<新たな権力〈生権力〉の登場と展開>――M・フーコー『知への意志』を読む
読書人カレッジ@立教大学 載録(講師・小松美彦)
立教大学(東京・池袋)で昨年開講された連続講座「読書人カレッジ」(「戦後の日本社会に影響を与えた「古典」を読む」全十四回、読書人/公益財団法人日本財団共催)の第十三回「新たな権力〈生権力〉の登場と展開――M・フーコー『知への意志』を読む」(講師=小松美彦・東京大学客員教授)の講義の模様を載録する。完全版は読書人WEBにて公開予定(詳細は3面QRコードから/第二~十二回は公開中)。なお、フーコーの著作(翻訳書)からの引用はすべてゴシック表記とし、また同書のゴシック箇所は傍点を補った。講師による追記は〔 〕で記した。(編集部)
初めに簡単に自己紹介をします。私の元来の専門分野は「科学史」です。具体的には、近代ヨーロッパの科学や医学の中で、生命や死がどのように捉えられてきたのか、その歴史研究から研究活動を開始しました。ただし、過去のことを調べて検討すること自体は重要ですが、過去を過去のこととして終わらせるのではなく、現代の問題と結びつけて考えることが必要だと思ってきました。その思いは、中学一年生のときに社会科の教育実習の先生の影響で培われました。
そこで研究者になってから、「科学史」を「生命倫理」という新しい分野と融合させた研究をしてきました。具体的には、脳死・臓器移植や安楽死・尊厳死の問題であったり、クローン人間の問題であったり、現代的な生や死をめぐる最先端の問題と歴史研究とを結びつけてきたということです。そのような経歴にあって、ミシェル・フーコー自体は私の専門ではありませんが、フーコーが論じた〈生権力〉という権力形態については死生問題との関連で自分なりに取り組んできましたので、今日はそれをテーマに話していきたいと思います。
具体的に扱うテキストは、フーコーが一九七六年にフランスで刊行した『性の歴史Ⅰ 知への意志』(渡辺守章訳、新潮社、一九八六年)という本です。非常に難しい歴史的な思想書です。この講義をきっかけに、頑張って自分自身で実際に読んでもらいたいと思いますが、いかに読みにくい本であるか、講義を通して体感できると思います。
このような『知への意志』は、権力を主題としたフーコーの著書の第二弾であり、前著『監視と処罰―監獄の誕生』で展開した権力論について、考察を深化させます。ただし、扱う対象は「監獄」から「性」(特に「性的欲望」)の問題に変わります。その概要を流れに沿って今から詳しく説明していきます。
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「我らヴィクトリア朝の人間」と銘打った第一章は、〈性〉の歴史に関する従来の見方の紹介から始まります。すなわち、ヨーロッパで性の問題――特に「性的欲望」や「性に関する言説(表現)」――はどのように歴史的に扱われてきたと見なされてきたのか、フーコーはこの点から考察を開始します。従来の見方では、中世から近世の入り口まで人々は性を謳歌していたが、しかし一七世紀あたりから性への抑圧が始まり、一八世紀にそれが強まり、そして一九世紀になるとさらに強まって人々は抑圧の雁字搦めになった。このように一九世紀イギリスのヴィクトリア女王の時代が性への抑圧が最も厳しかったと見なされたため、フーコーは皮肉の意味を込めて、第一章のタイトルを「我らヴィクトリア朝の人間」としたのでしょう。
いま私は「皮肉の意味を込めて」と言いましたが、それはフーコーが従来の見方の信憑性を疑っており、そうであるにもかかわらずそうした章題をつけているからです。かくしてフーコーは、従来の見方を「抑圧の仮説」と呼び、それに対して三つの問いを立てます。①性の抑圧は、歴史的に本当に明らかなことなのか。②我々の社会で機能している権力の仕組みは、ひとえに抑圧的なものなのか。③抑圧に対する批判的言説は、真に批判的といえるものなのか。書籍全体は論述が入り組んでおり、独特の修辞表現の連続で読みにくいのですが、諦めずに注意深く読むと、この三つの問いに答えるような構成になっています。
