2025/08/08号 2面

土田ヒロミインタビュー<ヒロシマを考え続けるために>『Hiroshima Collection』(NHK出版)『Hiroshima Monument』(ふげん社)刊行を機に

土田ヒロミインタビュー <ヒロシマを考え続けるために> 『Hiroshima Collection』(NHK出版)『Hiroshima Monument』(ふげん社)刊行を機に  「原爆八〇年」の今年、写真家の土田ヒロミ氏が二冊の写真集を刊行した。『Hiroshima Collection』(NHK出版)と『Hiroshima Monument』(ふげん社)である。これは戦後三〇年の一九七〇年代に、「ヒロシマ」三部作として、被爆者取材(「ヒロシマ1945-1979」)、風景取材(「ヒロシマ・モニュメント」)、被爆資料取材(「ヒロシマ・コレクション」)の順に着手された、土田氏のライフワークと言える撮影活動の一環である。写真集刊行を機に、お話を伺った。(編集部)  ――「ヒロシマ」三部作は、どれも長年に亘る撮影活動となりましたね。  土田 振り返ると、半世紀が経ちましたね。  ヒロシマを撮らなければという意識が、終戦から三〇年が経つ頃にわき上がり、一九七六年から、少年少女被爆体験記『原爆の子 広島の少年少女のうったえ』(長田新編、岩波書店)に作文を寄せた方々を撮り始めました。広島の風景や被爆資料に比べて、被爆者へのアプローチはもっともエネルギーが必要だろうと、あえて難しいところからスタートすることにしたのです。一八六名の被爆者全員に連絡を取りましたが、実のところ、精神的な負担は大きかったです。  ――「拒否」「撮影不可」というかたちで、背を向けた姿を映すものや、無人の自宅近くの風景によって示されるページもありました。  土田 反発があったり辞退があったり、取材者の私と被爆者の間には、ドラマティックな関係性が発生していました。  ただ、そうした困難は想定内で、とにかく一八六人全員を訪ねることで被爆三〇年後の被爆者の現状が見えてくるだろうと考えていました。重い体験談だけを聞くためにではなく、「拒否」と出合うためにこそ取材があったと言えるのかもしれません。  四年後、一八六名中、一〇七名と連絡がとれ、うち六名が亡くなっており、取材拒否は一六名、インタビューのみで撮影拒否が八名でした。ときには遺影を、そして「拒否」や「撮影不可」までを紙面に組み込むことで、高度成長に向かう日本の中で、もはや目にすることがなくなっている「原爆」というもの、被爆者たちのメンタリティというものを表すことができるのではないかと。「拒否」は取材の構想段階からプログラムにあったということです。  ――先頃放映されたNHK広島局の「80年目の「原爆の子」」では、七名の方と、三度目の対面を果たしておられました。  土田 そうです、たった七名です。さらに努力が必要ですね。  ――風景取材と、被爆資料取材は、どのようにスタートしたのですか。  土田 私は一九七〇年代に入り、初めて広島の街に降り立ったのですが、そのときには災害の跡などほとんど見当たらない、完成された中堅都市の姿しかありませんでした。一四万人が一瞬のうちに亡くなったヒロシマの悲劇性が全く視覚化できない、その事実にはじめは愕然としたんです。  災害の痕跡は唯一、原爆ドームが象徴として引き受けていました。これは被爆者も同じで、ケロイドを洋服の内に包み込み、ごく平穏な市民生活を送っているように見えました。絶対的な体験がありながら、時を経て見えなくなっている。ヒロシマの「不可視」こそを撮ろうと思い至り、風景取材がスタートしました。  一方、被爆資料を撮ることには別の困難がありました。資料館(広島平和記念資料館)に被爆資料の撮影を申し込んでも、なかなか許可がおりなかったんです。広島の資料館は、市民から寄託された資料が展示されるという、世界的にも稀な博物館です。撮影するためには、資料を資料館からスタジオに運ぶ必要がありますが、その責任が資料館サイドでもてないということが、大きく影響していたと思います。  ――それがなぜ撮影できるようになったのですか。  土田 NHKで一九八二年に放送したドキュメンタリー番組「きみはヒロシマを見たか」が、出版物としての刊行を前提にしており、動画と同時にスチール撮影をすることになったんです。それをきっかけに、以後も撮影を続けてきたということですね。内部のスタッフによる、データ整理のための記録はありましたが、外部のカメラマンとして撮ったのは私が初めてです。  ――いまのお話にも出てきましたが、三作共に通底するのが、「見えないヒロシマ」を撮るということですね。  土田 写真は通常、見えるものを、かたちとして拾っていく行為です。見えないものを写真で撮るというのは、矛盾していますよね。