2025/12/26号 3面

サッチャー

サッチャー 池本 大輔著 小堀 眞裕  マーガレット・サッチャーは、チャーチルとともに、英国史における最も有名な政治家と言えるだろう。それだけに、既に英語及び日本語でもサッチャー評価に関する文献は非常に多い。本書を書くためには、そうした先行研究を踏まえる必要があり、著者の苦心の跡がよくわかる一品となっている。  第一に、本書は、サッチャーに関して通俗的に言われてきたポイントから、さらに一歩踏み込んで、人間サッチャーを描くことに成功している。裕福な家庭ではなかったゆえに学校からラテン語の個人指導を控えられた点や、サッチャーの「元彼」の存在や、デニスとの結婚を成り上がり婚と見られた部分など、従来はあまり日本語文献で言及されてこなかった点が多数描かれている。  著者は、日本における高市早苗総理の誕生を予期したわけではなかったと思われるが、重ね合わせると興味深い記述もいくつかあった。例えば、高市早苗は睡眠時間がかなり少ないと言われている。本書によれば、サッチャーが政治家として成功した理由の一つは、「短い睡眠時間でもやっていけたことだ」と指摘している。サッチャーを狙ったブライトンのホテル爆破テロの時に、爆発自体は上階であったが、彼女の部屋のバス・ルームもかなりの被害が出ていた。しかし、サッチャーは、午前三時の爆発時には翌日の党大会演説原稿の仕上げで机に向かっており、大きな被害を免れたと言われている。高市総理も、自身初の予算委員会の答弁準備を当日の午前三時からスタートさせたと報道された。健康を考えればいいことではないかもしれないが、互いにショート・スリーパーであったといえよう。  また、高市総理誕生以来、彼女はフェミニストなどから男性社会に追随して出世したと批判されることが多かった。本書では、しかし、「サッチャーは男性社会に同化することで出世したと言われることがあるが、これは事実に反する」と記している。当時のサッチャーは、その努力と勤勉さによって「男性の同僚から煙たがられる存在になっていた」と述べ、むしろ詳細な知識で「色々な問題に口を差し挟み、扱いにくい」と評価されていた。たしかに、「内閣における唯一の男性」と揶揄されたこともあったが、彼女の努力と勤勉さを、単に男性社会への同化と単純化することができない点を、本書は的確に指摘している。  第二の本書の特徴は、重要な先行研究や、英国公文書館やレーガン図書館などの海外の一次資料を読み込み、その結果、とくにサッチャーと欧米各国首脳とのやり取りを詳細に明らかにした点である。新書という媒体は通常、一般読者向けに書かれることが多く、その点で、専門的な議論をするのはかなり難しい。しかし、本書は、そうした専門的議論をうまく整理し、一般読者が読んでも理解できるように書かれていると言える。  その結果、英国の外交関係というと、米国との「特別な関係」がクローズアップされる傾向があったが、本書では、とくに中距離核兵器と短距離核兵器の削減問題において、英国の国益をめぐって、米レーガンや独コールらと渡り合った点について、従来の研究より一歩踏み込んで明らかにしている。  この点は、この二〇二五年の日本において、自維連立政権が発足したことから見ても興味深い。サッチャー政権は、有名な政治学者アンドリュー・ギャンブルが命名したとおり、「自由経済と強い国家」と表現されることも多い。いいかえれば、新自由主義と保守主義と表現してもよい。一方において、高市総理が理想とする安倍政権は規制改革に関してそれほど進めなかったが集団的自衛権行使可能な「平和安全法制」を制定したことで、保守主義重視であったといえる。他方、維新は「身を切る改革」に象徴されるように新自由主義重視だ。本書が明らかにしたところでは、サッチャーは為替管理の全廃や民営化政策の促進などにかかわっては、「改革が政治的に受け入れられるかどうか慎重に判断し、石橋を叩いてわたる政治家であった」とした。これら新自由主義的改革も、拙速に進められたわけではない。他方、ソ連の核の脅威から英国を守るという点においては、従来知られていた以上に、水面下で一貫した外交努力を行ってきた。今日振り返ると、「核兵器全廃」にしても、ドイツ統一にしても、進歩的方向であると評価されるかもしれないが、当時のサッチャーは、それにより通常兵器で勝るソ連側が欧州の安全保障で優位に立つ危険性を憂慮し、レーガン、ゴルバチョフ、コールらに対して抑制的に対応するように動いた。つまり、どちらかといえば、サッチャーは、より保守主義重視の姿勢であったと、本書は評価しているとみることもできる。  今後、高市政権が、安全保障重視、経済成長重視の保守主義的方向を強めるのか。社会保障関連予算削減などの新自由主義的方向を強めるのか目が離せないが、それを踏まえながら、本書を読むということも面白いと考える。  最後に、日本における新書が、サッチャーをどう描いたかについて触れておきたい。サッチャーに関する新書と言えば、一九八八年の森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』(岩波新書)がある。森嶋通夫は当時LSEの教授であり、まさに英国在住者の視点から、サッチャー政権をかなり批判的に描いた。森嶋は、サッチャー改革を、知識人の左傾や企業者精神の後退を巻き返す「シュンペーター反革命」と呼んだ。彼は、あえて同時代を描くことを「スリリング」であると評価した。  二〇世紀初頭にオックスフォード大学院で学んだ本書の著者は、対照的にサッチャーを数十年後に題材にし、多くの先行研究と最新史料に立脚した。著者は言う。「歴史とは、過去と現在の対話なのである」。著者によれば、サッチャーの自己責任的改革は、「エリート」を敵とみなすポピュリズムに取って代わられた。  一九八八年と二〇二五年のサッチャー評価を比較するという視点で読むのも、意義深いと考える。E・H・カーも論じたように、実は歴史は、その描き手の時代の問題意識によって作られる。と同時に、読み手も時代に拘束される。移民が各国で問題視され、自国ファーストが席巻する現在から、読み手はサッチャーをいかに評価するであろうか。(こぼり・まさひろ=立命館大学教授・比較政治学)  ★いけもと・だいすけ=明治学院大学教授・ヨーロッパ統合・ヨーロッパ国際関係史・イギリス政治。著書にEuropean Monetary Integration(邦訳未刊行)、共著に『イギリス現代政治史』『欧州統合史』『EU政治論』『政治学』など。一九七四年生。

書籍

書籍名 サッチャー
ISBN13 9784121028792
ISBN10 4121028791