河野 靖好著『谷川雁の黙示録風革命論』(月曜社)を読む
渡邊 英理
二〇〇〇年代頃から学術界では一九五〇年代が大きな注目を集め、戦後サークル文化運動の再評価が行われた。『サークル村』の中心人物である谷川雁への注目も、その機運と共に高まった。二〇〇九年の岩崎稔・米谷匡史編『谷川雁セレクション』Ⅰ・Ⅱ(日本経済評論社)の刊行を皮切りに、『谷川雁 詩人思想家、復活』(KAWADE道の手帖)、松本輝夫『谷川雁 永久工作者の言霊』(平凡社新書)、佐藤泉『一九五〇年代、批評の政治学』(中央公論新社)など、谷川雁関連本の出版が相次いだ。近年では、坂口博の充実した解題を付して谷川雁の著作が月曜社から復刊されている。
とはいえ、谷川雁の研究批評が大きく進展しているかと言えば、必ずしもそうとは言い切れない。学術界に目を向けてみると、谷川のパートナーであった森崎和江の研究は陸続と発表されているのに対し、谷川については研究論文等もあまり見かけず、少なくとも谷川雁研究は活況とは言い難い。その理由は、おそらく今日伝えられる谷川の家父長制的でマチズモ的な態度にあるのだろう。フェミニズム的観点から谷川がやや敬遠されていると見るのは的外れではあるまい。今夏、『到来する女たち 石牟礼道子・中村きい子・森崎和江の思想文学』(書肆侃侃房)を刊行した評者もまた、谷川の思想に大きな霊感を得ていると同時に、フェミニズム的観点から谷川に対する批判意識も持っている。そうであるので、本書『谷川雁の黙示録風革命論』の目次に、「『闘いとエロス』から谷川雁を救い出す」とあるのを見て、正直、大きな危惧を持った。森崎のフェミニズム的な異議申し立てに対して、男性中心主義的で性差別的な反論がなされているのではないか、と懸念したのである。冒頭部の記述にはその色彩も感じられ憂鬱になりかけたが、しかし、結果的にこれは杞憂であった。本書でなされるのは、谷川雁の本文を失われた同時代状況に接続して精読する、極めて精緻なテクスト・クリティークの作業である。谷川とともに大正闘争を闘った同志でもあった著者の河野靖好は、谷川の文がおかれていたはずの重要な同時代文脈を復元し、そのコンテクストの中で言葉を丹念に読み解き、これまで開かれることのなかった谷川雁のテクストの襞に分け入り紐解いていく。
『サークル村』時代の谷川の文にとって重要な同時代文脈として、河野が指摘するのは、一九六三年一一月に三池炭鉱で発生した炭塵爆発事故である。『サークル村』は、文化運動を軸にした第一期に対し、第二期では大正炭鉱闘争への傾斜が強く見られる。谷川雁は、河野や杉原茂雄、小日向哲也らとともに大正行動隊を結成し、その後、退職者同盟へと進んでいく。大正行動隊とは、三池闘争を「敗北」の結末に導いた旧来の労組を批判する大正炭鉱の労働者が、それとは別個に結成した「戦闘的第二組合」である。資本や国家との決定的な対決を回避した、微温的で体制翼賛的とも言える労組幹部たち。大正炭鉱の労働者は、旧来的な労組幹部の姿勢を批判し、三池闘争の敗北の乗り越えを目指す形で「戦闘的第二組合」たる大正行動隊を結成した。このような意味での三池闘争の「敗北」の乗り越えという文脈は、従来から指摘されている。しかし、谷川にとって、それと同じく、あるいはそれ以上に重要な文脈が、六三年一一月の三池炭鉱の炭塵爆発事故であった。そう河野は指摘する。なぜなら、谷川は「この事故こそ三池炭鉱の労働者と筑豊の坑夫が、日本の政治体制全体に対して決起する最後の機会」と考えていたからだ。そのように考えた谷川の思想と実践、そして、その「決起」をなしえなかったことへの「絶望」を踏まえて、河野は同時期の谷川のテクストを読み解いていく。
河野の精読は実に示唆に富む。「おれは村を知り 道を知り/灰色の時を知った」が最初に読んだ谷川の「詩句」であり、この「詩句」がはらむ謎が谷川と自分の人生を結びつけたという河野は、これは、「西方と東方の最高の思想を、同じ詩句で表現している驚くべき詩句」だという。その根拠は本書の中で詳細に証されているので、ぜひご一読いただきたい。谷川の詩の一言一句を詩と革命という線で意味づけていく河野の読解は圧巻だ。『サークル村』のメンバーであった加藤重一がことに好んだ谷川の詩「異邦の朝」も本書では大切に論じられている。
散文の読解もすばらしい。ここでは、河野による卓抜の読解の一例として、谷川のいう「プロレタリア独裁」の意味の解明をあげておきたい。「Ⅰ」と「Ⅱ」、ふたつの部分からなる本書「Ⅰ」の第一部、第二部で、河野は「決起を呼びかけた」文章として二つ――『九州大学新聞』一九六三年一二月一〇日号に掲載の講演録「私のなかの〝死〟――三池の死者は我々のなかに孕まれていた」と、『人間の科学』一九六四年二月号(誠信書房)に掲載の「原基体としての労働者組織――三池の死者たちを撃つために」――を精読する。河野が「プロレタリア独裁」の意味を浮上させるのは、その作業を通じてだ。
