地図と拳 上・下 小川 哲著 小川 哲  かつて、歴史の授業で第二次世界大戦について初めて学んだとき、小学生だった僕は「絶対に負けるってわかるのに、どうして戦争なんてしたんだろう」という素朴な疑問を抱いた。教科書によると、日本はアメリカ、ソビエト連邦、中国、イギリス、フランスなど、ほとんど世界中の国々を敵に回していて、味方はドイツとイタリアくらいだった。どう考えたって勝てるはずがない――そんなことを考えたりもした。  大人になって、当時の僕の考えが危険であることを指摘できるようになった。つまり、「勝てるという確信があるからといって、こちらから戦争を始めてはいけない」という点だ。とはいえ、結局のところ、どう考えたって負けるに決まっている戦争を始めた理由は理解できなかった。  当時の人々は、アメリカやソビエトや中国やイギリスを相手に戦って勝てると思うほど、愚かだったのだろうか。  僕は『地図と拳』を書くことで、小学生の自分が抱いた素朴な疑問に僕なりの答えを出そうと思った。  当たり前だが、戦争をするときは、戦争をするだけの理由がある。戦争をする理由が生まれることにもまた、別の理由がある。小さな積み重ねが大きな流れを作り、気がつくと後戻りできない地点にいて、「戦争をするしかない」と思いはじめるようになる。そう思いはじめると、「客観的に見て勝ち目がない」という小学生でもわかる事実から目を背けるようになっていく。自分たちが勝てる微かな根拠を探し、それを拡大解釈し、場合によっては捏造し、破滅の道へと進んでいく。  僕は、その破滅の道が、満洲にあるのではないかと考えた。『地図と拳』は満洲を舞台にした作品であり、戦争に至る道がどのように形成されていったかを個人の視点から追っていく作品である。  「なぜ戦争をしたのか」という問いに対して、「当時の人々が愚かだったから」と簡単に答えてしまうことは、戦前の人々と自分たちを切りわける行為で、翻って「自分たちはそこまで愚かではない」という前提を含んでいる。戦後の長い歴史を振り返って、僕たちは胸を張って「愚かではない」と言えるだろうか。僕たちは、もう二度と戦争をしないと自信を持てるだろうか。  愚かさの根拠を探すこと。戦争へと続いていく大きな流れの、その源流を見つけること。  小学生の自分が抱いた疑問に答えようとする行為は、必然的に第二次世界大戦と現代を結びつける行為でもあった。  残念なことに、現代にも戦争へと続く川の源流が生まれつづけている。戦前の日本人が直面したような、さまざまな要因が重なっていけば、僕たちは再び戦争に加担してしまうかもしれない。  八十年前の過ちを二度と繰り返さないためには、現代に生きる僕たちが「愚かさ」を自覚し、戦争の源流を断ち切っていかなければならない。拙著がその一助になればいい、と思っている。(おがわ・さとし=作家)