ただし、フーコーは「抑圧の仮説」を単に否定して、新たな仮説を立てることを目的としているわけではありません。仮説は立てるけれども、性をめぐる言説が、つまり、性について語ることや表現することが、権力のメカニズムといかに関係しているのか、フーコーはこの事態を解明しようとしたのです。そのようなフーコーは、本格的な考察に先立ち、未だ仮説ではあるけれども、全体的な眺望・見取図を示します。すなわち、性に関する言説は単に抑圧されてきたのではなく、抑圧を通じて逆に煽り立てられ、多様な性の拡散と浸透が促され、実際にそうなった。そして何かを知りたいという意志、つまりは「知への意志」が、学問としての「性の科学」を誕生させた。フーコーはこのような全体的眺望・見取図を提示し、第二章以降、それを具体的に論じていきます。
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そこで第二章「抑圧の仮説」、まず「1 言説の扇動」です。
この第二章では、いま述べた「抑圧の仮説」が具体例に即して検証されます。フーコーが最初に注目して論じるのは、中世の修道院での「告解」です。告解とは、修道僧たちが自分の行いや特に心の内を司祭に告白して懺悔する行為であり、その中心をなすのは性をめぐる事柄でした。当初、性の告白は修道院・教会の中に限られていました。しかし一七世紀以降、社会に生きる万人に適用され、告白の形態も多種多様になっていきます。教会・修道院での告白自体が多様になり、以下をはじめとするさまざまな領域でも、性に関する問題が語られるようになるのです。
まず、性はポリス(内務行政)の対象となり、人口問題と結びつけられます。また、小中学校の学寮・寄宿舎で少年たちの性が黙認しえぬ問題となり、性教育や性に関する調査が行われます。さらには、刑事裁判や精神医学や臨床医学において性がやはり不可避の問題になり、盛んに語られていきます。これらは性を否定的に扱って抑圧しているようでいて、実は否定的ではあれ積極的に語るように仕向けているというのです。
「人口問題」との関係から具体的に見てみましょう。性行為は男女の性愛の問題ですが、その一方、生殖・出産の問題でもあります。しかも、生殖・出産は夫婦間や家族内の問題にとどまらず、国家からすると人口の問題に、ひいては国力の問題になります。近年の日本では少子化が憂慮されており、人口の多寡が経済力・国力と関連づけられていますが、フーコーによれば、既に一八世紀にはそうした認識が政策に導入され、さまざまな調査や議論がなされました。すなわち、出生率、結婚年齢、出生が正当か不倫か、性交渉の早熟さや頻度、独身生活や禁欲の作用、避妊法の影響等々です。こうして国家は時に産児奨励や産児制限を指導しました。このように国家は市民の性を掌握し統御せねばならず、市民は性をみずからコントロールしなければならない。ここにおいて性は、抑圧されるどころか、盛んに駆り立てられているというのです。
次に、「学寮」と「学校」の問題です。この点に関してフーコーは、教室の空間や机の形態を挙げていますが、具体的な説明を加えていないため、いま講義が行われているこの教室のことを考えてみましょう。実は、講義を始める前に、私と講義主任の二人で机と椅子を並べ替えました。最初は大きなロの字型の配置だったのですが、私が話しやすいように、通常の配置、つまり皆さんと私が対面になるようにしました。すると、失礼ながら、私は皆さん一人ひとりを監視できるようになる。私の話がきちんと届いているか、わからないような顔をしているか、飽きた表情が出ていないか、話が心に染み込んでいるか、これらを確認できるのです。つまり、小中高校の教室内の配置というのは、常に教員が生徒を監視できる形態になっているのです(対面である以上、実は教員も生徒から監視されているのですが)。フーコーからすると、一八世紀の教室の構造は性的欲望を管理・抑制することにつながっているのだろうし、机や椅子の形態にしても性的な刺激を与えないように工夫がこらされていたのでしょう。
学寮における中庭の配置も同様です。一八世紀の学寮で最も警戒された少年問題は、マスターベーションの過多と同性愛でした。中庭での休息時間にそうした行為がなされないように、たぶん監視からの死角ができないように、注意が払われました。寄宿舎の寝室の仕切り壁やカーテンの有無にしても同様です。これらが、教育者によって、行政官によって、親によって、徹底的に考えられ、教育されたのです。そしてその結果、性は子供たち自身によっても語られるようになったのです。つまり、性は禁忌としてではあっても積極的な論題となり、子供は性の言説の網の目の中に組み込まれたのです。さらには、刑事裁判、精神医学、臨床医学においても、同種の事態が生じました。フーコーは、一七世紀から一八世紀にかけてのヨーロッパの状況を次のようにまとめています。
