き過ぎたきらいがありますね。戦後『近代文学』の同人たちが、ひたすら犯人当てをしていたのは、その流れだと思います。
荒俣 まさにそう、紀田さんも同じことを考えたんです。多くの探偵小説が、推理やトリックの論理的構築に捉われ過ぎているのではないか。パズルを解くことが目的の文学形式では、描かれるものが人間の根源的興味を離れて、いずれ廃れてしまうのではないかと。
では紀田先生が推理小説に惹かれた一番大きな要素は何だったのか。それが新しい時代の文学の中心的なテーマを担うジャンルであり、映画の発展とも通じるものでした。
鹿島 紀田さんは映画にも造詣が深かったですね。
荒俣 そう、映画もすごい。映画を初めて個人的にコレクションするようになったのが紀田さんです。紀田さんのサイレント映画コレクションは、角川武蔵野ミュージアムにご寄贈頂きました。ときどき上映会をしていますが、とてもよいコレクションです。
一九二〇年代半ば、城戸四郎が松竹蒲田撮影所長になって、新しい映画をどんどん作り始めます。それまでは阪東妻三郎のチャンバラや歌舞伎などをフィルムに落としていただけだった。しかし城戸四郎は、新しい映画の主題として、都会で暮らす人々の生活を描こうとしました。
これは十九世紀後半のイギリスで、ディケンズらが都市の民衆たちを描いたのと同じです。ディケンズは文学を平民に開き、支配階級ではない社会の暗がりにいる人々に照明を当て、そこから成りあがっていく人々を描いた。その過程で、都市化した人間がもっとも関心をいだいたのは、道徳優先の固定社会では語られなかった「罪の本質」、すなわち犯罪と背徳の心理です。つまり新しい文学の重要な要素とは、罪を犯す人々の心理。近代社会で都市生活を行う人々にとって、もっとも先鋭的に心に迫ってくるのは「殺人」だということです。それは今も変わらず、だからこそNetflixなどでも題材の多くは殺人事件ですよね。
鹿島 ほとんどそうですね。
荒俣 「殺人」こそは文学である。それが都会で暮らす人々の深奥に宿る精神の現象学です。トリックや推理の論理的構築は二次的なものだ。そして、推理小説の視点人物が、事件を解決する探偵から、犯罪を起こす人のほうへシフトしていきます。
江戸川乱歩はその最たる作家でありました。彼は自分でも気がつかないままに、怪人二十面相というアンチヒーローを生み出し、さらにもっと猟奇的な作品を書くようになります。乱歩の作品で一番求められたのは猟奇的なテーマです。でも乱歩は、自分の書くものが推理小説から外れていくことに悩んでいました。
鹿島 『探偵小説四十年』という自伝を読むと、悩みに悩んでいたことがわかりますね。
荒俣 悩んで一時は書けなくなってしまった。そして戦後になってようやく気づく。自分が書いていたのは、幻想怪奇小説だったと。乱歩の『幻影城』という探偵小説評論集の中に、「怪談入門」というエッセイが収録されています。この発想はすでに先輩の小酒井不木も気づいていたようですが、乱歩が初めて怪奇小説の本質と推理小説の繫がりを明らかにしました。そして乱歩は怪奇小説復興運動を始めます。
紀田さんはその真理を最も早く感得した先駆者と言えます。
『新青年』にも時々怪奇小説が載っていましたが、特に『宝石』ですね。乱歩が海外作品のセレクションをしていたから、幻想怪奇小説がぞろぞろ入ってくるようになった。
鹿島 『宝石』は、海外文学の紹介に最大の貢献をした雑誌だと思います。乱歩という人は非常に勉強家で、世界各国の小説や文献への目配りが素晴らしかった。乱歩全集の最終巻には、彼が集めた書籍名がたくさん出てきます。
荒俣 ラヴクラフトとかね。昔は、なんだこの気持ちの悪い小説は、という評価でしたが、今では少女たちも楽しく読んでいる。かつては考えられなかった状況になっています(笑)。
荒俣 『戦後創成期ミステリ日記』の姉妹編、『幻想と怪奇の時代』に再録された「恐怖小説講義」という論考があります。紀田先生が、大学を卒業してまもなく、サラリーマン時代に書いたものです。
人々が文芸を読む動機の一つは、この社会に暮らす中で露わにしてはいけないもの――猟奇であり、怪奇であり、幻想――を、ここでは露わにする。だからこそ、好奇心を傾ける。「見るな」と言われれば見たくなる「のぞき」の心理、それを誘うのが小説の役割だと。
かつて悪魔が登場するのは、怪談ではなく、アレゴリーや教化物語だった。ところが人間のうちに悪魔が見いだされ始めたときに、恐怖の視覚は変わったと紀田さんは書いています。
