2025/08/01号 8面

「古典的かつスペイン的である映画」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)400(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 400 古典的かつスペイン的である映画  JD ペドロ・アルモドバルの映画には、同性愛やスペインの郊外の生活などの主題があります。しかし、それ以上に考えなければいけないのは、彼が映画作家だということです。「映画とは何か」を考えさせ、さらには映画を新しく考えさせることができる今日の映画作家の一人であるのです。アルモドバルは、映画における、物語における、「曖昧さ」を問題とした映画を作り続けています。それは「トランス(=超えること)」の問題ともかかわります。性的垣根を乗り越えるトランスセクシュアルの問題を扱い、また時間を乗り越える試みともなっている。加えて、社会的慣習やモラルを乗り越える試みでもあります。そして、映画におけるジャンルを乗り越える試みも行なっているのです。  アルモドバルの映画のドラマトゥルギーは、非常に古典的でありながらも、現代的なところがあります。彼は自身の映画を通じて、ハリウッド古典映画へのオマージュを行なっています。彼がオマージュを捧げているのは、シネフィルの映画監督が取り上げる特定の作品にではなく、どちらかというと、ジョーン・クローフォードのような女優に対してです。ニコラス・レイの『大砂塵』に関しては直接的な引用がなされています。しかし彼は、シネフィルのように映画に向き合うのではない。かつて映画が持っていた力そのものに対して興味を持っています。そうした映画は、アルモドバルにとって大きな着想の源泉ともなっています。しかし同時に、彼の関心の中心にあるのは、現実の生でもある。古典的映画、物語叙述法に基づきながらも、全く新しい観点から映画を作り直しているのです。言うなれば、古典的ハリウッドをスペイン風にリメイクする営為をずっと繰り返している。そうした試みは、今日までうまくいっています。  スペイン映画には、本来語るべき歴史がありました。しかし、長年にわたり歴史を語ることができなかった。多くの試みが途中で潰えてしまったのです。ブニュエルは興味を持たなかったし、エリセやその他の映画監督は歴史を語ろうとしながらも、最後まで押し進めることができませんでした。アメリカ映画が自国において実現したような国民的映画が、スペインには存在することができなかったのです。その代わりに存在したのは、アメリカなどの外国映画であったり、あるいはちょっとしたB級映画だった。アルモドバルの映画は、そうしたスペインの映画の歴史的背景を背負って作られています。つまり、彼の映画は、自分自身の個人的な記憶を通じて、スペインの歴史を代弁している。そんな一面があります。登場人物たちは、ふと現れる過去の記憶と決着をつけなければならない。そこでは周囲との軋轢に直面することにもなります。しかし、そうした営みが完全なハッピーエンドに行き着くことは稀です。多くの場合、良いとも悪いとも言えない中途半端な結末を迎えます。なぜなら、現実は映画のように善悪のはっきりしたものではなく、曖昧なものだからです。  アルモドバルの映画には、繰り返しになりますが、非常に古典映画的なところがあります。同時に――言うならば――とてもスペイン的なところがある。スペインの歴史や生活が反映されているだけでなく、映画の作りも非常にスペイン的なのです。フランス人映画監督なら、彼のような色使いはしません。フランス風の趣味嗜好からすると「やりすぎ」と感じさせられることも多い。けれども、そうした面から考えてみても、彼の映画は興味深い。  また、同性愛というテーマについての取り扱い方にも、興味深いところがあります。この問題は昔から――キューカーなどの例を通じてもわかるように――多くの関心を集めてきました。しかし、直接的に取り扱われることは少なかった。かりに取り上げられるとしても一部の「前衛映画」であったり、限られたジャンルにおいてでした。逆にアルモドバルは、このテーマについてしか語っていない。それも間接的に取り扱うのではなく、必要以上に直接的に取り扱っているのです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテーク・ブルゴーニュ)