むしろそこ〔性をめぐる当時の状況〕に見なければならないのは、これらの言説が成立する場の拡散であり、それらの形態の多様化であり、それらを結びつけている網の目の錯綜した展開なのである。(44頁)
しかも、再確認すると、性の言説をめぐって重要なことは、性を禁忌の対象と断じることで、かえって積極的に語られるようになったという逆説です。フーコーはこの事態を独特な修辞的表現でまとめています。
近代社会の特徴とは、性をして闇の中に留まるべしと主張したことではなく、性について常に語るべしとの使命を自らに課したことである。性を秘密そのものとして評価させることによってだ。(46頁)
以上のような時代にあって、さらに生じた特徴的な事態があります。〝倒錯した性〟がやはり積極的に語られるようになったことです。それをテーマにしたのが第二章の「2 倒錯の確立」ですが、その出だしでフーコーはこう述べます。
我々の時代〔これは特に一九世紀以降のことを指します〕は、性行動における様々な異形性の秘儀伝授の時代であった。(48頁)
ここでフーコーが「異形性」として具体的に挙げているのは、男色、同性愛、不貞、両親の同意なき結婚、獣姦、半陰陽〔両性具有〕、近親結婚、修道女の誘惑、サディズム、死姦、性的放埒、自己色情狂等々です。このような人々に対して、精神医学からは、「道徳的狂気」、「生殖神経症」、「生殖感覚の錯乱」、「心的不安定」といった烙印が押されたのですが、フーコーによれば、そこで行使される権力の機能は、次のような単なる禁止とはまったく異なる四つの操作です。
①外見上は〝倒錯した性〟をさまざまな形で堰き止めているようでありながら、個々人の周囲に〝倒錯した性〟の侵入口を無数に設えること。つまり、「やってはいけない」と防御策をさまざま置くのだが、その設置自体が人々に対する〝倒錯した性〟の侵入口の構築になっているということです。②一九世紀になると、精神医学は先の倒錯に新たなものを多々加えます。「露出狂」、「呪物崇拝症」〔フェティシズム〕、「動物愛好症・対動物色情狂」、「自己・単独性欲症」、「視姦愛好症」、「女性化症」、「老人愛好症」、「性美学的倒錯者」、「冷感症」等々です。これらの分類と命名は、そうした性的欲望の排除ではなく、新たな性的欲望を産出してその存在を確固たるものにしていることに他ならない。しかも、それらを現実の社会に撒き散らし、個人の内部に組み込んでいるというのです。③親と子、大人と少年、教育者と生徒、医師と病人、精神科医と患者・性倒錯者、これら両者の間で、性をめぐる対決と相互補強がなされている。この点に関してフーコーは次のように述べています。
〔性に関するさまざまな管理と言説は、〕快楽と権力という二重の推力=衝動をもつメカニズムとして機能しているということなのだ。質問し、監視し、様子を窺い、観察し、下までまさぐり、明るみに出す、そういう働きをする一つの権力を行使する快楽である。そして他方には、このような権力をくぐり抜け、その手を逃れ、それらをたぶらかし、あるいはそれを変装させなければならないが故に興奮するという快楽がある。自らが追い回している快楽によって侵入されることを諾う権力と、そしてそれに対峙するようにして、自らを誇示し、相手の眉をひそめさせ、あるいは抵抗するという快楽の中に自らを主張する権力がある。籠絡と誘惑であり、対決と相互補強である。(58頁)
「いけないことだ」と執拗に禁圧する権力の快楽がある一方、禁圧される側の子供、生徒、少年、病人、性的倒錯者も、そうした権力から巧妙に逃れ、新たな戦術でもって対抗することで、快楽を得る。このような両者の対決が、快楽と快楽が折り合わされる形で相互補強され、性の問題が膨れ上がっていった。それはひとつのゲームであり、そのゲームから両者とも降りることができなかった、とフーコーは見るのです。
一八世紀から一九世紀にかけて、こういう形で性をめぐる権力が広がっていった結果、単なる禁止とは異なる④(第四)の操作が登場します。フーコーはそれを「性的飽和の装置」と呼びますが、具体的には、近代社会が正当な性行動を異性愛の一夫一婦制に限定したことです。しかし、この限定によって、多種多様な性的欲望の変種がかえって呼び起こされ、増殖され、固定されることになりました。
