名著でひらく男性学
杉田 俊介・西井 開・川口 遼・天野 諭著
川口 好美
この春から大学で文学の講座を担当しており、若者に接する時間が増えた。わたしの観察の範囲でだが〝クィア性〟を印象付けられる機会が多い。クィアネスの表現が豊富で、集団形成も男/女の二分法にかならずしも拠っていない。彼ら彼女らが織りなす複雑で複数的な関係性に、日々驚かされている。
と、そんなことを思っていた矢先、俳優志望の学生が「セックスの経験がないと演技の幅が広がらない」とこぼしている場面に居合わせた。「挿入ってべつにたいした要素じゃないからさー」という反応しか瞬時にできなかった。自分を卑下する彼の態度は不快ではなかった。ただステレオタイプが持つねちっこい生命力にハッとした。純粋な〝性行為〟なんて存在しないよ。わたしたちはいつも言葉や視線や身振りの中でお互いの欲望を交錯させて、官能的なよろこびやかなしみにまみれて生きてるじゃん。それに気づけることの方が大事だと思う。そう伝えたい。でも納得してくれないだろう。他者との関係には、個人的な反復実践をとおしてようやくぼんやり感触される不透明な何かがある。とくに性愛にかかわる経験は、その語りがたさゆえ反動として神話化されやすい。それが通俗化してネットにひとたび流通すると、続々と〝指南〟が湧き出し、ステレオタイプが際限なく再生産される。
新しい世代は旧世代を踏み超えてより良い未来に向かって進んでいる、われわれは彼らを信頼し、場所を明け渡せばいい、そうすれば悪いものは――たとえばジェンダー非対称に起因する差別や暴力は――自然と淘汰されていくはずだ……。だが、こうした楽観は一方的に若い人びとに未来を背負わせる無責任な態度なのかもしれない。彼らもまた新旧様々な観念やイメージが折り重なり、せめぎ合い、不断につきまぜられていく世界を、葛藤を抱え混乱しながら生きている。この事実にかわりはないのだから。
さて本書は、どちらかと言えば旧世代に属する〈男〉たちによる「男性学」入門の書である。〝男性に批判的な反省を強いる、フェミニズムに従順な学問〟という「男性学」のうがった解釈が広がっているがそれは当らない、と序章で西井開が断わっている。西井によれば、そもそも単一のイデオロギーに括れないことこそがポイントなのだ。
それは四人の執筆者の経歴・活動にもあらわれている。ジェンダー研究者、文芸評論家、保育士、非モテ男性の対話グループの一員である臨床社会学研究者。てんでバラバラな四人がうながす入門とはどのようなものか。少なくとも彼らに共通しているのは、男はどうせ変わらない、男は有害だからせいぜい自分の振舞いに気を付けましょう式の固定観念に根ざした〝ジェンダー・センシティブ〟にたいして、批判的な距離を取り続けている点である。だとすれば、男も変わりうるという予感におののきつつ、変化のポテンシャルを信じて言葉と行動を今ここに積み重ねてみること。それこそが「男性学」への入門なのではないか。つぎのように――。
「われわれが脱暴力を文化的に学び得るとは、有名な言葉で言えばun―learnすること、つまり男には本能的な性欲と結びついた暴力性があるという「男性神話」を学び捨て、それを学びほぐすという意味です。それに倣って言えば、彦坂が言うのは、構造が強いる男のアパシーを踏み破って男性性のあり方を少しずつ無能化していく、ということですね。あるいは、非能力主義的でインポテンツ的な存在になっていく、と言えるかもしれません」(第一部・第三章の杉田俊介の発言)。
門は本来、ただの通過地点ではない。一時的であれそこにとどまることで個と共同体の関係性を身体レベルで変化させる、不可思議なゾーンだ。四人の〈男〉たちも、おのおの男性学の名著を門の下に持ち寄り、先人の言葉を吟味しつつ語り合う。安易な解決策は求めない。語りがたいものについて語ろうとする者の心の揺れ、悶えが、なによりも尊重される。他者の言葉を聞き落としてしまうことへの不安はいつまでも消えない。それでも変容を告げるnote(音、註釈、なき声、手紙……)が響くことを念じて、わたし(たち)の門の隙間から月の光のようなかそけき希望が差し込むことを願って、全身を耳にして深い闇の中にたたずみ続ける。
言葉がひたすら短絡的な利便に絡め取られ消費される現在において、正しい入門の姿勢を教えてくれる稀有な本だ。(かわぐち・よしみ=文芸批評家)
★すぎた・しゅんすけ=批評家。著書に『非モテの品格』『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』など。
★にしい・かい=臨床社会学研究者・一般社団法人UNLEARN理事。著書に『「非モテ」からはじめる男性学』など。
★かわぐち・りょう=社会学修士。共著に『私たちの「戦う姫、働く少女」』など。
★あまの・さとる=保育士。著書に『保育はジェンダーを語らない』など。
書籍
| 書籍名 | 名著でひらく男性学 |
| ISBN13 | 9784087213850 |
| ISBN10 | 4087213854 |
