2025/06/06号 5面

警察官の心臓

警察官の心臓 増田 俊也著 蔓葉 信博  焼け付くような夏の愛知県岡崎市、腐敗した老女の死体が溜池から発見された。多数の刺創が残されたその老女は、衣服などから風俗経営者の土屋鮎子と判明する。その後の捜査で、彼女は大手テレビ局のアナウンサーとして活躍、結婚を機に引退したものの、離婚後は性風俗業界に足を踏み入れていた。そして七十六歳まで極貧のなか、現役で客をとっていたというのである。  愛知県警本部捜査一課の湯口は、相棒となった岡崎署生活安全課の係長・蜘蛛手の独自の捜査方針に振り回されながらも、土屋鮎子の半生を少しずつ明らかにしていく。それは男性社会に苦しむ女性たちの姿でもあった。  著者の増田俊也は二〇〇六年、中日新聞社の記者生活のなかで『シャトゥーン ヒグマの森』で第五回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞して作家デビュー。二〇一二年には『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』で第四十三回大宅壮一ノンフィクション賞と第十一回新潮ドキュメント賞をダブル受賞したほか、『七帝柔道記』や『北海タイムス物語』といった自身の体験を材にした小説をものしている。この『警察官の心臓』は著者初の警察小説なのだが、事件の迫力や綿密な取材による厚みだけでなく、増田の父が警察官でかつ自身も警察官を志して採用試験を受けるほどであり、その熱意を込めた一作だ。  『警察官の心臓』の前半、とぼしい手がかりしかなかったにもかかわらず、岡崎署をあげてのしらみつぶしの捜査が続けられる。たとえば彼女の過去の所属先を調べては、相手にした客ひとりひとりを確認するという、砂浜から落とした指輪を見つけるような作業である。捜査陣は徒労の多いこの作業を続け、土屋鮎子の約五十年の日々を紐解いていく。この圧巻の捜査にも驚くが、蜘蛛手の独自捜査はそれに輪をかけるものだ。蜘蛛手は捜査でわかったことを事細かに大学ノートに記載していく。まわりから変人と思われている蜘蛛手だが、実際はかなりの知性派で、終盤の犯人特定の際に「帰納法からのわしの筋読みじゃ」と述べるほど。そして大量の大学ノートに記されたあれこれが最後に犯人へとつながるのだ。読者が謎解きに参加するようなミステリとは異なるものの、小さな事実を積み重ねて、事件の真相を見定めようとする姿勢は共通で、謎解き趣味の読者にも強くお勧めしたい。  また、ミステリのサブジャンルであった警察小説は、今世紀初頭から一大ブームとなったわけだが、その隆盛の立役者の一人が本書に惹句の言葉を寄せている今野敏である。今野は多くのシリーズ作で警察の集団捜査としての魅力やその困難を描いてきた。真相を突き止めようとする姿勢とは裏腹に、こうした警察組織自体が時には問題を生み出していく。  そうした警察の魅力と困難については『警察官の心臓』も等しく通底している。本部と所轄、担当同士のライバル意識、男女間のトラブルなどが重なって、本来の目的からともすれば逸脱してしまう。作者はそうした人間関係で起こりうる軋轢から目を背けることなく、丹念に描き出す。土屋鮎子殺害事件の構図は、わかってしまえばシンプルなものだが、組織や集団のしがらみで生まれるものを幾重にも重ね、分厚い層と化している。そのため最初はとっつきにくいかもしれない。だが、読み終えれば圧倒的なボリュームのハンバーガーを食べ終えたようなすがすがしさを覚えることだろう。そして、圧倒的な肉感と他の具材とあいまったうまみは、ほかにはかえがたいものがあるはずだ。  ただ、現実には組織と個人の軋轢は終わることがない。警察組織もそうであるし、視野を広げれば、国家間でも歴史と正義と尊厳とが混沌たる様相を呈している。できうることなら、人の営みが生む様々な問題について、思いを馳せる一冊としていただきたい。(つるば・のぶひろ=ミステリ批評家)  ★ますだ・としなり=作家・名古屋芸術大学客員教授。『シャトゥーンヒグマの森』で「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞しデビュー。著書に『七帝柔道記』など。一九六五年生。

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