以上が「異形性」ないし〝倒錯した性〟に対する四つの操作ですが、フーコーはそれらの確認をもとに、「抑圧の仮説」は放棄されねばならないと考え、こうまとめています。
局部的には禁止の手続きに支えられているとはいえ、法とは非常に異なる装置が、連鎖的なメカニズムの網の目によって、特殊な快楽増殖と変種的な性的欲望の多様化を保証しているのだ。(62-63頁)
話を第三章「性の科学」に進めます。フーコーは、第二章で精神医学に関して述べた内容を敷衍し、性の言説の多様化・拡散・増加によって性が科学化(学問化)されたと考えます。その際、性に関する新たな科学として二つが挙げられます。一つは「生殖の生物学」あるいは「生殖生理学」と呼ばれるものであり、もう一つは「性医学」「性行動の医学」「性の科学」と呼ばれるもの。フーコーが重視するのは、もちろん後者の「性の科学」と総称されるものです。ここで重要な点は、性が科学化されることで、最終的にその真理が隠蔽されるにせよ、性は科学的な「真理(-偽)」の問題になったということです。科学とは真理を探究する学問ですが、性がまさに真理の問題になったというのです。
この事態をこれまでの話と結びつけると、あらためて「告白」が浮上します。なぜなら、少なくとも中世以来、「告解」における「告白」は、真理を獲得する儀式の一つだったからです。告解においては、本当の自分、自分の真理を、正直に告白することが求められていたのです。そうすると、「拷問」は現代の私たちから見れば残酷なもの、いけないものだとされていますが、告白を手助けする手段となります。自分の真理をうまく告白できないとき、暴力を加えて真理を引き出してあげる。そのように拷問は告白を導く支えでもあったのです。
かくして一八世紀以降、告白がさまざまな場に広がっていきます。その結果、性に関する真理を産出・獲得しうる告白も広がりを見せます。子供と親、生徒と教育者、患者と精神病院医、犯人と鑑識人、これら両者の間で真理探究の告白が一般化していくわけです。告白の形態も、修道院での告解だけではなく、尋問や取調べ、病院での診察、自伝的記録、誰かに手紙で示すこと等々と多様になり、これらが特に一九世紀以降、医学や精神医学、教育学などの中で行われました。フーコーはそれらをまさに「〈告白〉という科学」と呼びますが、その代表的なものが「性の科学」であり、中心人物がフロイトに他なりません。
以上の全体動向に対してとるべき姿勢を、フーコーは次のようにまとめています。
一般的に認められている抑圧という事態や、また、我々が知っていると想定するものを基準に計られた無知から出発するのではなく、知を産出し、言説を増加させ、快楽を誘導し、権力を発生させるこれらの積極的メカニズムから出発し、これらのメカニズムがどのような条件において出現し、機能するのかを追い、これらのメカニズムとの関係で、それと不可分の禁止や隠蔽の事実が如何に分配されるのかを探究しなければならぬ。(96頁)
つまり、なされてきたのは単なる禁止ではない。禁止と見せかけられているものがどのような形で広がっているのか、それがいかなるメカニズムで、どういう場でなされてきたのか、それを徹底的に探究していかなければならない。そうフーコーは述べているのです。
ここで『知への意志』の最初の部分に戻って、これまでのフーコーの考察と関連づけてみましょう。フーコーは「抑圧の仮説」に対して三つの問いを発していました。一つ目は、「性の抑圧は、歴史的に本当に明らかなことなのか」。これについてフーコーはここまでの考察で、〝明らかではない〟と語ったのです。二つ目の問い、「我々の社会で働いている権力の仕組みは、ひとえに抑圧的なものなのか」。これに関しては、〝たしかに抑圧的なものではあるけれども、抑圧を通じて人々を駆り立て、権力の中に取り込んでいる〟、フーコーはそう論じました。最後に三つ目の問い、「抑圧に対する批判的言説は、真に批判的といえるものなのか」に関しては、フーコーは、〝いや、そうではない、抑圧に対する批判的言説は権力を批判することによって、相互補完的に権力をさらに肥大化させている〟と捉えたのです。
フーコーは、以上の内容をさらに本格的に研究することを、次の第四章で宣言します。そしてこれまでの考察を踏まえて、今後の研究の目的、方法、探究すべき領域、時代区分について、その詳細な見取図を示すことになります。ちなみに、『性の歴史』にはいま扱っている第一巻『知への意志』(一九七六年)以降、第二巻『快楽の活用』(一九八四年)、第三巻『自己への配慮』(同年)、第四巻『肉の告白』(二〇一八年)が発行されましたが、この『知への意志』の執筆時点では、かかる見取図をもとに続巻を書く予定だったのです――実際に刊行された続巻は、大きな路線転換のもとに執筆されたものでした。
