ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 412
オーケストラの指揮者として
JD 映画を作る側の人間として、映画監督が、映画作りに関わる全体を、ある程度理解しようと考えるのは必要なことです。けれども、そのすべてを理解することはできません。いわばオーケストラの指揮者のようなものなのです。演者全体をまとめあげ、ひとつの作品を作ることが仕事であり、ひとつひとつの楽器を完璧に演奏することではない。作品を作っていく上で必要な、撮影、編集、製作などなど、各段階において多くの人たちとの協力があり、結果として一本の映画作品ができるのです。
私の意見では、イタリアの偉大なカメラマンやフランスの偉大なカメラマンたちは、本当に偉大な〈職人〉です。彼らには映画を撮影する、つまり映像を作るための技がありました。その技に関して、さまざまな解答を持ち合わせていました。照明をコントロールし、前もって映像を作り上げる人もいれば、できる限り自然の光を取り入れながら、映像としてフィルムに記録されるように最低限の調整だけをする人もいた。スタジオで撮影するための技術を持つ人もいれば、手持ちカメラの撮影に長けている人もいました。本当にたくさんの方法があったのです。
映画作家は、それぞれが映画に対する考えをもっています。しかし、実際にそれをそのまま実現できるかどうかはわかりません。そうした映画作家の要求に応えるには、カメラマンなどからの実務的な意見が必要となります。映画作家の望んだ映像を作ろうとして、カメラマンが試行錯誤した結果、全く異なる映像が生まれることもあります。キューブリックやヒッチコックといった映画監督の無茶な要求――なぜなら彼らには前もって映像が頭の中にあったからです――が、撮影したカメラマンを有名にすることもありました。いずれにせよ一つの映像は、映画監督とカメラマンや撮影スタッフのやり取りの結果として生まれます。映画には、根本的にそうしたやり取りが必要であるとも言えます。つまり映画監督という存在は、ある部分では、撮影スタッフである必要があります。また撮影スタッフも部分的に映画監督のようにして映画を考える必要があるということです。本当に優れた映画作品には、撮影に関わるあらゆる人の参加が必要になるのです。
もしもその関わり合いが崩れたらどうなるか。優れた作品が作り出されることは決してありません。優れたカメラマンが、驚くほどまでに才能のない映画監督のために仕事をすることがしばしばあります。その場合、結果として生み出される仕事は良いものにはなりません。カメラマンの映像だけが悪目立ちして褒められるだけになってしまいます。多くの場合そうした映画を作る映画監督は編集の才能もないので、非常にチグハグな映画を生み出すことになってしまいます。
脚本だけが目立つ作品も同じです。現在でもたくさんあります。脚本に書かれた物語を伝えることに精一杯であり、映画としては見るべきものがない。眼を楽しませることはありません。言うなれば、最後まで見ることが耐え難い作品になってしまっている。「勧善懲悪」だとか「隣人を愛せよ」だとか、ちょっとしたことを伝えるためだけに、不必要な対話劇やドラマを生み出し、時間を無駄にしてしまうのです。そこには、映画に必要不可欠な運動が欠けてしまっている。映画が欠けた映画になってしまっているということです。
演技指導だけが目立つ作品にも同様のことが言えます……。映画の作りがチグハグになってしまっているのです。
HK 映画が語ることは、そうしたメッセージとは別にあるということでしょうか。つまり映像自体によって語られることがある。
JD はい。映画によって語られることとは、映画監督ひとりによって語られるものでもなく、物語によって語られるだけのものでもありません。映像と映像の連なりから生じるもの、つまり映画によってこそ語られるのです。それは暗黙の了解事項です。かりに映画作家としてそのことが理解できないのであれば、職業を変えることを考えた方がいい(笑)。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
