2025/03/21号 5面

最近

最近 小山田 浩子著 川崎 祐  父が倒れた。一二月だった。脳の疾患だった。母の話では難しい手術になるとのことだった。急遽私は帰省した。病院では「新型コロナウイルス等感染症対策」のために面会時間と人数が厳しく制限されていた。手術は嫌だと父は言った。私は父を説得した。以前似たようなことがあったと私は思い出した。二〇二〇年の夏だった。私は父にかれの歯科医院の一時休業を求めたのだった。担当医は放置すれば死に至ると私たちに告げた。父が怯むのがわかった。家族が一同会していた。ここまでに二〇年ではきかない時間が流れていた。何があっても私たちはあなたを支援します、と母は言った。父の顔の強張りが解けるのがわかった。父は言った。多数決を取ろう。手術をするかしないか。父以外が手術をする方に手を挙げた。  『最近』を読み進めながら私は以上のことを断続的に思い出していた。この連作には一組の夫婦とその近親者のコロナ禍の日常が丹念に描かれている。期間はコロナが収束の気配を見せ始めた頃からそれがなし崩し的に終わったとされる頃まで。特徴的なのは読点と改行を極端に排した窒息しそうな高密度の文体と時制の混濁だろう。語り手の現在が彼・彼女らの内面や過去の出来事の回想へとシームレスに移行して再び現在へと自然に接続される。  語りと時制の濁りは語り手の緊張状態のなかで生じてもいる。例えば「赤い猫」では夜中病院に救急搬送された配偶者が戻ってくるのを待つ間に生じる語り手の心の動きを描いているが、彼女は切迫した時間のなかで子どもの頃に見た救急車で運ばれる誰かとその傍らで泣く少年を思い出し、後に同級生となるかれと帰宅路を一緒に歩いた記憶をいつしか回想している。しかしここではプルースト的な想起の契機は均されており、現在と過去は地続きに語られている。日常の細部もこの上なく丁寧に描写されている。そのことで日常の持つ奇妙が浮かび上がるのだが、小説は奇想には転ばない。寓話によって閉じられることのない小説は読者に想像の余白を残す。稠密な文体と混濁する語りの時間は残された余地において読者=あなたがコロナ禍の日常を思い出すことを自然に促す。小説は小説として完成しながら、読者=あなたの日常が読者=あなたに再び読まれることもまた企図しているのだ。  末尾に置かれた「えらびて」を参照しよう。この短編は他の作品とは語りの位相が異なる。語り手は連作を構成する人物たちの関係圏にはおらず作者その人をモデルにしたような三家本家の「私」である。その位置からコロナ禍の最終盤の祭りの一幕が捉えられる。多くの人が行き交う祭りの会場では会話は会話にならない。種々雑多な無関係の会話が耳を侵し大量のノイズになって鳴る。同様に出来事も断片的にしか見えない。「私」は友達と会場に向かったはずの娘が一人でいるところを見つける。泣いているのだろうか? どうして? いじめられているから? わからない。そのわからなさを抱えながら帰宅した娘を何も言わずに迎い入れる様子をこの短編は描く。このとき、語り手と読者は出来事のわからなさを共有している。『最近』はだから小説的試みに満ちた小説と言える。それはコロナ禍が終わったとされる地点からあの頃の日常の経験をわからなさを読者と分有しようと試みている。  かように高度な小説的試行は、その実、この時代の綻びや不協和音への鋭意な認識に支えられてもいる。小説に不意に描き込まれる労働問題、格差、国葬反対デモ、デモへの冷笑。これら社会的事象の、この、小説的企みに満ちた小説への侵入は日常が既に破綻しつつあり私たちはそれを多大な努力を払って辛うじて維持・反復してきたことを明かしてもいる。そしてコロナ禍とはそのスペクタクルな露出でもあった。それはだから未だ続いている。五年前、私は父にかれが三〇年続けた歯科医院の休業を迫った。あのときから地続きの現在がまだ終わってもらっては困る。コロナ禍の以前も以後も続く「本当に平凡で当たり前の日常」を繕い、慈しむように描いた小説家が、小山田浩子が居てくれたことを喜びながら、私はこの連作が私に想起させた私の「日常」を今も読んでいる。(かわさき・ゆう=写真家)  ★おやまだ・ひろこ=作家。「穴」で芥川賞を受賞。著書に『工場』(織田作之助賞)『穴』『庭』『小島』『パイプの中のかえる』『小さい午餐』など。一九八三年生。

書籍

書籍名 最近