2025/10/10号 8面

百人一瞬 Crossover Moments In mylife 82・齊藤颯人(小林康夫)

百人一瞬  小林康夫 第82回 齊藤 颯人(一九九一―   )  八ヶ岳山中の小さな「方舟」(第53回参照)のデスクの上に広げたノオトに、詩か哲学か、わたしがなにやら書きつけている。しばらくすると、わたしは立ち上がって消えるのだが、開けたままのノオトの上に水滴が落ちてくる。屋内なのに「雨」はどんどん激しくなって文字は滲み、わたしの言葉はもう誰も読むことができない……。  三〇分あまりの映画『DOUBLE CLOCK――漂う方舟』の最後に近いシーンである。一年前の晩秋、八ヶ岳でこの映画を撮った。撮影したのは齊藤君。登場人物はわたしだけ。だが、監督は、齊藤君とわたしの二人。まさに、DOUBLE CLOCKなのだ。  二〇一五年に東京大学を定年退職したあと、わたしは青山学院大学(総合文化政策学研究科)の特任教授として五年間働かせていただいた。そこで出会った院生の一人が齊藤君で、彼はドイツ生まれのアメリカ人女性アーティスト、エヴァ・ヘスについて修士論文を書いたのだが、そこには彼自身のアートのセンスが滲み出ていた。  それもあってか、彼は博士課程には進まず、父親から伝わる宝石デザインの会社(みんぐるまんぐるハウス)を引き継いでジュエリーデザイナーとしての道を行くと。そしてその最初に、紙をベースにした指輪をつくってみたいと言う。指輪は約束のシンボル。約束が叶った時には、指輪を火にくべて燃やすのだ、と。おもしろい!とわたしは即刻、赤と青の二つを注文し、齊藤君の最初のクライアントとなったのだった(「赤」は時間のなかに消えて行ったが、金をまぶした「青」はまだデスクの奥に秘蔵されている、何の約束だったのかな?)。  以後、わたしには、齊藤君は、気軽に、ということはあらためてそのアート・センスを問う必要なく、ポンと仕事を頼める「仲間」となった(正直に言えば、彼にとっても「勉強」になるだろうという「教師」の勝手な論理も絡ませてはいるのだが)。だからこそ、青山学院の最終講義に続くわたしのダンス・パフォーマンスの映像撮影を頼んだり、コンサート・イベントのポスター制作、さらには紙ではなく、ラピス=ラズリなどの宝石を使った指輪も作ってもらった。  そしたら、昨年、突然、わたしがわたしの「方舟」で漂っている姿を残しておいてもいいかもしれないという思いが湧いてきた。いや、それは、きっとその頃の東京国際映画祭でたまたま観たベン・リヴァースの映画『ボーガンクロック』に刺激されてのことだったに違いない。あのように、山のなかでただふらふらしている「ヤスオクロック」を残しておくべきではないか、と。  で、齊藤君に声をかける。撮影機材をもって一泊二日の予定で八ヶ岳に来てね、と。わたしには確固としたシナリオはない。直観的にその場で身体を動かすだけ。だが、彼の方は、彼なりの映像を夢見ていた。では、そのままダブルにして「ヤスオ/リュウト・クロック」にしてしまおう。  たった二人だけ、たった二日間で撮影した三〇分あまりの映画! 齊藤君の編集作業はたいへんだったと思うが、わたしという人間のドラマなどではなく、ただ時空という波に揺られ拡がっていく存在の詩。  われわれは、この作品をもって本年度のPFF(ぴあフィルムフェスティヴァル)に応募したのだが、審査員から好意的なコメントはいただけたが、残念ながら受賞には至らなかった。  こうなったら、来年もう一本、挑戦しようかなあ……?(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)