神話では、我々はなぜここにいるのか、幸せとは何か、というような根本的な問題が扱われますよね。
日本ではたとえば、木花咲耶姫と岩長姫のエピソードに象徴されています。ニニギノミコトという天上の神が地上に降りてきたときに、絶世の美女の木花咲耶姫と、不死の存在である姉の岩長姫と、二人セットで婚姻を結ぶはずだった。ところがニニギは、醜い岩長姫を送り帰してしまう。つまりニニギは自らの選択で、永遠に生きる幸福を捨てた。つまり「知性的欲望」が、根源的な「普遍的真理」を捨てさせた。この物語は、アダムとイブの『創世記』にも通じます。
「罪」こそは我々が自分で選んだ運命だった。
鹿島 イモータルからモータルへ、ですね。
荒俣 人間がまったき幸せを失ったのは、己の選択によるものである、そのことを神話は伝えています。
そうした生の根本問題に触れるものこそ、人々が関心を寄せ、文化を引っ張っていくような物語であって、そうでない表層の文学形式はいつか飽きられ、滅びてしまう。
鹿島 紀田さんは、はやくも二十代にして、そのことを悟ったわけだ。
荒俣 そこがすごいと思います。紀田さんは、推理小説のファンダム活動をし、幻想怪奇小説を日本に普及させ、SFにも関心をもっていた。SFならば、人間の根源的な問題を超えられるとも考えたんですね。最初のSFファングループである「一の日会」に係わり、現在のSF大会の基盤作りにも参加しています。
鹿島 バルザックも推理小説の元祖である『十三人組』と、幻想文学『セラフィタ』を両方書いていますよね。時代が新しくなってくるとジャンルが分化してきますが、紀田さんはバルザックやディケンズ、ドストエフスキーなどのような、総合性のある人でした。
荒俣 紀田さんが好きな作家もまさにバルザックとディケンズでした。
鹿島 紀田さんは幻想怪奇小説の礎を作った、非常に専門的な思考の人だという印象があるかもしれませんが、実際は総合性を目指していた人だったということですね。
荒俣 紀田先生があまりに広い範囲のお仕事をされたために、全体像が把握されず、そのことがなかなか伝わらないのですが。
鹿島 僕も荒俣さんも、もともと本がない家庭で育ったでしょう。昔は商人の家ではそれがごく普通でしたが。家には「主婦の友」と「文藝春秋」ぐらいしか置いてなくて、子どもの頃、愛読していたのは、日経新聞の「私の履歴書」です。
荒俣 「私の履歴書」ですか(笑)。
鹿島 面白い人が書いていたんですよ。田中角栄とか、今でも覚えているのは大谷米太郎。ホテルニューオータニを建てた実業家ですが、元は相撲取りだった。越後から米一俵を担いで山を越えてきたというのにしびれました。
雑誌「航空情報」のフォン・ブラウン博士の伝記を読んで読書感想文を書いたら、先生に、これは読書感想文ではない、と言われたこともあった。
荒俣 鹿島さんっぽいエピソードだなぁ。
鹿島 読書感想文に使える本が家に一冊もないので、隣町の本屋に行ったところ、書店主に『筑摩版現代文学大系』の購読をすすめられた。珍しく家から定期購読の許しが出て、これは最初から読んでいます。中に網野菊とか、よく知らない作家が入ってくる、それが面白かった。僕はこのシリーズのおかげで、徳田秋声のファンになりました。何も知らない人間が文学全集を読むというのは、とてもいいことだと思います。
荒俣 鹿島さんが感想文の話をされたので思い出しましたが、紀田先生の『横浜少年物語』という本が非常に面白いんです。戦後まもなく紀田少年が、どのように読書に目覚めていったのかが非常によく描かれています。
実は紀田先生は、小学生のときに作家デビューしているんですよ。「少年タイムス」という新聞が主催した作文大会に出場して、「米兵さん」という出題で作文を書き、一等賞を取った。でも本人は入賞したのが恥ずかしくて、授賞式にも行かなかったと言うんです。紀田少年は、アメリカの車の性能に目を見張り、満員電車で母子を助けた米兵さんの倫理観に触れていた。
のちに当時を振り返った紀田さんは、宮武外骨が終戦の翌年に刊行したパンフレットに「アメリカ様」「言論の自由、何と云う仕合せ」と書いているのに、「これほど同時代的感想を臆面もなく吐露した表現はなかった」と快哉を叫んだと言っています。軍国政策や疎開体験で押さえつけられていた庶民にとって、「第二の黒船」がもたらしたのは、安堵だったのだと。
鹿島 僕は横浜出身ですから、この本を我がことのように読みました。伊勢佐木町という繁華街は米軍が接収したため、隣町の野毛が日本人の繁華街になった。この本で初めて知ったのは、有隣堂書店は伊勢佐木町から野毛に移ってきていたこと。僕は伊勢佐木町に戻ってからの有隣堂しか知らなかった。
