2025/05/02号

関西の隠れキリシタン発見:茨木山間部の信仰と遺物を追って

 十六~十七世紀、ヨーロッパ伝来のカトリックが日本人に受容され成立したキリシタン信仰のうち、信者レベルの内容を、江戸時代の禁教期以降、仏教・神道などを並存する構造の中で継承した信者と、彼らが継承した信仰をかくれキリシタンと言う。キリシタン信仰が九州で盛んだった事から、かくれ信者が多数存在したのは長崎県下と隣接する熊本県天草地方だった。二〇一八年に世界遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産もこの地域に分布し(潜伏キリシタンはかくれキリシタン信者のなかで禁教時代に限った信者を指す)、令和七年三月には「長崎のかくれキリシタン信仰用具」が国の重要有形民俗文化財に指定されている。しかし学術上最初にかくれキリシタンの存在が注目されたのは、大阪府の北摂山地に所在する千提寺・下音羽地区(現茨木市)だった。同地では大正時代、キリシタン墓碑の発見に続き、かくれ信仰を継承する数軒の家からキリシタン信仰期の聖画、メダイ、ロザリオ、ジシピリナ(鞭)などの信仰用具が発見されている。その中には教科書にも紹介される「聖フランシスコ・ザビエル像」など多くの貴重な資料が含まれる。  『関西の隠れキリシタン発見』は、千提寺・下音羽のキリシタン・かくれキリシタン(本書では「隠れキリシタン」「古キリシタン」を用いているが、本稿では文化財の用語でもある「かくれキリシタン」を用いる)に関する諸論考を掲載する。第一章「茨木へのキリスト教伝来」(平岡隆二)では、キリシタン時代から禁教時代にかけての茨木市周辺地域のキリシタンをめぐる歴史的状況を概観するが、そこに千提寺・下音羽のかくれキリシタン信者の祖先と思われる「山のキリシタン」「山間部のキリシタン」と呼ばれる信者達が登場する。  第二章「パリ外国宣教会の「古キリシタン」探索」(マルタン・ノゲラ・ラモス)では、大正時代の藤波大超らによる発見に先立つ明治十年代に、パリ外国宣教会のマラン・プレシ神父が千提寺・下音羽のかくれキリシタンを発見していた事実を紹介する。それも含め各地におけるプレシ神父の布教活動を紹介する中で、当時のパリ外国宣教会では、かくれキリシタン信者からカトリックに合流した信者達を重視する方針と、(プレシのように)新たな信者の改宗を重視する方針との間で対立があった事を明らかにしている。なお本書末に掲載された千提寺・下音羽のかくれキリシタン信者に関するプレシ書簡の和訳も、同地の信仰の内容を窺える新資料として重要である。  第三章「茨木キリシタン遺物からみる「発見」とその後」(桑野梓)は、千提寺・下音羽から発見されたキリシタン信仰用具の概要とともに、発見後の修理によって資料の変化が起きていた事実を紹介する。また信仰用具の発見とともに、かくれキリシタンの家人に聞き取った信仰の内容を記録した奥野慶治の事績を取り上げている。  第四章「大正期の文化・学術と茨木キリシタン遺物の発見」(高木博志)では、大正時代の発見の盛り上がりの背景に、当時の文学、絵画、映画などの諸文化におけるロマン主義的潮流の中でのキリシタンブームや豊臣秀吉の顕彰などがあった事を紹介する。また信仰用具発見に携わった人物にも注目し、藤波大超の他に橋川正・天坊幸彦など地元や大学関係の様々な人物が関わっていた事や、資料を現地保存するか大学等で保存するかで論争が起きていた事などを紹介している。  本書所収の諸論考は千提寺・下音羽のキリシタン・かくれキリシタンについて、大正時代の学術的発見以来の諸分野の調査・研究の成果を踏まえ、信仰に関する様々な事象を紹介する中で、プレシ神父による発見などの新知見も提示している。本書が千提寺・下音羽のキリシタン・かくれキリシタンについて学ぶ最良のテキストである事は疑いない。その上で望まれるのは、禁教下にキリシタンの信仰用具とかくれキリシタン信仰を継承し、明治時代にはパリ外国宣教会の再布教を拒否する選択をした千提寺・下音羽のかくれキリシタン信者を主体的に捉え、彼らの信仰とそれを支えた社会的・経済的背景を検証する視座である。例えば長崎県下のかくれキリシタン信仰は集落や組の単位で継承されたのに対し、千提寺・下音羽では家・同族の単位で信仰継承が図られているが、これを成り立たしめた生業基盤の検証なども待たれるのである。(なかぞの・しげお=民俗学者・平戸市生月町博物館「島の館」館長)  ★マルタン・ノゲラ・ラモス=フランス国立極東学院准教授・日本キリスト教史(近世・近代)。  ★ひらおか・りゅうじ=京都大学人文科学研究所准教授・科学史・知識交流史。