2025/05/02号

評伝ジョウゼフ・コンラッド:女性・アメリカ・フランス

 本書は、「船乗り」、「海洋小説の書き手」という括られ方をされてきた、ジョウゼフ・コンラッドの像を覆す画期的評伝である。  文学的評価というものは、常に時代の変化とともに揺らいでゆくものである。執筆された往時の支配的論調によってカテゴライズされてゆく文学作品は、テクストと、テクストを書き上げる作者のパーソナリティや、生い立ちを包含し、区分されてゆく。コンラッドの作品にしても同様であり、本書は、まずこれまでのコンラッド像を砕いてゆくことに紙幅を割いてゆく。コンラッドの作品における男性性は、主人公男性の精神的苦悩及び克服の物語として回収され、評価がなされてきた。先述した「船乗り」、「海洋小説の書き手」という謂わば「男性的な」特徴も、この評価を強固なものにする一因であった。  そもそも、虚実を綯い交ぜにして作品を書き上げる作家の評伝は、自ずと虚実の実の部分を炙り出してゆくことになる。コンラッドにおける実の部分を炙り出してきたこれまでの評伝が、彼の生育環境、とりわけ「英国商船隊船員」という経歴に着目することは、当然のことでもあった。そのため、コンラッドの名を一躍広めることになる『オールメイヤーの阿房宮』が、「植民地主義的な小説と同列に扱」われたことは即ち、「特定の男性概念を奨励し、冒険ロマンスを通して帝国主義を支持することを目指した」往時の文学的状況及び社会情勢と、彼のパーソナリティーが紐付けられて評価されたことを意味する。  本書は、このようなこれまでのコンラッドの評価軸を主に次の三点に着目して覆そうとしている。「女性」「アメリカ」「フランス」である。いずれも、「英国」の「船乗り」の小説とは異なる論点であり、看過されてきたというよりは、見て見ぬふりをされてきたものであるだろう。このことは、英国小説を読み解くうえにおいて、大英帝国の植民地政策等の世界史的知見を補助線とする。  第10章「コンラッドと女たち」では、コンラッド作品における虚構の登場人物である「マーロウ」の言動を、作者であるコンラッドと同一視されたがゆえに「抑えがたい女性嫌悪」作品の書き手とされてきたこれまでの女性観を覆す、画期的な論考となっている。コンラッドが後期小説において「さまざまに構築された男性性と女性性を考察しており、恋人同士が結ばれるという伝統的なロマンスの結末は制限されている」という指摘は、前述を踏まえると極めて重要なものである。「伝統的」という語句は、往時の批評軸がどのようになされてきたのかというだけではなく、テクストがどのように読まれてしまっていたのか、ということにまで波及するものであるからだ。  優れた評伝が、優れた批評であるのは、作家や作品のみに光をあてるのではなく、往時の社会情勢や、ジェンダー、セクシャリティの扱われ方、そして読者という存在の在り方を含めて、考察していることにある。つまり、一人の作家に対しての批評が、同時代のあらゆるものへの批評にまで繫がってはじめて、優れた評伝になるのである。本書は、ジョウゼフ・コンラッドという一人の作家への評伝に留まらず、これまでの評伝の在り方を問うている。この点を評価すべきと考える。  本書の「結び」は、死に対するコンラッドの言葉によって結ばれている。「死の瞬間は決して言葉にできない」「死に触れた瞬間、言葉が場違いな世界の幻影が見えるから」という詩句からは、「作者の死」を連想せずにはいられなかった。これは幾度も援用されてきたロラン・バルトによる「作者の死」に収斂されるものではない。私たちが作品を読み、感じるものは、私たち自身の内なる感慨であるはずが、えてして、現今の社会状況や主張に引きずられている。つまり、極めて個人的な「読む」という営為が、読者の内にのみあるものではなく、常になにかの、誰かの、影響を受けているということである。そして、そのことに気づかないままに、「私は読んだ」と、「自身の考え」であるかのように思えてしまう。肝要なことは、作者にあるのではない、社会情勢にあるのでもない、ただ眼前のテクストにあり、その先にはじめて作者とテクストの呼応がある。コンラッドのテクストにおける苦悩は、男性性によるものだからでも、「英国商船隊船員」によるものでもない。苦悩は苦悩のまま読み取り、テクストを丹念に読み込むことと向き合った、実に骨太な評伝である本書は、広く読まれるべきものである。(山本薫訳)(やまざき・しゅうへい=詩人・作家)  ★ロバート・ハンプソン=リバプール生まれの詩人、学者。ロンドン大学英語研究所研究員、ロイヤル・ホロウェイ名誉教授、ノーサンブリア大学客員教授。詩人としての活躍と国際的なコンラッド研究によってその名を知られる。一九四八年生。