さて、第四章「性的欲望の装置」の「1 目的」において、フーコーは「権力の〈分析学〉」を構築することを標榜します。では、「権力の〈分析学〉」とは何か。
それを把握する上でまず重要なのは、そもそも「権力は常に法律的権利の形において行使されるものだ」(115頁)という、フーコーの記述です。つまり、一七世紀以前、権力は王・君主が上から下へと一方的に振るうものであったが、それは法律によって保障された権利に基づいて行使されていた。しかし、一七世紀以降の権力を考える際は、そうした旧来の前提から脱却しなければならない。フーコーはそう考えたのです。
では、どのような新たな視座が必要なのでしょうか。フーコーは、「人間の生命を、人間を生きた身体として引き受けてきた」(116頁)新たな権力の考察に向かうことだ、と明言します。あるいは、こうも述べます。「権力の新しい仕組み、すなわち、法律的権利によってではなく技術によって、法によってではなく標準化によって、刑罰によってではなく統制によって作動し、国家とその機関を超えてしまうレベルと形態において、〔生命と身体に〕行使されるような権力の新しい仕組み」(同前)の考察に向かうことだ、と。これらが「権力の〈分析学〉」に他なりません。
ここは非常に重要な箇所なので、再確認しておきましょう。すなわち、一七世紀以降の権力を考えるためには、従来のように法律に基づいた権利によって行使される権力から離れなければならない。そして、人間の生命と身体にかかわる新たな権力の考察に向かわなければならない。この学問姿勢をフーコーは「権力の〈分析学〉」と名づけ、強調しているのです。実は、この強調は例の〈生権力〉の示唆に他なりません。本書は翻訳版で約二〇〇頁ありますが、一一六頁まできてはじめて〈生権力〉の実質的内容が顔を出したのです。
以上のような「権力の〈分析学〉」では、あらためて〈性〉が考察対象として掲げられます。ただし、「権力の〈分析学〉」であるからには、「一見、我々の生と身体のうち最も禁じられたものの一つである」(117頁)性について、権力が接する仕方・メカニズム・戦術・装置を分析することが、具体的な目的となります。要は、「法なしで性を、王なしで権力を考えること」(118頁)です
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では、「権力の〈分析学〉」において、「法なしで性を、王なしで権力を考えること」とは、具体的にはどのような考察方法なのでしょうか。こうして本書は第四章「2 方法」に入ります。
その要点は、性に関しても権力を次のように捉えてはならない、ということです。すなわち、権力に「局地的中枢」は存在するにしても、権力を、国家権力などの大権力として、暴力とそれへの隷属として、一つの集団によって上から下へと一方的に放たれるものとして、決して捉えてはならないということです。象徴的な言葉として、「権力は〔上からではなく〕下から来る」(121頁)、とフーコーは述べています。つまり、権力の成立には、支配に対して抵抗する側も協働していると見るのです。
しかし、このような説明では、具体的にどうしたらよいのかわかりません。つまるところ、権力の把握にはいかなる方法が必要だとするのか。それは、権力を特定のまとまりをもった実体としてではなく、さまざまな権力関係として、いわばシステムとして捉えることです。種々の人々や事柄が織りなす日常世界の中に、すなわち、親と子供との間に、教師と生徒との間に、医者と患者との間に、精神科医と精神障害者・性倒錯者との間に、犯人と鑑識人との間に、微細な権力関係がさまざま存在する。そうした「力関係」(132頁)が無数に遍在しクロスする中で、政治的権力も機能している。この力関係が生じる場の徹底分析こそが向かうべきところだと、フーコーは考えるのです。