詩人である谷川の語は二重の意味を帯びる。河野によれば、谷川における「プロレタリア」とは、「資本主義社会のイデオロギーに規定された、その労働力を、「資本」という社会的「価値」に転換する「道具」としての労働者」であると同時に、そのように「「自然的存在としての人間」という「絶対的価値」を奪われているがゆえに、「自然的存在」として生きようとするならば、必然的に自分を押しつぶそうとする「一切の抑圧」と不断に戦い続けなければならない「労働者」」という二重性にある。そして谷川が「プロレタリア独裁は革命の目的だ」という時、そこでの「プロレタリア」は、「社会体制から意識においても存在においても解放された「はたらく人」」を意味する。またその時の「独裁」とは、「独裁者が人民を強制的に支配するという意味でも、労働者階級が他の階級や階層を強制的に支配するという意味」でもない。「労働者が個人として考え、判断する」こと、すなわち「はたらく人」が独自の裁量で、自らの物差しでもって思考し行動することなのだ。
この谷川の「プロレタリア独裁」の含意は、本書「Ⅰ」の第三部、ソヴィエト国家と帝国主義を「瀕死かつ最高の段階」と評したレーニン――谷川はレーニンと毛沢東だけを「真の革命的組織者」として認めていた――をめぐる谷川の文の読み解きにおいてもさらに深く展開される。谷川は、レーニンの「瀕死かつ最高」の言葉に学び、六三年の三池炭鉱で発生した炭塵爆発事故とそれを取り巻く資本主義と国家とを同時に捉え、「ピンチこそチャンスに変える」行動原理にしようとした。紙幅の関係でその詳細に触れることはできないが、ぜひ、本書を読んでほしい。
巻末に本文を収録した「無の造型――私の差別「原論」」についても、谷川特有のユーモア、パロディやイロニーが紐解かれ、差別「試論」=「詩論」の含意が浮き彫りにされ秀逸だ。中上健次が谷川雁に深い敬意を抱いていたことは知られるが、中上が「無の造型」をいかに読みどのように受けとったのかも考えてみたくなる。本書を読む者は、谷川雁のテクストが開かれ、そこに潜勢していたクリティカルな思想と強靱な運動精神が顕現する稀有な瞬間の目撃者となるだろう。
本書は、谷川雁の思想と運動を後生の人々に手渡そうとする著者・河野の情熱によって紡がれている。評者は、その熱意に打たれ、本書のクリティカルな論述に多大な触発を受けた。そして、この水準で森崎和江の詩や文を読み解かなければならない、という強い思いに駆られた。ただ、同意できかねる点は残った。まず、本書では、『サークル村』時代の森崎の『無名通信』の活動を「分派活動」という趣旨の言葉で表現しているが、その表現は、大正行動隊の精神にはそぐわないようにも感じた。大正行動隊は、メンバーシップも執行部による承認を得るものではなく、本人が自分は隊員だと言えばそれはそのままメンバーであり、行動もまた自身がやろう、やりたいと思ったことを自ずからやる脱中心的でアナーキーな運動体だった。「分派活動」という言葉は、大正行動隊のメンバーであった河野には似つかわしくない批判語ではないだろうか。また森崎が『闘いとエロス』の中で描いた、室井腎が契子に、「君は何をしようとしているのだ」と問い、執拗に追及する場面に対する谷川の側からの解釈と反論についても同意できなかった。河野は、それは「弟子が日常的な感覚をこえた「真の実在世界」に覚醒する」ために、時に打擲も辞さない「禅問答」のようなものだと述べるが、まさに、そのような身振りこそが森崎の批判の対象であっただろう。谷川雁は「知識人の理論的な意識を労働者に注入しようとする前衛党オルグ」ではなく、「労働者に語りかけ、労働者の〈感覚的認識〉を論理化して労働者に返すことで、労働者運動を前進させることを任務とする工作者」だと河野は言うが、その「工作者」にすら存在する家父長制的な位階制や性差別的な抑圧にこそ、森崎は異議申し立てをしたのではないだろうか。室井腎が労働者や女を「思弁の手がかり」とする行為のうちには、他者を客体化する抑圧の契機がほの見える。谷川の「工作者」の思想が重要であることは論を俟たないが、しかし、今日のケア論などからその限界も検討されてよいだろう。
また、谷川の三池闘争に対する「根源的な絶望」は理解したいと思うが、ならば、同様に、森崎が運動内部で起こったレイプ事件で感じた「根源的な絶望」を軽視すべきではないだろう。谷川の思考の中では、レイプ事件の加害者と被害者が同じ救済すべき死者とされるが、死者が別の死者に対して働いた加害性を看過しては真の救いに至ることはないのではないか。以上の点は、河野を非難し、谷川を断罪したいがために述べたのではない。谷川と森崎、二人の「絶望」の間の深い溝を、わたしたちがどのように考え、そこからどのような思想と実践がなしうるのか、をともに考えたいがために記した。階級とジェンダー、運動とエロスの相克は、この懸隔にこそ存在する。『サークル村』は、亀裂や対立をこそ、連帯の条件とした。その意味で、本書は、谷川と森崎、二人の「絶望」の間の深い溝をめぐって対話をはじめるための呼びかけの書だと考える。(わたなべ・えり=大阪大学大学院教授・日本近代文学・文芸批評家)
★かわの・やすよし=一九六〇年早稲田大学第一文学部哲学科に入学。安保反対闘争に参加。一九六一年、社会主義学生同盟「SECT6」派の結成に参加。一九六二年、大正炭坑争議支援の学生部隊として筑豊に居住。大正鉱業退職者同盟書記、部落解放同盟中間支部の書記などを経る。著書に『大正炭坑戦記』など。一九三九年生。
書籍
書籍名 | 谷川雁の黙示録風革命論 |
ISBN13 | 9784865032086 |
ISBN10 | 4865032088 |