2025/09/12号 4面

日中外交秘録

日中外交秘録 垂 秀夫著/聞き手・構成=城山 英巳 加茂 具樹  「書く」ことは自己の立場を明確にさせ、したがって自己をコミットすることである。  高坂正堯氏の名著である『国際政治』は、この一文ではじまる。国際政治に関心のある読者であれば一度は同書を手にしたことがあるだろう。垂秀夫氏が、近著『日中外交秘録』の終章において、「外交は国家の歴史を創造する作業であり、常に歴史を意識しなくてはならない」と記した意図は、恩師である高坂氏の言葉に外交官として応えようとしたのかもしれない。  本書は、一九八五年に中国語研修組(チャイナスクール)として外務省に入省し、以来、一貫して日本の対中国、台湾関係にかかわり、駐中国日本国特命全権大使に就任し、二〇二三年一二月に退官した、日本の対中外交にかかる政策決定サークルで活躍した垂秀夫という外交官の回顧録である。垂氏の在外勤務地は、北京、香港、台北に集中している。こうしたキャリアは上級職(当時)で採用された外務事務官としては異色である。本書を通読すれば明らかなように、このキャリアでなければ作り得なかった関係網が垂秀夫をつくり、本書を生んだ。  本書が語る日中関係は、経済と人的文化的交流の深化が発展的な関係を支えた時代が終わり、日中の国力の相対比が逆転し、東シナ海の海洋秩序をめぐって緊張の度が高まった時代の関係である。日本の対中外交は、緊張の管理と安定の維持のために、関係の発展に価値と利益を見出すためのナラティブの構築に努めていた。垂氏はその一翼を担っていた。本書は、後世、日本の対中外交を検証する際に必ず参照されることになる。  中国を理解し、日中関係の行方を展望するために必要なことは、その歴史的文脈の把握である。本書は数多くの重要な政策過程を語っている。基本的な理解は、外務省が公式ウェブサイトで発信している要人往来・会談の記録や新聞報道を精読すれば十分かもしれないが、本書の魅力は、その行間を読むための補助線を読者に示していることにある。  例えば、二〇〇六年の「戦略的互恵関係」の誕生の経緯である。  日中両国の首脳がいま、公式の場で日中関係を語るとき、その中心的な概念が「戦略的互恵関係」である。この言葉が日中関係史に登場したのは二〇〇六年一〇月に安倍晋三総理が中国を公式訪問した際に発表した「日中共同プレス発表」である。本書は、この「戦略的互恵関係」が誕生した経緯を示し、加えて日本がその意図を中国に伝えるための取り組みを語っている(二三五頁)。本書は(おそらく意図的に)詳細に紹介していないが、垂氏が政策広報として署名入りの解説記事を寄稿した雑誌の背景や解説文を読むと、北京、香港勤務時に垂氏が構築した関係網が、この戦略的コミュニケーションを支えていたことを知る。  また、二〇〇八年一二月に中国国家海洋局に所属する船舶が尖閣諸島周辺の日本の領海に侵入した背景に関する記述も興味深い。日本社会はこの事案を、中国の東シナ海における「力」による現状への挑戦の起点として整理している。本書は、領海侵入にかかる中国の政策過程の特徴を理解する手掛かりを示すとともに(二八三頁)、中国の行動が台湾の行動に触発された可能性を紹介している(四三一頁)。本書は、日本が台湾の良好な対日認識に満足している現状に警鐘を鳴らし、また日中関係と日台関係の互動という視座の重要性を提起していた。  この他、二〇一四年一一月の北京APECに合わせて、二年半ぶりの日中首脳会談が実現する直前に、日中両国が事務レベルで四項目の合意点を発表した。その経緯の説明は興味深い(四〇二頁)。また日中首脳の公式発言のなかから一度は消失した「戦略的互恵関係」が、二〇二三年一一月のサンフランシスコでの岸田文雄総理と習近平国家主席との会談で再提起された経緯の説明も現在の日中関係を理解するうえで重要な論点である(二六五頁)。  本書の意義は、垂秀夫氏の言葉を介した日中関係の記録の共有に止まらない。中国政治の現状分析のための視座を示している。読者は、著者の中国、香港、台湾に対する理解の深さに圧倒される。もちろんそれは情報量の多さに依るのではなく、そこに生活する人間への関心の深さ、その土地の多様性を把握しようとする情熱に裏打ちされている。中国を「中国」という大きな主語で捉えるのではなく、その人間と土地を理解しようとする精神が、垂秀夫という外交官を形作っていることを実感できる。  本書には魅力とともに期待も多い。本書は垂秀夫という外交官の視座を披露したものである。今後、読者は、著者との対話をつうじて、その記述を検証し、その理解を一層豊かにする楽しみを残しているはずだ。この期待に応えることは「国家の歴史を創る」仕事に従事した者の仕事ではないか。そうした意味において、多くの日中関係に関心をもつ方に読んでいただきたい。(かも・ともき=慶應義塾大学教授・現代中国政治)  ★たるみ・ひでお=立命館大学教授・中国問題研究家。一九八五年、外務省に入省。在香港日本総領事館領事、外務省大臣官房長などを歴任。二〇二〇年より駐中国日本国特命全権大使(第一六代)に就任し、二〇二三年一二月に退官。

書籍

書籍名 日中外交秘録
ISBN13 9784163919874
ISBN10 4163919872