当時、横浜には米兵が多く、子どもたちは米兵が来ると、はーいって手を上げるんですよ。キャンディを投げてよこしたのに驚いて、僕も思わず拾っちゃった(笑)。
荒俣 僕は小学一年のときに疫痢と赤痢、両方に罹りました。もうダメだと言われたんですが、母が英語も喋れないのに米軍にかけあって、ペニシリンをもらってきたんです。僕は米軍のペニシリンで助かったんですよ。
鹿島 紀田さんは、北方小学校を出た後は、横浜国立大学附属中学校に進む――僕は受験して見事に落ちました――エリートコースですね。そして高校は日吉の慶應に入られた。
『横浜少年物語』の中でよく覚えているのは、焼け跡に一つだけ芽生えた生命を見た紀田さんの感動。それから、ほとんど本のない野毛山の市立図書館に通い、有隣堂書店で本を眺めていた頃の、身震いするほど本が読みたかったというエピソードです。
僕がかすかに記憶があるのは、戦後の本牧や伊勢佐木町などには、米兵が放出した雑誌が山のようにあったこと。
荒俣 それが、神田に流れてきていたんだよね。
鹿島 GI文庫と呼ばれる、横長の本ね。
荒俣 ありましたね。東京泰文社という古本屋に、顔を見ると「プレイボーイ誌、入ってるよ」と声かけてくれるおじさんがいました。
鹿島 植草さんがよく店のたたきに座ってました。
荒俣 本の詰まったリュックサックを背負ってね(笑)。そういう風景も見なくなりましたね。
先ほどの戦後の庶民感情の話にも通じますが、紀田さんは読書について、あらゆる角度で掘り下げておられました。僕が大好きな本の一つが、『内容見本にみる出版昭和史』です。
鹿島 これは素晴らしい本です。主に全集の内容見本を扱っているんですよね。
荒俣 当時の全集は、内容見本で注文を取る、予約販売の形が多かった。そこに偉い先生方や名士の推薦の言葉だけでなく、一般読者からの投書が掲載されることがありました。紀田さんが内容見本を集めた理由の一つには、当時の読者が本というものをどのように受け取っていたのか、それを摑みたかったところがあったのではないかと思います。
一つだけエピソードを紹介します。角川書店が一九五二年に『昭和文学全集』の刊行を開始しました。後発だったこの全集は、大江健三郎や野間宏、小林秀雄、松本清張、三島由紀夫、石原慎太郎と、戦後の作家をずらっと並べた新しいタイプのものでした。角川が生きるか死ぬかの大博打で出した全集の内容見本に、紀田さんが目をとめた大変心温まる話が載っていました。
農家のお母さんからの投書なんです。貧しい農家の寡婦ですが、一生かけて一巻ずつ『昭和文学全集』を読んでいきたい。でも購読するお金の持ち合わせがないので、お米で本にかえてもらうことはできませんか、と。
戦争が終わってからまだ数年のことです。紀田さんは、農家の主婦が米と物々交換してでも本を読みたがったことに、非常に感動していました。「時代が変わってきたな、という実感をいだいた」と書いておられますが、僕もそこまで読書が真剣なものだったのかと驚きました。
鹿島 それは、僕も同じく一番感動したエピソードです。この本によって、戦後の活字に対する飢餓が、全集ブームを支えたということがわかりますよね。そしてこうした読書というものへの飢餓が、つまりは戦後の日本の発展を支えたとも言えるのではないでしょうか。それを探し出してきた紀田さんの目はやはりすごいものです。
荒俣 紀田さんの弟子でよかったと本当に思います。
少々語弊があるかもしれませんが、お金も学歴もないけれど、本当に自分が求める知のあり方を直感していた人たちを、紀田さんは「底辺の知識層」と呼んでいました。特に女性は、かつて高度な教育を受けることができなかった人がほとんどですから、純粋培養の「底辺の知識層」とも言えます。勝手な想像だけれど、全集を読みたいというような女性に、周囲の男どもは、そんなの読んでもお腹がふくれるわけじゃないし、読んでもしょうがないだろう、とかなんとか言ったのではないかと思う。でも鹿島さんがおっしゃった通り、こうした人々こそが新しい日本の知を支えたのだと。つまり紀田さんは、最終的に「知」とは教育以前に存在する能力だったと言いたかった。レヴィ=ストロースが「野生の知」なら、紀田さんは「底辺の知識層」だ。
荒俣 そういう知のあり方に関心をもっていたからこそ、公共図書館の改革にまでも目を向けたんでしょうね。
鹿島 最終的にはそこに辿り着くわけですね。