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つづく第四章「3 領域」で、フーコーは、性に関して分析すべき対象は「性的欲望の装置」の歴史だとします。まず、「性的欲望の装置」とは、性的欲望を抑圧すると同時に扇動し喚起するネットワークのことです。その上で、分析すべき具体的な対象は、キリスト教的な肉欲を出発点とした「性的欲望の装置」の形成史、特に一九世紀に大々的に展開した次の四領域における「性的欲望の装置」です。
①女性の身体が隅から隅まで性的欲望が充満したものとして見なされるようになったこと(「女性のヒステリー化」)。ここでフーコーは、女性の身体の多面性に着目します。つまり、出産して社会的に人間を増やすものとしての女性の身体であり、子供に対する母親としての身体であり、夫に対する妻としての身体です。②子供の性的欲望が教育の対象になったこと。先ほど述べたように、マスターベーションと同性愛について、禁圧教育がなされたのです。③夫婦間の性(性行為)が個人的な問題、夫婦の性愛の問題にとどまらず、人口問題に拡張したこと。つまり、夫婦の性が生殖能力と見なされ、社会的に管理されるようになったことです。④大人の性倒錯が矯正の対象となり、科学的な精神医学の中に組み込まれたこと。以上の四領域における「性的欲望の装置」の展開を研究対象にすることを、フーコーは構想するわけです。
『知への意志』で最も重要だと思われる第五章に入ります。最初に第五章の全体構成を確認し、その結論部分から先に解説します。そしてその上で、〈生権力〉の問題について詳しく話していきます。
第五章を読みはじめると、それまで長きにわたり「性」(特に「性的欲望」)について詳述してきたフーコーが、唐突に生(命)・身体・死・権力について語り出したように感じられがちです。しかも、その論述はどんどん深みに入っていきます。しかし、それは唐突なことではありません。顧みれば、フーコーは第四章「1 目的」において、「権力の〈分析学〉」を提唱し、次の旨を述べていました。すなわち、〝「権力は常に法律的権利の形において行使される」という大前提から脱却し、「人間の生命を、人間を生きた身体として引き受けてきた」新たな権力の考察に向かうこと〟、これを目的とするのだと。まさに、この目的の遂行に向かったのが第五章なのです。
このような位置づけのもとに、第五章では、〈生権力〉という新たな権力形態(システム)について詳述され、そして性の問題に結びつけられます。『知への意志』の真骨頂たるこの部分は後ほど解説しますが、私たちが看過してはならないのは、フーコーが本書の壮大な考察をいかに結んでいるのか、より正確には、将来へと開く形でいかにいったん閉じているのかです。そこで、長いものもありますが、終局面での重要な主張を三つ引用してみましょう。
性的欲望の装置はその最も本質的な内的機能原理の一つを生じさせた。すなわち、性に対する欲望である。性を所有したいという欲望、性に到達したい、性を発見し、解放し、言説に表し、真理として表明したいという欲望である。それは「性」そのものを欲望可能なもの[欲望の対象となり得るもの]として作り上げた。そしてまさにこのような性の欲望可能性が、我々の一人一人をして性を知るべしとの命令に、性の掟=法と権力とを明るみに出すべしとの命令に結びつけるのだ。まさにこの欲望可能性が、我々をして、我々はあらゆる権力に逆らって我々の性の権利を主張しているのだと信じさせているものであるが、しかし事実は、我々を性的欲望の装置に結びつけているのであり、この装置=仕組みが、我々の深層から、我々が自分自身の姿をそこに認めると信じている一つの幻影のようにして、性の黒々しい輝きを立ち昇らせてきたのである。(198頁)
性を肯定すれば権力を拒否することになる、などと考えないことだ。そうではなく反対に、性的欲望という全般的な装置の脈絡を追うのである。もし権力による掌握に対して、性的欲望の様々なメカニズムの戦略的逆転によって、身体を、快楽を、知を、それらの多様性と抵抗の可能性において価値をあらしめようとするなら、性という決定機関からこそ自由にならねばならない。(198-199頁)
この〔性的欲望の〕装置の皮肉は、そこ〔性の解放etc〕に我々の「解放」がかかっていると信じ込ませているということだ。(202頁)
これらを一言でいうなら、抑圧に抗して性を探究し性の自由を言挙げしてもダメだ、そこにこそ罠があるのだ、フーコーはそう総括しているのです。
さて、第五章の〈生権力〉について論じた部分に話を戻します。〈生権力〉とはいかなる権力なのでしょうか。そして、〈生権力〉は、これまで語られてきた性の問題といかに関係するのでしょうか。著名な一文の解読を通じて考えていきたいと思います。
