2025/09/12号 6面

古代ギリシア人の歴史

古代ギリシア人の歴史 桜井 万里子著 栗原 麻子  本書は、ミケーネ時代から古典期の終わりまでを対象とする通史である。ヘロドトス、トゥキュディデス、クセノフォン以来の政治史・国際関係史の枠組のもと、環境史にはじまり、ミケーネ時代からポリスの誕生、植民活動、各地域の有力者によるエリート支配と貴族階層の成立、四大祭典、民主政の成立とペルシア戦争、ペロポネソス戦争と戦後復興、マケドニアの侵攻を経て、前322年ラミア戦争での敗北へと至るギリシア世界の歴史が、アテナイを中心として描かれる。その過程で宗教史、女性史、家族史といったこれまでの仕事に立ち戻り、プロクセニア制度やエフェボス制度など社会文化的な背景にも踏み込んでいく。  概説的な通史では、読者は一つの完成したストーリーを与えられ、その背後にある学界での論争は伏せられることが多い。それに対して本書では、重要な論争を平明かつ端的に紹介しながら結論が示される。例えば著者は、貨幣経済の普及が前6世紀中葉以降に引き上げられたことを受けて、前6世紀前半のアテナイ指導者ソロンの改革について見直す(第8章)。零落して奴隷となったヘクテモロイ(6分の1)と呼ばれる農民は、これまで説明されてきたような没落した土地保有市民ではなく、交易の活発化を受けて、富裕者が未開墾の公有地を占有し、地代を徴収して耕作させた小作人であるとする説を採用する。その場合、ソロンが何のために土地の境界石を取り払ったのか、「重荷おろし」の内容について次なる疑問も生まれるであろう。  僭主ペイシストラトスの支配が、民衆との「共犯関係」のもとに成立していたとの指摘も興味深い(第9章)。彼は農民に資金を貸し出す「勧農政策」を行った。その代わり農産物に10分の1税を課し、産業振興による国庫の増収を図ったのである。彼はまた農民の武器を没収した。太閤検地とは異なり、アテナイの場合、「刀狩」は身分の分化を伴わない。民衆の力は依然として強く、民衆によるアクロポリス包囲の逸話が繰り返し現れる。イソノミア(法のもとの平等)が、民衆を惹きつけるためのクレイステネスの旗印となったという指摘も重要である(第11章)。  「悲劇、喜劇の競演」(第21章)では、同時代のアテナイ社会における中心市およびデーモス単位での演劇祭の重要性と宗教儀礼としての性格が語られる。ただし近年注目されるアテナイ外での上演には触れられない。副題である「文芸的公共空間」は、J・ハーバーマスの概念をアテナイの劇場にあてはめるもの。アテナイにおける公共の言論の問題は、ギリシア哲学や文学を理解するうえでも重要である。どのような社交空間が、それらの文芸活動を受け止める公論の場として想定されているのか、地方の劇場やアゴラ、街路、さらには私宅での友人同士の閉鎖的な会合まで、言論空間の性格についての検討が必要となろう。  ペロポネソス戦争敗北後の目覚ましい経済復興(第24、25章)も近年の学界が注目するところである。著者は貿易総額が毎年15パーセント増を示していると計算する。アッティカ銀貨の信頼度を保つための立法、商業裁判の導入のような経済振興政策に見られるように、商工業の重要性も認識されていた。そのほか法の改廃手続きの整備(ただし全ての法が碑に刻まれたかどうかについては留保したい)や、敗戦によって崩壊したデロス同盟に代わる第2次アテナイ同盟の結成(第28章)なども前4世紀の再評価につながる。前4世紀の時代像は衰退から発展へと大きく転換しているのである。  読者は頁を開くなり、まるで物語を読むように、ギリシアの色鮮やかな歴史絵巻の中に引きずり込まれるであろう。著者は伝統的な時代区分に従ってラミア戦争で筆を置く。ヘレニズム世界への展望が気になるところであるが、まずは最新の研究を取り入れて歴史像を組み直す大事業が世に出たことを寿ぎたい。(くりはら・あさこ=大阪大学大学院人文学研究科教授・西洋古代史・古代ギリシア史)  ★さくらい・まりこ=東京大学名誉教授・古代ギリシア史。著書に『古代ギリシアの女たち アテナイの現実と夢』『古代ギリシア社会史研究』『ソクラテスの隣人たちアテナイにおける市民と非市民』『ヘロドトスとトゥキュディデス 歴史学の始まり』『いまに生きる古代ギリシア』など。一九四三年生。

書籍

書籍名 古代ギリシア人の歴史
ISBN13 9784887084452
ISBN10 4887084455