反写真的な対象に写真で係わるということは、被爆の事実を明らかにする以前に、写真家として、写真的な美学に挑戦するという意味が大きかった。  私にとって、ヒロシマを表現することと同時に、写真という視覚認識を超えた対象に挑戦する、つまりは「写真」に挑戦するという意味がありました。  ――毎年八月六日が近づくと、原爆が投下された当時を振り返り、過去が語られます。一方、「見えないヒロシマ」には、「現在の被爆地・被爆者」が写し出されているとも思います。  土田 昭和二〇年の悲劇的な状況はほとんど目にすることが困難だったという大前提がありますが、私の姿勢としても、遡って昭和二〇年の悲劇的な状況を視覚化しようということではなく、被爆経験者の日常生活、あるいは広島の街の風景、資料館に寄託された資料を、節目節目の現在時点に撮る、ということだったわけです。  しかしそれだけでは過去の被爆の事象を伝えられないので、彼や彼女が何とも交換不可能な被爆を体験した証として、テキストを加えています。被爆者取材では、文集『原爆の子』から、その日常が奪われる瞬間までのテキストの一部を引用しています。  被爆者を撮る写真表現方法は、ごく普通のファミリーフォトの手法です。日々を生き続けてきた、その日常を撮影しています。そこには現在性と同時に生のリアリティがある。  そうした写真にテキストを添えることで、何の変哲もない写真に写る人が、実は悲しさを背負って生きていることを知ることができる。笑顔を見せて踊っていたり、夫婦で生き生きと仕事をしていたりする、その人たちの中に葛藤や辛い過去があるという、そこには人間というものの複雑さも想起させられます。  被爆者の現在を読者と同じステージから撮ることで、被爆体験が決して特別なものではなく、遠い過去の出来事でもなく、自分の身に起るかもしれないものだと、そう思ってもらえたら……そのような願いがありました。  ――その姿勢は、「ヒロシマ・コレクション」についても同じですね。撮影する被爆資料のセレクトの基準や姿勢について伺えますか。  土田 資料館には約二万点の資料が収蔵されていますが、そのうちの約一万点は、建物の破損した欠片などで、被災した身体に関わる物や、人間の生活に直接関わる資料は、全体量から考えるとそれほど多くはありません。  私は戦後八〇年までに、一〇〇〇点の撮影を目指してきました。どういう資料をセレクトし、どういう意識で撮ってきたかと言えば、やはり日常性を重視したいと考えてきました。被爆者が身に着けていた洋服や制服には、焦げたり破れたりしているところがありますが、そういう部分をクローズアップして、被害の大きさやその悲惨さを誘発する撮り方はしない。背景や光も一定にして、俯瞰から、資料のかたちを記号として捉えることに努めました。洋服などは八〇年前のものでも、現在とかたちはそれほど変わりませんよね。できるだけ我々の日常と、被爆資料のもつ日常が近似するような資料の広げ方で、現在を生きる私たちの日常と地続きのものとして、見ることができるようにと考えています。  ただそれだけでは、被爆資料としての特異性が見えてこないので、これにも時を遡ることができるテキストという要素が必須だと考えています。この物を持っていた人は、どこでどのように被爆したのか、誰がどこで見つけたのか、誰がいつまで形見としてもち続けて、何年後に寄託したのか。そうした物のもつ個人的な物語を、端的に記しました。  テキストと写真を融合することで、普遍性と唯一性が一つの画面に合成され、原爆という大きな歴史的災害と一個人の日常が相互に関係する状況を現出できたら、という試みです。  ――大阪の中之島 香雪美術館で開催中の〈土田ヒロミ写真展「ヒロシマ・コレクション」―1945年、夏。〉の図録には、ほかの写真集とは違い、カラー写真が含まれています。モノクロとカラーを併用した理由を伺えますか。  土田 「ヒロシマ・コレクション」は一度目の撮影が八二年、二度目が九五年ですが、二度目のときにもカラーかモノクロかということは、検討にも上りませんでした。というのも、こうしたシリアスな題材を写真で表現するときに、カラープリントはまだ適切な方法とは言えなかった。一九八二年にも一部はカラーで撮っていて、『きみはヒロシマを見たか』の口絵にはカラー写真も使っています。ただ当時の時代状況としてはモノクロが適切と考えました。  先ほど言ったように、「ヒロシマ・コレクション」には、記号的に撮るという意図がありましたが、シリアスなものに対する知覚を研ぎすますには、カラーは情報量が多いので、当時は読者に投げ出すのは難しいという判断があったのだと思います。  しかし時代が変わりテレビでカラーによるドキュメンタリーが当たり前になっていき、現在ではスマホで日常的に動画を誰もが見るようになっています。消費者の視覚は無意識に学習して、逆にモノクロが特殊な色になるということが起こってきているんです。