2025/09/05号 3面

論潮・9月

論潮 9月 高木駿  みなさんは、「朝鮮人元BC級戦犯」という言葉を聞いたことがありますか? 僕はついこの前まで知りませんでした。(A)BC級戦犯という言葉自体はご存知のことでしょう。先の大戦において戦争犯罪を問われた人々を指します。東條英機(A級戦犯)のように死刑判決を受けた人もいれば、自由刑になった人もいます。もちろん、無罪になった人も。そうした戦犯のなかには、当時日本の植民地支配を受けていた国々の人も含まれます。「朝鮮人元BC級戦犯」は文字通り、戦争責任を問われた朝鮮(現在の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国)の方を指します。  日本は、太平洋戦争の序盤、東南アジアでの想定外の勝利をおさめ、連合国軍の捕虜を大量に抱えることになりました。ジュネーブ条約を批准していなかった日本は、それをいいことに、捕虜たちをさまざまなことに利用しました。その一つが、タイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ「泰緬鉄道」の建設です。彼らの監視が必要ということで動員されたのが、半ば強制的に軍属にされた朝鮮人の監視員たちでした。泰緬鉄道の建設では、乏しい物資、劣悪な環境、無謀なスケジュールの結果、作業にあたった約六万二千人の捕虜のうち約一万三千人が犠牲になりました(捕虜ではない労働者も一〇万人近くが犠牲になったとされています)。朝鮮人監視員は、捕虜への虐待や暴力の疑いも含め、監視の責任を問われ、BC級戦犯として裁かれることになったのです。  植民地下、主体的な選択の余地が乏しいなかで動員されたにもかかわらず、戦争の「加害者」として責任をとらされる(もちろん、一切の責任がないということではないだろうが)。サンフランシスコ講和条約によって日本国籍を失ったため、日本政府からは、「外国人」として恩赦や補償の対象外にされる。祖国からは、日本の味方をした「敵」と見られ、帰国することもはばかられる。それにもかかわらず、靖国には「日本のための英霊」として強制的に合祀される。戦犯として刑死した人も含め、彼らは、こうした不条理にさらされることになったのです。  しかし、こうした問題はあまり可視化されていないという現状があります。今年は戦後八十年という大きな節目の年のため関連特集が組まれることも多く、日本の侵略戦争にスポットを当てた論考をよく目にします。それにもかかわらず、「朝鮮人元BC級戦犯」をテーマにしたものは管見の限りありませんでした。ちょうど、ビルマやタイにおける英国軍による戦後処理の様子を伝える論考があったのですが、軍人も軍属も「日本人」としてひとまとめに描かれています(加藤聖文「東南アジア、中国本土、満州……武装解除の現実 帝国旧支配地域で続いた戦闘と抑留」、『中央公論』)。  他方で、当事者が全員亡くなってしまった現在でも、遺族の方や学者や市民など可視化に注力する人々がいます。先日、「キャンドル行動」という関連する集会とデモに参加してきました(というか、このとき初めて「朝鮮人元BC級戦犯」の問題を知りました)。靖国への強制合祀に反対する運動です。ひどい雨と雷のなかでの行進でしたが、いろいろな気づきがありました。二つ紹介できたらと思います。  一つは、可視化の障害になるものがあること。「バンザイクリフ」と呼ばれる場所がサイパン島にはあります。その周囲には複数の慰霊碑があり、なかには「国のため命ささげし人々」、「尽忠の英霊」などの文言が刻まれているものもあるそうです。その通称自体もさることながら、それらの文言も、「チャモロやカロリンの人びとの存在やかれらの戦争犠牲、そして日本の植民地支配を不可視化して」(竹峰誠一郎「『アジア太平洋諸島戦争』の視座 植民地支配、戦争、核実験」、『世界』)しまっているのではないでしょうか? 同じように、靖国も、戦争に参加した者を讃えることで、「朝鮮人元BC級戦犯」をはじめ、日本の侵略戦争のなかで曖昧でマージナルな立場に置かれてしまった者と関連する問題を不可視化しているのではないでしょうか?  もう一つは、可視化には市民による運動や議論が有効になるのに、その実行や継続が困難になりつつあることです。可視化にはいろんなアプローチがあります。例えば、国会や政府などの公的機関が問題視することを通じて、見えていなかった人々や問題が可視化されることも十分あります。ただ、その時の政治状況や世論などから影響を受けるというデメリットもある。実際、「朝鮮人元BC級戦犯」の補償に関する立法の試みが二〇〇八年にありましたが、衆議院解散のため未了になっています。そこで重要になるのが、そのような影響から自由な市民によって行われる運動や議論なのです。J・ハーバーマスの言葉を借りれば、可視化には「市民的公共性」が重要になると言えます(ハーバーマスの政治的立場はまったく支持できませんが)。  しかし、この市民的公共性、あるいは、市民による運動や議論が危機を迎えている現実があるように思います。まずは、関わる人々の減少や高齢化の問題です。たしかに、環境問題や気候変動などでは若い人の活躍を目にすることはあるかもしれません。ただ、問題やテーマによっては、高齢化が進んでいたり、若い人が興味を持ってくれなかったりと、世代交代ができていないように、何度か集会などに参加して感じました。特に人権問題関連に多いように見えます。  次に、情報による偏りの問題です。ネットの話ではお馴染みのフィルターバブル(検索やSNSで自分の関心に合う情報ばかりが届き、他の情報が遮断される現象)やエコーチェンバー(同じ意見を持つ人々の間で情報が繰り返され、その情報が正しいと信じてしまう現象)によって、同じような属性や価値観を持つ人が集まりがちになります。高齢の方が多いと、高齢な方にしかリーチできないように、どんどんと人的資源が先細りになっていくし、多様性がなくなり閉じた運動や議論になってしまいます。これでは、見えていなかった人々や問題を可視化することも難しくなるでしょう。また、大手メディア(あるいは政府)が介入することで、一部の情報しか見えなくなってしまったり、特定の情報は隠されてしまったり、といったことも当然起こりえます。  こんな状況だからこそ、例えば、周りの人を誘って運動や議論に参加したり、問題を指摘し続けたりすることが重要になるのではないでしょうか? あるいは、誘われて参加することも重要になるでしょう。月なみな提案ですが、大切なことです。  先日の集会とデモも、誘ってくれた友人がいなければ、僕は参加していなかったし、「朝鮮人元BC級戦犯」という言葉を知ることも、それについて興味を持つこともなかった。もちろん「朝鮮人元BC級戦犯」の問題が僕に可視化されることもなかったのです。その後、彼女は、自分のお店でも関連するイベントを開いていました。みんながみんな彼女のようになる「べき」とは言えないけど、僕は彼女のようなひとになれたらと思いました。(たかぎ・しゅん=北九州市立大学准教授・哲学・美学・ジェンダー)