死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた。(175頁)
いったい、この一文でフーコーは何を述べているのか。まず、近代(フーコーによる時代区分の名称では「古典主義の時代」)の前後で、具体的には一七世紀あたりを境に、権力形態が大きく変わったということです。文章の前半部分が近代以前の権力形態を、後半部分が近代以降の権力形態を、それぞれ表しています。つまり、近代以前は、人間を積極的に生きさせる科学的な医療も福祉制度もありませんから、君主(王)は生に関しては臣民を「生きるままにしておく」だけでした。したがって、君主が実質的になしうるのは、他者を殺害(死刑に)する権利を独占して実際に「死なせる」こと、あるいはその権利を突きつけて人々を従わせることでした。それが「死なせるか生きるままにしておくという古い権利」という言葉の意味です。ここで「権力」ではなく「権利」という言葉が使われている理由は、今の説明の仕方でわかると思いますが、わからない場合は、今日の講義の前半部分で話したことを思い出してください。すなわち、近代以前においては、王・君主は法律の権利に基づいて権力を揮ったため、「権利」という語が用いられているのです。
以上に対して、近代以降になると、「生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた」と述べられています。このうちフーコーが力点を置いているのは「生きさせる」権力という部分で、それはこう説明されています。「生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力」(173頁)だと。つまり、近代以前は人々を積極的に生きさせることはしなかったし、そもそもできなかったのですが、近代以降はさまざまな形で行うようになった。それが「生きさせる」権力であり、この新たな権力こそが〈生権力〉に他なりません。
近代以前の権力がいわば〈死権力〉(〝殺す権力〟、ないしそれを突きつけて従わせる権力)であるのに対して、近代に新たな〈生権力〉は、やさしい庇護の手を差し延べて生きさせてくれる権力であり、〝羊飼いの権力〟と呼んでもよいでしょう。身近な例を挙げれば、福祉制度です。私たちは現在、さまざまな福祉の恩恵に与っています。日本では国民皆保険もあり、(戸籍がある者は)医療費を全額払わずに医療の恩恵に浴することができる。しかし、そうした福祉・医療を通じて、私たちは国家によって、身体の中に、心の中に、介入されてもいるわけです。それと気づかぬまま、〝羊飼いの権力〟に支配されているのです。
たしかに、羊飼いは、羊に手を差し延べて、餌を与え、狼から護り、餌がなくなれば別の牧草地に連れていってくれるのですから、羊たちにとっては〝やさしき主〟です。しかし、羊飼いは単なる動物愛護者ではありません。自分たちの生活のために、羊たちに手を差し延べ、やさしく飼育しつつ管理しているのです。生命に対して手を差し延べてくれる〈生権力〉もまた同様です。
もっとも、フーコーによれば、近代に至って、権力形態が〈死権力〉から〈生権力〉へとすべて置き換わったわけではありません。「生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた」と述べているように、〈死権力〉は存続しており、〈生権力〉がしだいに中心をなしていくものの、その「裏面」ないし「相補体」としてピタリと貼りついている。近代にあって権力形態は全体としてそのように変わったと、フーコーは捉えたのです。
ただし、さらに注意すべきは、先の一文では〈死権力〉に関する表現もまた、近代以前と以後とで変わっていることです。すなわち、近代以前は「死なせる」であるのに対して、近代以後では「死の中へ廃棄する」となっています。いかなる意味合いなのでしょうか。
近代以前、人間は「生きるままにしておく」ことしかできない存在者、つまりは、ひたすら死へと向かう存在者でした。しかし、近代になると、そんな人間に庇護の手を差し延べ、積極的に「生きさせる」権力が現れました。つまり、死の側から生の側へと「投げる」、「押し上げる」権力が現れたわけです。しかし、そうした近代にあって、権力的な介入の方向を再び逆転させ、死の淵へと「投げ返す」。これが「死の中へ廃棄する」ことの意味です。このような説明の後では、むしろ、「生きさせるか死の中へ投げ返すという権力が現れた」と直訳したほうが、実感が湧くかもしれません。