二〇〇〇年以降はむしろ、読者の多くがモノクロを読み取れない世代に変わってきているのではないでしょうか。  モノクロという古い方法論で、ヒロシマにアプローチしているのは、男性の後進性の表れであると批判されることもあれば、今世紀からのカラープリントでの展開に、「土田は変質した」と言われることもあります。でも時代の変化の中でのメディアの変更を、当然ながら考える必要があると私は考えています。  ――「ヒロシマ・コレクション」の写真は、それぞれの図録や写真集に、重ねて収載されているものがありますが、一度出合った被爆資料は記憶に残っていて、二度目に出合ったときにそれとわかる、フォルムの強さを感じながら拝見しました。これが土田さんのおっしゃる「私的感情を排した、即物的な記録」の力かと。  一方、テキストを見ない限り、資料の撮影年や収蔵年の差がわからない。そこにも土田さんの徹底した職人性を感じるような気がしました。  土田 私には、個別具体的な被爆資料を撮るというよりも、その記号性を通して現在を見たいという意識があります。被爆資料のワンピースが、写真を見ている人がもっているワンピースと、入れ替え可能であるというような。被爆の悲劇性ではなく、物のかたちを記号的に撮ることで、現在の私たちが日常的に使う物との類似性を表わし、原爆という大きな事象に、物を通じてリアリティをもたせることができれば、という試みなんです。  ――『Hiroshima Collection』の六〇〇頁というボリュームにも、意味がありますね。  土田 あると思います。資料館の資料撮影が止まないのは、近年になっても収蔵されてくるからです。ご本人あるいは遺族が大切に保管し続けてきた形見を、世代が変わり寄贈するケースが多くあるようです。これからもできるだけ多く撮りたいと思っています。  原爆が投下されたその日、着ていた衣類や、誰かから譲り受けた懐中時計、鞄や印鑑ケース、コンパスやボタン一つまで、資料館には様々な被爆した日用品が収蔵されています。それらは昭和二〇年八月六日八時十五分まで続いていた、市民社会の形見でもあります。この写真集にも市民社会が反映される必要があると思い、六〇〇頁になってしまったんです。民俗学的な意味性も、背景にあると思います。  開催中の展覧会では、資料のもち主たちが一堂に会して、日常が蘇っているような、そんな印象を受けました。  ――個別に撮影した資料が、このように一冊に集まると、普遍化され、一つの遺産となる感じがします。  ――高度経済成長期の群れとしての日本人を撮った「砂を数える」や、バブル期の舞い上がった人々を写した「パーティ」、バブル崩壊後のバーチャル化する時代に均質化していく人々の姿を撮った「新・砂を数える」などが、「ヒロシマ」三部作と並行して撮影されています。どちらも日本を追いかけてきたという点では同じだと感じています。  土田 私は日本人の現在を撮りたいと思って、写真を始めたところがあります。その時代、時代の日本人の無意識みたいなものを撮ろうとしてきたのかもしれません。  高度経済成長における日本人の無意識、バブル時代の狂乱の無意識、二〇〇〇年以降のフェイクが蔓延る中での無意識。「個」を撮るというよりは、日本人の集合的無意識を撮ろうとしてきたのです。  その中で、ヒロシマには、人類を超えるような大きなアクシデントが根底にあるわけですが、それでもやはり、日本人の現在を確認してきたということになるのだと思います。  ――そうした時代感覚があるからこそ、「ヒロシマ・モニュメント」の定点観測も生きるのでしょうね。  土田 一つの風景を時間を置いて、できるだけ長い期間撮り続けるというのは、私自身がヒロシマについて考え続けるための方法でもありました。  初年度の一九七九年は一〇〇ヵ所を設定しましたが、その一〇年後は五〇ヵ所に絞り一九九〇年から九三年まで、三回目を二〇〇九年から一〇年、四回目は二〇一九年から二五年と、約一〇年おきに延べ四五年、同じ場所で撮りました。  広島市内のビルや橋、記念塔や公園の樹木などを、モニュメントとしてピックアップしようと考えたのは、原爆ドームが一点集中で悲劇の象徴・平和の象徴となり、それ以外の痕跡は日常的には全て不可視になっていると思ったからです。でも原爆ドームさえ知っていれば、広島で起こったことを全て知ることになるかと言えば、そうではない。むしろ広島の街それ自体をモニュメントとして、視覚化し意識化する必要があるのではないかと。  さらには広島という都市の片隅に、残そうという意識からではなく、自然に残ってきたささやかな痕跡――少々荒っぽい言い方をすれば、そこには被爆者の存在も含まれるかもしれません――が経年の中でどのように失われていくのか、都市生活の中で消費されていくのか、捨て置かれていくのか。