2025/06/27号 3面

ヒルベルトの23問題に挑んだ数学者たち

ヒルベルトの23問題に挑んだ数学者たち ベンジャミン・H・ヤンデル著 三浦 伸夫  本書の英語原題は『The Honors Class』である。これは20世紀の著名な数学者ヘルマン・ワイルが、「これらの[ヒルベルトの]問題の1つを解決した数学者は、それによって数学者の世界の名誉あるクラス(The Honors Class)の一員となったのである」という言葉に由来するという。それほどまでにこの問題は多くの数学者にとって研究の羅針盤として機能してきた。ヒルベルトの問題とは、20世紀の代表的数学者ダフィット・ヒルベルトが1900年に開催された国際数学者会議の講演に端を発するが、100年以上も経過した現在、それらのうち16問は(研究者の見解に差があるものの)解決済とされているが、中には未解決のまま残されている「第6問題(公理的力学)」「第8問題(リーマン予想)」などもある。本書は、問題すべてを網羅的に解説し、それぞれに対する研究動向ならびにそれに挑んだ数学者の人物像を、学問的背景、時代状況をも視野において紹介した作品である。  数学問題が掲載されているからといって本書を読むのにためらう必要はない。著者は冒頭で、「分からないことがあっても読み進めてもらいたい。…読み飛ばしてもかまわない」と本書の読み方を提案している。実際は、数学の部分は2段構えになっているように思える。最初は基本的解説で、数式はほとんど用いられず数学が不得手な読者にも馴染みやすい工夫がなされている。その後にやや専門的記述が続き、数学に興味がある読者(数学科学生程度か)が対象となる。ただし専門家には少し物足りないかもしれない。数学の専門家でない読者は、数学的な内容よりも数学者の人物像や時代背景に関する記述を楽しむことができるだろう。著者がヒルベルトの問題という現代数学の最先端分野とその関連問題を丁寧に解説しているのは驚きである。著者のヤンデルは専門的数学者ではないが、10年かけ関係者に電話や電子メールでインタヴューし、数学者自身に自らの物語を語らせる手法をとり、個人所有の珍しい写真なども取り入れている。こうして時代背景や人間性というドラマ性を読み取ることができ、読み物としての魅力が溢れた作品に仕上がっている。また巻末にはヒルベルトの講演「数学の問題」の全訳が含まれ、さらに300点以上もの参考文献が収録され、二次文献への引用箇所も示され、学術資料として有用であることは言うまでもない。  本書の大きな特徴は、個々の数学的問題に関する概説を与えるのみならず、それに取り組んだ人物の学問的履歴、教育歴、交友関係、ときに奇行に至るまで多角的に描出している点にある。たとえば、集合論を創始したカントールがシェイクスピアとベイコンとは同一人物であるという説に関心を寄せ論文を執筆したこと、確率論の創始者の一人であるコルモゴロフがロシア詩における韻律構造に理論的関心を持っていたこと、女性数学者タウスキーが高木貞治と話をするために日本語の勉強を始めたこと、ゲーデルがドイツの古い速記法で私的文書やノートを書いたことなど、興味深い逸話が多数含まれている。  20世紀は戦争と政変の時代でもあった。登場する多くの数学者たちは2つの大戦、ナチズム、スターリン体制などに直面せざるを得なかった。数学という知的営みが政治体制にどう影響され、またそれにどう抗してきたかが数学者によって異なることが本書によって見えてくる。体制側に身を置く者、公然と反対を表明する者、沈黙する者など様々である。ナチに組したとして当時も今も批判されているドイツ人数学者ハッセの行動、アメリカに亡命した数学者たちの足跡など。一見中立的に見える数学という学問も、常に社会との関係のなかで展開してきたことが明らかにされている。また著者は書く。「不思議なことだが、ロシアの数学は弾圧と粛清の時代に全盛期を迎えた」と。その時代に生きたコルモゴロフの業績は、量・質ともに群を抜き、500点以上にも及ぶ。コルモゴロフが記述されている章「乱流の中の学び舎」では、彼が友人3人とヴォルガ川を1300キロの川下りに出たという。章題の「乱流」が意味するのはこの川のことなのか、それともこの時代そのものなのか、著者は各章に暗示的な章題を付け、読者の想像を喚起してくれる。「数学者は秘め事を部外者に漏らさないことでも定評がある」と著者は述べながらも、話の信憑性は定かではないと留保をつけてはいるが、ジーゲルの奇行や悪ふざけの逸話が紹介される一方、彼の純粋数学への追求姿勢、そして良心の問題を通じてナチズムと間接的に戦った記述は印象に残る。「私は噓をついている」という章は、ゲーデルの「不完全性定理」が主題で、ヒルベルトのプログラムの根底からの崩壊が詳しく描かれている。  残念なことに、著者は次作を構想していたにもかかわらず59歳で病没したとされる。訳者は12年かけて本書を訳したというが、その歳月にふさわしい緻密な翻訳であり、訳書とは気づかないほど自然で読みやすい日本語に仕上がっている。E・T・ベルの古典『数学をつくった人々』全4巻(英語原典は1937年。和訳は1962―63年東京図書刊行で、後に早川文庫に収録)を読んで数学を志した若者も少なくないであろう。やや情緒的筆致が特徴のベルの書はポアンカレやカントールの記述で終わっている。ヤンデルの書は、時代から言うとこれら二人の数学者の20世紀初頭から始まる。時代を画したベルの書籍の続編として、本書が未来の数学者を育てる書物になることは間違いないであろう。歴史上の事実や数学的理論を豊かなエピソードと結びつけて描き出すことで、数学が個人と社会的条件の相互関係の上に成り立っていることを教えてくれ、人間が行う学問であるという数学像を浮かび上がらせている。数学史に関心も持つ者のみならず多くの読者に感動を与える作品である。(細川尋史訳)(みうらのぶお=神戸大学名誉教授・数学史)  ★ベンジャミン・H・ヤンデル(一九五一―二〇〇四)=アメリカの著述家。スタンフォード大学数学科を最優等の成績で修めた後、詩作の傍らテレビ修理業を営む。多発性硬化症の診断を受けながらも、本書を完成。

書籍

書籍名 ヒルベルトの23問題に挑んだ数学者たち
ISBN13 9784622097723
ISBN10 4622097729