ケアの物語
小川 公代著
内藤 千珠子
ケアの倫理と非暴力の思想という観点から、私たちを呪縛する近代的なものの見方を解きほぐしてくれる一冊である。本書を読むことは、闘争の力学から隔たった非暴力の場所から物語を解釈していくことにほかならず、物語の別の姿を読者が目撃したそのとき、ケアの倫理に基づいた文学的な実践の可能性が立ち現われてくるだろう。
中心に置かれているのはメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』(一八一八年)だが、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』から、『進撃の巨人』『虎に翼』といった現代の作品まで、ジャンルやメディアを越えた多種多様なテクストが取り上げられていく。戦争、レイシズム、インターセクショナリティ、エコロジーなど、社会の現在を思考するための一〇の主題を設けた本書の構成には、『フランケンシュタイン』と緩やかな接点をもつ複数のテクストの間を往還するようにして、これまで聞き逃されてきた声の欠片を拾い上げ、つなぎ直すような展開がある。
問い返されるのが、「大きな物語」がもつ権力性である。規範化される大きな物語は、根源的にいえば解放の理念につながる物語であり、家父長的な帝国の権力に同調する構造をもっているといえよう。「大きな物語」が支配する視座から『フランケンシュタイン』をとらえれば、帝国的な物語が前景化せずにはいない。こうした視点を取るなら、イギリスの北極探検隊の隊長であるロバート・ウォルトンが、北極海で出会ったヴィクター・フランケンシュタインの悲劇を聞き、ウォルトン自身の「野心の物語」から語り起こされる『フランケンシュタイン』は、「北極制覇」や「人造人間の創造」を、「人類の功績」として描き出した物語に見えるだろう。ヴィクターによって創造された被造物「クリーチャー」が、「怪物」となり、自分を見捨てた創造主に復讐する物語は、父殺し、王殺し、強者による差別と暴力といった主題として解釈され、他方で、怪物の暴力の被害を受ける女性や子どもの存在は、受動的な犠牲者として瑣末化されるほかはない。
だが、「大きな物語」のもつ権力性を疑う立場に立てば、『フランケンシュタイン』はいくつもの断片的な語りによって小さな物語を織りなし、「小さき人々」がそこに存在していることを伝えているのではないか。こうした問いのもと、本書が可視化していくのは、書かれているが読まれてこなかった物語の姿である。「小説の枠組みは、ヴィクターの物語を聞き書きするウォルトンの手紙であるが、彼は姉マーガレットに向けて見聞きしたことを報告している」。したがって、テクストは「最終的に物語を受容するのは女性」となる構造を備えていることになる。あるいは、クリーチャーが遭遇する「イスラム教徒であるトルコ人の父とキリスト教徒とのアラブ人の母から生まれた」サフィーという登場人物は、「交差性によってのみ説明されうる」苦しみを生きる。彼女が書いた手紙は、小説にその内容が明示されないことによって、沈黙の声を表象するだろう。すなわち、単純化された二元構造に帰結しない、「複雑でインターセクショナルな描き方」がなされているというのである。
たとえフェミニズム的な観点に立ったとしても、「大きな物語」に吸着されてしまえば、彼女たちは家庭的で自己犠牲的な「無力な犠牲者」にしか見えないかもしれない。だが、本書は、「無私であること」と「ケアすること」における関係的な能動性との間の差異に注意を払いながら、重要な場所に配置され、存在感をもって描き出される女性登場人物たちが、ケアの実践者であることを析出し、さらには、人造人間であるクリーチャーが、自らの傷つきやすさを訴え続ける声をもち、ケアの実践によって他者とつながろうと努力する過程を生きたことを、ケアの倫理からとらえ直していく。そこに現れるのは、「ケア実践や非暴力の力を肯定していた小説」としての『フランケンシュタイン』である。
本書を読み、ケアと非暴力というキーワードから改めて「私」を取り巻く世界を眺め返したとき、つながりあった他者たちとの関係のなかから、物語の見えにくかった姿を発見することができるはずだ。(ないとう・ちずこ=大妻女子大学教授・日本語文学・ジェンダー研究)
★おがわ・きみよ=上智大学教授・ロマン主義文学および医学史。著書に『ケアの倫理とエンパワメント』『ケアする惑星』『翔ぶ女たち』『世界文学をケアで読み解く』『ゴシックと身体』など。一九七二年生。
書籍
書籍名 | ケアの物語 |
ISBN13 | 9784004320715 |
ISBN10 | 4004320712 |