ともあれ、以上の意味で、一七世紀あたりを境に、「死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現れた」のです。フーコーによれば、この中の「生きさせる権力」が、近代に特有な〈生権力〉に他なりません(厳密にいうと、「死の中へ廃棄する権力」を裏面に備えた「生きさせる権力」が〈生権力〉です)。
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以上のような〈生権力〉には、大きくみると二つの成分があります。一つは、人間を個人として調教・訓育するもので、一七世紀に登場しました。それは前著『監視と処罰』で論じられた「規律権力」と同様のものと見なせますが、フーコーはこの『知への意志』では「人間の身体の解剖政治」と呼んでいます。そして、その具体的な場として、学校、学寮、軍隊、工場などを挙げています。現今の日本に引き寄せて考えてみましょう。
私たちは、小学校から中学校まで義務教育を受けてきました。お金を支払うことなく、国家が教育をしてくれるのです。非常にありがたいことです。しかし、どういう教育がなされてきたのでしょうか。もちろん、基本的にはやさしく手を差し延べてくれたわけですが、しかし、国家にとって、体制にとって、都合のよい教育がなされてきた。国家・体制に異を唱える教育は決してなされないし、それに繫がりそうな場合は〝偏向教育〟のレッテルが貼られます。つまり、ここでもまた、それと気づかぬまま〝羊飼いの権力〟が作動し、私たちの内面が操作的につくられてきたわけです。
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では、〈生権力〉のもう一つの成分とはどういうものでしょうか。それは「人口〔集団〕の生政治」と名づけられ、人間を個人としてではなく、集団(種)として、管理・調整するものです。一八世紀(の後半)に登場しました。具体的には、公衆衛生の徹底、国民全体の死亡率、出生率、健康水準などの管理・調整が挙げられており、生活の仕方や移住も対象になっています。
これらも、今日の国内外の状況を想い起こせばわかるはずです。日本ではこの四半世紀にわたって「少子化」が憂慮され、「少子化対策基本法」の制定(二〇〇三年)や少子化対策担当大臣の設置(二〇〇七年)など、種々の対策が講じられてきました。
近年では特に岸田政権のときに少子化の問題が頓に叫ばれ、子供が三人以上いる(三人以上設けた)家庭には、大学の学費を〝無償化〟する方針が打ち出されました。この動向は、フーコーに即して考えれば、「人口〔集団〕の生政治」の典型に他なりません。また、一見すると、「移住」が挙げられていることの意味がわかりにくいかもしれません。その場合は、アメリカのトランプ大統領の移民政策や、ヨーロッパで移民の制限・排斥を謳う〝右派〟政党が躍進していることを想い起こせば合点がいくでしょう。総数が少なくない人間の移動は国家にとっては大きな問題であり、特に一八世紀以降のヨーロッパでは管理・調整の対象なのです。
〈生権力〉には以上のような二つの成分、つまり「人間の身体の解剖政治」と「人口〔集団〕の生政治」があるわけです。ただし、次の点は誤解されがちなので、注意してください。すなわち、私は誤解を避けるために「成分」と呼んできましたが、この両者は実体として存在するのではありません。そもそもフーコーが考える〈生権力〉とは全体的なシステムなのであり、それゆえフーコー自身は、「その二つは相容れないものではなく、むしろ、中間項をなす関係の束によって結ばれた発展の二つの極」(176頁)と表現しています。つまり、「人間の身体の解剖政治」と「人口〔集団〕の生政治」とは連動しているのであり、しかも、両者とも無数の微細な権力関係の総体のごときものなのです。
★こまつ・よしひこ=東京大学客員教授・科学史・生命倫理学。東京大学大学院博士課程単位取得退学。博士(学術)。著書に『「自己決定権」という罠――ナチスから新型コロナ感染症まで』『脳死・臓器移植の本当の話』『生権力の歴史――脳死・尊厳死・人間の尊厳をめぐって』など。
書籍
書籍名 | 知への意志 |