定点観測によって、市民の無意識、行政の意識のようなものも表れるのでは、と考えていました。  ところが実際には、戦後三〇年から八〇年が経っても、思ったより変わらなかった。  ――変わらなさに驚きました。  土田 東京の変化はとんでもないですが(笑)。それは地方の中間都市がもつ特性なのかもしれませんが、市政の中で何らかの指定が明文化されていないような、たとえば小さな狛犬だったり公園の樹木だったりを、住民が自分たちの日常の一部として認識していくということが、少なくともこの八〇年の間に起きていたことなのだろうと思います。  定点観測で見出された広島の街の変わらなさは、市民の無意識の中に8・6の問題が変わらずにあり、被爆の過去を心に刻んで残していこうという、意識の証ではないかと感じています。  ――人は写っていませんが、写真集を見ながら、ここに住む人々のことをどこかで想像していました。土田さんは、市民の無意識を撮っている。  土田 言い過ぎかもしれませんが(笑)、そういうところがあるかもしれません。  ――日本の戦後の瞬間、瞬間を、写真というメディアで捉えようとされてきた。時代や歴史を捉えるのに、一瞬を切り取る写真というメディアでは制約があるからこそ、定点観測という方法論が編み出されたのでしょうか。  土田 おっしゃるとおりで、決定的な瞬間を捉えることは、メディアとしての写真の強みですが、逆に言えば一瞬しか撮れないわけです。時間を置いて定点観測することで、一瞬しか撮れない写真の欠落を補っているに過ぎないのかもしれません。  でも年を経て、同じ条件でスチールを撮ると、そこにはフィルムを回して連続的に撮ったのでは見えない差異が見えてくる。日常的に見逃している変容や、風景を作り上げていく人間の意識みたいなものが、定点観測することで現われてくる。  ――最初におっしゃった、「写真への挑戦」ですね。  土田 「ヒロシマ」シリーズに共通するのは、「土田」の排除です。私性を一切入れず、カメラという無機的で合理的な構造に任せるということです。そこに作家は存在しない。  ――しかし実際、表現から自己を排除するというのは、難しいことですよね。  土田 私的な個的な美意識を捨てることが、土田ヒロミの作家性だと言えるのかもしれません。  とにかく、原爆はあまりにも大きな出来事ですから、矮小な自分が解釈してしまわないということ。カメラを通して、視線だけを残していく作業です。写真集で、私の視線をなぞった人に、「ヒロシマ」が少し見えてきたということがあればいいなと思っています。  原爆の悲劇性を強調したり、恐ろしい事象として描き出すのでは、そこには土田の解釈はあっても、ヒロシマは見えてこない。土田の表現しか見えないわけです。ヒロシマを見せるためには、土田は透明人間にならなくてはいけない。  表現者としては、自分を消すという大矛盾があり、ある意味ではさびしい作業です。でも自分を消し切れたときに、快楽になる。自分を消し切れるかどうかが、写真家としての冒険ではないかと思います。  ――原爆八〇年以降も、まだまだ撮影は続きますか。  土田 これからどうなっていくのかわかりませんが、一〇〇歳になったら、また撮れますかね(笑)。  ――なぜこれほど長く、ヒロシマを撮り続けることになったと思われますか。  土田 まずは、それだけ大きな出来事、とてつもない惨事だということですよね。科学技術の発展に思いを至らせると、原子の核分裂による未曾有のエネルギーは今や、地球の全ての生命体を繰り返し何度も壊滅して余るほどの、破壊力が蓄えられてしまっています。局部的な戦争であっても核を戦争の手段として使ったときに、地球全てが破壊されてしまう。成層圏が雲に覆われ、太陽の光が届かず、生物が育たなくなって、生命体としての地球が失われることになる。このことは地球人として、常に意識しておかねばならないことなのではないでしょうか。  八〇年前にヒロシマで起きたことは、人間と自然との関係が根底から変化してしまう、新たな文脈を生みだした象徴的な出来事です。が、ある意味では当時使われたのは、ごく古典的な初期の核弾頭でした。それによって広島の人口の四〇%にあたる一四万人が爆死し、焼け野原が広がった。この事実を考え続けるために、私の撮影活動が役立つのであれば、と思います。  ――原爆投下は過去の出来事ですが、我々の未来に通じる問題だと感じました。  土田 過去の問題としてヒロシマを認識することも大切ですが、未来を意識化するような作用が、「ヒロシマ」シリーズを通して起きればうれしいことです。  ――お話をありがとうございました。(おわり)  ★つちだ・ひろみ=写真家。東京綜合写真専門学校校長、大阪芸術大学教授を歴任。代表作は『俗神』『砂を数える』『ヒロシマ』。「ヒロシマ 1945-1978」の伊奈信男賞のほか、土門拳賞、日本写真協会賞功労賞、太陽賞などを受賞。一九三九年生。