2025/11/21号 5面

厨川白村

厨川白村 張 競著 千葉 一幹  日中比較文学文化研究のフロントランナーとして長らく活躍してきた張競が、厨川白村の評伝である本著を書く発端は、文化大革命だった。文革で学校が閉鎖されていた時期、手当たり次第に読んでいた本の中に、白村の著作があった。それを読んだ十五歳張競は、眠れなくなるほどの感動を覚えたという。  もちろん、本著の執筆意図は、張の思春期の経験にあるばかりではない。今日の日本では忘却された厨川白村も大正期には「知的流行の最先端」にいた評論家であり、中国においては魯迅を始めとして多くの文学者が傾倒し、「近代中国人に尊敬された日本人はほかに一人もいなかった」というほどの文学者だった。時代の寵児であった人物が瞬く間に忘却された理由を探ることは、「漂泊する近代人の精神世界」を知る手がかりになると言う。  張にとって思い出の作家に関する評伝を書く上で、彼が取った方法は、堅実なものだ。白村に関連する資料を出来うる限り収拾することだ。その成果は、たとえば、白村の通った小学校や中学校の正式名称の解明(大阪市公立盈進小学校・大阪尋常中学校)に示されている。この大阪尋常中学校は、現在の北野高校であり、そこには白村の成績表も残されていた。白村は二年生時に一度留年していた。三高では恩賜の銀時計をもらうほどの俊英も中学時代はむしろ劣等生だったのだ。  白村の家庭は、決して裕福ではなかったが、その有り様を示すために張は、厨川家の収入と白村が通う学校の学費や下宿費用などを詳細に辿り、白村の苦学生振りをあぶり出していく。  経済的困窮は、白村の交友にも影響を与えた。白村が東京帝大在学時、小泉八雲の退職が問題となる。学生たちは、人気のあった八雲の留任運動を始めたが、白村一人その動きに同調しない。その最大の要因は、経済的なものだった。運動の結果、大学を退学することになれば、学士の資格を得られず、就職もおぼつかなくなるからだ。  ただ、この八雲退職問題の際に白村が見せた、独立不羈、悪く言えば頑迷固陋な姿勢は、彼自身の資質にもよるものでもあった。白村は、帝大を卒業後、第五高等学校教授となる。講義で指名した学生が要領を得ない答えをすると、今日ならアカハラになりかねない辛辣な言葉を投げかけた。泣き出す者もいたという。白村が厳しく当たったのは学生のみではなかった。彼は、同僚にも痛烈な皮肉を遠慮なく発していた。三高在任中、白村はアメリカ留学を果たすが、そこでも多くの留学生から毛嫌いされていた。  こう述べると厨川白村は、人情の分からぬ朴念仁のように思われる。がそうではない。福地桜痴の孫娘で美貌の誉れ高くまた自由奔放な「新しい女」であった蝶子と白村の出会いと結婚そして結婚後の暮らしに至るまでの白村の様子は、情熱的である。教え子の三高生たちは、新婚の二人の自宅に出向き、連夜大声でからかったという。  こうした興味深いエピソードもさることながら、当時気鋭の売れっ子評論家だった白村の著作についても周到に分析されている。  白村の処女作である『近代文学十講』は、九〇版にまで及んだという。この著作が売れた要因を、張は、その構成の巧みさに求める。当時の文学史の本は、時代別、国別のものばかりで、この著作のように欧米文学全体を鳥瞰し、文学思潮の大勢を説く書籍はなかった。  その後も白村の出す書籍は話題を呼び、彼は売れっ子評論家となっていく。恋愛だけでなく、家庭の在り方や夫婦関係まで論じた『近代の恋愛観』は、多くの読者を獲得し、さらに白村の盛名を大きくした。  彼がそのような書き手になり得たのは、たゆまぬ努力と優れた洞察力・観察力に由来する。それはアメリカの留学経験を元に書かれた『印象記』における、アメリカ文明が世界を席捲しているという指摘やアメリカにおけるプロテスタンティズムの影響力の大きさへの言及に示されている。  白村の評伝は近代の歩みを知るためのものだと張は、言う。だが白村の著作には、そうした歴史的価値以外の面白さがある。『文芸思潮論』での、霊と肉、理と情といった二項対立図式で西欧の文学芸術を解説する試みは、一九八〇年代に一世を風靡したニューアカの旗手浅田彰が『構造と力』で示した現代思想のチャート式見取り図を彷彿とさせる。また、『印象論』でのアメリカにおけるプロテスタンティズムの政治・文化的影響力に関する指摘は、今日のアメリカ社会における分断の問題に関わるものとも言える。  そうした意味においても、白村に新たな光を当てる本著の試みは、近代の歩みを知るためだけでなく、現代社会について考察する上でも意義あるものだと言えよう。(ちば・かずみき=文芸評論家・大東文化大学教授・日本近現代文学)  ★ちょう・きょう=明治大学名誉教授・比較文学比較文化。上海生まれ。著書に『恋の中国文明史』(読売文学賞)『近代中国と「恋愛」の発見』(サントリー学芸賞)など。一九五三年生。

書籍

書籍名 厨川白村
ISBN13 9784623099719
ISBN10 4623099717