2025/06/06号 5面

〈21世紀版〉身体批評大全

〈21世紀版〉身体批評大全 巽 孝之・宇沢 美子編 鈴木 晶  評者の記憶では、いわゆる「大綱化」以降、多くの大学で、総合講座とか共通講座とか呼ばれる、オムニバス形式の講義が増えた。評者自身も大学教員だった頃に、そうした講座のコーディネータを拝命し、テーマの決定や外部講師への依頼などを担当した経験がある。こうした傾向の背景にあるのは、過度に硬直した「タテ割り教育」への反省であろう。  本書は慶應義塾大学文学部の総合講座の成果報告である。その講義全体の題目は「メディアとしての身体」。執筆者数は四〇人以上、分量は六〇〇ページを超えるから、執筆者名とタイトルを列挙しただけで紙面が尽きてしまう。一方、ごく一部の論文だけを紹介したのでは、全体像がまるで見えてこないだろう。そこで、全体の半分ほどのタイトルをランダムに並べてみる。  「法における身体」「帝政末期ロシアのスポーツと身体」「近世イスタンブルにおける「王の祝祭」」「集団的示威行動と民主主義」「モードと政治的身体」「新・独身者機械論序説」「連合赤軍事件と女性の身体」「トランスジェンダー学生のアドミッションと女子大学のミッション」「コスプレする身体」「Pan-Exoticaのエロティック・アート」「メディアとしての受容身体――主体のずれた(自己)認識と取り残された身体について」「ライフサイクルの精神医療化と脳神経科学的自己――認知症の人類学」「剰余としての身体――インドにおける代理出産から」「加齢による身体変化と意識変化」「美女美男論は、摂理か、差別か、羨望か?」「チンパンジーに学ぶ眠りの身体」「ロック、そのメディアにおける身体性の歴史」「サンタナの甘い音と彼女の面影」「戦争と平和をもたらす三つの胃――東アフリカ牧畜社会の身体、他者、家畜」「信仰と装い――イスラームにおける身体と服装」「ディス・イズ・アメリカ――「黒い身体」というメディアの可視性と不可視性について」「ゲーテ形態学と整体」「姿を隠す兼好法師」。  これで、だいたいどんな本なのか、想像がつくだろう。全体は「国家」「セクシャリティ」「演劇」「場所」「人間科学」「祝祭」「エスニシティ」「人文学」という七つのセクションに分かれているが、評者の個人的立場からすると、(身体が言語と絡む)演劇より(言語が抑圧された)舞踊をめぐる論考をもっと入れてもらいたかった。  身体論は永遠である。われわれは誰しも生涯、自分の身体と付き合い続けなければならないからだ。本書の編者も冒頭に、「人は各々の身体(イメージ)を基として、世界を測り、計り、図るものである。生まれながらにして、五感の他「数覚」を持つ人類は、自己を成立するためにも、世界を認知、構築する上でも、身体(像)を基本としてきた」と書いている。内田樹も新著の中で、少し違った角度から、「人間はあらゆる道具を自分の身体に似せて作り出す」(『沈む祖国を救うには』)と書いている。  だから身体論のテーマは尽きることがないが、同時に、「言語」とともに「身体」が二〇世紀哲学における最大のテーマとなったことは周知の通りである。最初それは、エリアスやフーコーのような、われわれが今まで自然だと思い込んできた身体がじつは作られたものだという発見から始まった。その点、タイトルに〈21世紀版〉と銘打った本書からは、二〇世紀にさまざまに論じられた身体論の「次」を提示しなければならないという気概が感じ取れる。  どの文章も、まとまった論文としてはやや舌足らずで不満が残るが、本書の性格上、それは致し方ないだろう。この総合講座をとった学生諸君は休まずに出席することを求められたのだろうが、われわれ一般読者にはそうした義務はないので、面白くないと思った文章はさっさと飛ばし、面白い文章だけを読めばよい。その上で、ここで論じられていないテーマは何なのかを考えてみよう。(すずき・しょう=法政大学名誉教授・精神分析学・舞踊学)  ★たつみ・たかゆき=慶應義塾大学名誉教授、慶應義塾ニューヨーク学院第十代学院長・アメリカ文学思想史・批評理論。著書に『ニュー・アメリカニズム』(福澤賞)など。一九五五年生。  ★うざわ・よしこ=慶應義塾大学名誉教授・アメリカ文学・文化史研究、ジャポニズム、日米比較文化論。一九五八年生。

書籍

書籍名 〈21世紀版〉身体批評大全
ISBN13 9784788518667
ISBN10 478851866X