『知の職人たち』という本は、『群書類従』『言海』『大日本地名辞書』『大漢和辞典』『牧野日本植物図鑑』など、近代日本で、決定的な一冊の書物を遺した人々の列伝です。その後、紀田さんはコンピュータと格闘することになりますが、その仕事はこの本とも関連しているように思います。
荒俣 今は知る人も少なくなったと思いますが、「一太郎」という漢字変換ソフトがあって、日本の役所では九割が使っていました。ジャストシステムという会社と係わり、その開発のためのシソーラスを作ったのが、紀田さんをはじめとする人々です。現在曲がりなりにも、ワープロの漢字変換がかなり使えるようになったのは、紀田さんたちのおかげでもあるんです。最初に鹿島さんが話されましたが、AIがこれほど滑らかな日本語を翻訳できるようになったことにも影響を与えたでしょう。海外では日本語をAI翻訳機に乗せることはほとんど諦めていたわけですから。
鹿島 日本語をコンピュータに馴染ませようとするときに、語彙から入るのか、シンタクスから入るのかという難問にぶち当たりますよね。つまり「私は」で変換するのか、「私」と「は」とを分けて変換するのか。この分類に紀田さんは格闘され、大貢献されました。
荒俣 それは辞書の辞書を作らないといけないという話ですよね。実に中型辞書を作る以上の、コストとエネルギーが必要だったと思います。どれだけ時間を費やしたか。ほとんど寝ないときもあったと聞きました。
鹿島 紀田さんの出発点は推理小説ですが、人工言語は論理学ですね。デカルト四原則という思考原則がありますが、その第四原則は、論理の組み合わせに矛盾がないか最終確認せよということです。そうでないとバグが出てしまいます。
論理学で大切なことは、「対偶」という概念です。命題「PならばQ」の対偶は「QでないならばPでない」となり、命題と対偶は論理的に等価になります。ところが日本語では対偶が等価にならないんですよ。
荒俣 ならないね、逆にそこが日本語のすごいところでもあります。アルファベットは合理的な文字で、結合術も作られますが、日本語は結合術だけでは成り立たない。
紀田さんが、悪魔の言葉=日本語と戦った歴史を弟子として後世に伝えたいのですが、その記録はほとんど残っていません。
鹿島 紀田さんの全貌は未だ明らかになってないですね。
荒俣 最後にもう一つだけ話題にしたいのは、『蔵書一代』です。紀田コレクションは我々が食うや食わずで集めたような高価本というよりは、先ほどの内容見本のような、ほとんど人目につかない、本の山の中をかき分けて集めたようなゴミに近い資料です。世界の底辺を探ろうとした人なので、目のつけ方は、我々の一歩先を行っていたと感じます。
『現代人の読書』、これは今読んでも非常に役に立つ本ですが、この中でも最後は「蔵書一代」について書かれています。本の買い方、読み方、楽しみ方だけでなく、後のことも考えるべきだという指南です。よほど特別な本でなければ、図書館に寄贈できるわけでなく、叩き売られるか、運が良くて本棚の肥しになるだけ。読書人は「蔵書一代」の覚悟をもち、コレクションするのと並行して、死後の蔵書の行方まで考えておく必要がある。蔵書の取り合わせは、コレクターそれぞれに唯一無二のものであり、それが日本の文化の源になっている。「底辺の知識人」の一つの生き様として蔵書を残さなければ、日本の文化における読書の意味が明確にならないと。
これは泣けますね。ところが紀田さん本人は結局、蔵書をバラバラに処分しなければなりませんでした。
「蔵書一代」という言葉には、紀田さんの人生訓が詰まっています。
紀田さんは自分の本を見送るとき、足下が急に頼りないものに変貌して、路上に俯せに倒れ込んだと書かれています。その気持ちは、痛いほどわかります。コレクターの方に『蔵書一代』を読んでいただきたいとつくづく思います。
鹿島 ヨーロッパだと、コレクターの蔵書が、オークションでの売り立てになるんですよね。それでオークションカタログができる。
荒俣 つまりコレクションが、目録として残るわけですね。
鹿島 棺を蓋いて事(つまりコレクターとしての評価)定まると。
荒俣 僕らは、もっと書物への目配りを広くしていかねばなりませんね。神田の街にも、このPASSAGEのような、新しい拠点が生まれてくることを期待して。
鹿島 話は尽きませんが、今日はこのあたりで……。紀田さんの生前に出た『近代出版研究 第4号』に、荒俣さんが長文を寄せています。こちらもぜひお読みください。(おわり)
