淀川長治
北村 洋著
大森 さわこ
日本を代表する映画の批評家であり、テレビの解説者として知られた淀川長治氏の人生と仕事をふり返った本である。著者は『敗戦とハリウッド』でも淀川氏に言及していた北村洋。アメリカの大学で教鞭をとる研究者である。淀川氏を「日本のモダンボーイ」と考え、その生から死までがたどられる。歴史学が専門の著者ゆえ、読み物的な評伝ではなく、淀川氏の行動と彼が生きた時代の社会や文化をクロスさせた「歴史の教科書」として構成されている。
淀川氏が映画好きとなった神戸の街から始まり、家庭環境や学校での行動が克明に描写され、仕事先となった大阪や東京に舞台が移る。映画会社に在籍中は宣伝部として「駅馬車」を大ヒットさせ、戦後は「映画の友」の編集長となる。そして、60年代はテレビの「ララミー牧場」を経由して「日曜洋画劇場」の名物解説者となる。まさに「伝道師の淀川長治ができるまで」が、当時の時代背景をまじえながら細かく記述され、氏の歩みはよく分かる。特に「映画の友」のくだりは興味深い。ただ、氏が批評家として精力的に活動した1980年代以降の歴史や文化の描写はあっさりしていて、淀川氏にとって意味のあった批評界の革命児、蓮實重彥との仕事についても深い分析はない。また、氏と他の同世代のモダンボーイ的な評論家、植草甚一、双葉十三郎、野口久光らとの資質の比較もないため、横への広がりが乏しい点も気になった。
映画もジョン・フォードのようにオールドハリウッド系映画と淀川氏の関係は詳しく記述される。そうした映画が氏を作ったと考えているようだ。そのせいか、60年代後半のニューハリウッド系映画やヨーロッパ映画に関しては描写がそっけない。たとえば、第8章に淀川氏が人生で最も愛した映画の1本、「ベニスに死す」が登場するが、主人公の職業が原作通り「作家」と書かれている。この記述は誤りで、映画版は「作曲家」(この脚色が映像化の重要なポイントだった)。抜粋された文章も、少年や映像のきれいさや「美に殉じた残酷美」など、映画の宣材(プレス)にありそうな箇所が選ばれ、淀川氏がヴィスコンティ監督の神髄に迫った部分は抽出されていない。
また、『俺たちに明日はない』や『カッコーの巣の上で』の評から氏の批判と受け取れる言葉が選ばれ、こうした映画をまるで評価していないような印象を残すが、氏のベストテンを調べると両作品とも入っていた。後半に出てくる批評の抜粋集は、氏の評論の本質をとらえていない文章も散見され、その作品選択や書き方にもかなり疑問が残る。濃密な前半と比べると、この部分は軽い印象を残す。
筆者自身は80年代以降、映画評論家となり、淀川氏と共通の映画誌に寄稿し、試写室では氏もお見かけした。そして、この本から浮かぶ健全さとは異なるイメージを淀川氏に抱いている。ケン・ラッセルやピーター・グリーナウェイなど、英国の異端系監督への淀川氏の傾倒と好みが重なるところもあり、氏のエキセントリックな映画の批評に共感した。さらに女の業や人間の性を描いた文学的な映画への切り込みにも感銘を受けた(80年代に書かれた「三人の女」評は衝撃的だった)。また、氏の文章には独特のユーモアセンスや茶目っ気もあり、そこも好ましく思った。
評論家の川本三郎氏は、淀川氏の文庫「映画が教えてくれた大切なこと」のあとがき(名文!)で、母親の文化的な影響を受けた彼の本質は「たおやめ」ぶりにあり、「人間の奥の奥にあるエロスの魔性を知っていた人」と書いていたが、筆者も賛同する。ハリウッド映画で育った彼は純粋さやヒューマニズムを持っていたが、一方、その根幹には異端性、辛口の毒やエロスへの嗜好性もあり、主にヨーロッパ映画の文章でそうした個性が生きた。人間の深層心理に対して鋭い観察眼を発揮し、映像から繊細な心の機微も読みとった。ひじょうに多面的な顔を持ち、個性的な文章家であり、その本音は批評文に宿ると思う。評論を書く人の人生は、実人生ではなく、文章(=映画の解釈)の中にこそあると考えるからだ。ただ、この本はこうした彼の批評の本質や人間性を分析することが目的ではなく、彼がいた時代を追う「歴史の教科書」なのだろう。その結果、どんな淀川氏が見えるのか? 筆者が知る氏は大空を自由に飛ぶ生きた鳥だったが、ここでは博物館に陳列された剝製の鳥に思えた。文献リストを見ると、多くの調査を経て書かれた本であるようだが、映画批評を深く読み込むことのむずかしさについても考えさせられた。(おおもり・さわこ=映画評論家・ジャーナリスト)
★きたむら・ひろし=ウィリアム・アンド・メアリー大学准教授・歴史学。著書に『敗戦とハリウッド』、共訳書に『フィルム・アート』など。一九七一年生。
書籍
書籍名 | 淀川長治 |